第13話 ウサギと三人の私
チャイムが鳴った。コグレ君は「ごめん、次の授業は単位ギリギリなんだ。行ってくる!」と立ち上がった。
「じゃ、また……ね?」
彼は少し寂しそうに微笑んで言ったけれど、その心の奥には、もっと深い何かが隠れているような気がした。
「うん」
そうとしか言えなかった。今は。
走り去っていく背中がやがて消えてしまうと、私はスマホに視線を落とした。再びLINEを開く。アイコンは大きなくまのぬいぐるみだった。よくショッピングモールとかでイスの上にくたっと座っているタイプのやつだ。彼の家には居なかった。あのサイズを見逃すはずはないし、たぶん、今の彼の所有物でないことは確実だ。
モヤっ。
元カノコンプってこういう感情なのかな、と考えてみる。仮想敵は私の中で肥大していくばかりで、面と向かって話をしたり説得したりもできない。そのせいで、苛立たしさだけが募る。そもそも、話が通じる相手なんだろうか。
彼をボロボロに――私は中辻君の立場でモノを見てしまっているけれど、それは早くも彼を自分の身内として認識しているからで、第三者の視点に立てば、彼にも落ち度があったのではないかと勘繰って然るべきだ。私は絶対的味方でありたい。でも、彼の全てを肯定することが、果たして彼のためになるのかどうか。
〝どんなあなたでも、私は隣にいるよ〟
それは目の前から消え去らないという意味で、転落していくことを良しとするわけではない。
ふと、涙腺が緩みそうになって、ぐっとこらえた。
彼のことを考えていけば、縁というものの存在に辿り着く。何かと何かが結ばれる、結びつくということには、様々な因果が絡み合う。それは人間関係全てにおいてだ。恋愛だけじゃない。
(私は企業に「選ばれる」存在だろうか?)
選考に落ちれば落ちるほど、私の企業選びは粗雑になっていった気がする。名前に聞き覚えのある、何をやっているのかが何となく分かるものの、実際に入ってからのイメージが全く湧かない、私との相性も不透明な会社に片っ端からエントリーして、選ばれない、選ばれないと嘆いている。
恋愛至上主義のクラスメイト、
企業の知名度が私の価値を決めると思っている節があった。でもそれは、顔が良くてお金持ちで背の高いカレシが欲しいのと一緒だ。他人から見た価値が自分の価値に直結すると思っている限り、私は選考に落ち続ける気がする。
(でも、聞いたことのない会社に目を向けるのは、怖い)
――それは、知らないだけ。
散々キャリアサポート課の人がガイダンスで言っていた自己分析と企業研究の意味と大切さが、今になって自分の中で形を伴ってきた。私はいつも外面だけを見ていた。上辺じゃない、本質。何処にだって良いところと悪いところがある。私が見極めるべきところは、そっちだ。
彼は今、どんな生活を送っているんだろう。
コグレ君になった中辻君を、知らなければ。私はまだ、スタートラインにすら、立っていない。可能なら、彼を苦しめない形で、ミカさんのことも、知る必要があると思った。
(たとえそれが、今よりあなたを苦しめるとしても?)
また耳元で囁く私がいる。
狭い部屋で、小汚いウサギのぬいぐるみを抱いたまま、私に悪い可能性を提示してくる「良い子」の私。「困らないように」いつも耳打ちしてくる。「やめとこうよ」「きっと後悔する」なんてオトナの言ったことを再現してくれるAIみたいな存在。絶対に彼女の方から良い言葉が聞こえてくることはない。それに従っても良い結果に辿り着くとは限らないのに、彼女の言葉は私に刺さった。
私の後ろに立って、私に囁く彼女を、三番目の私が正面から映画館のスクリーン越しに見つめる。そして私は三番目の私の結論を「自分」の判断とする。
「大丈夫。まだ。もっと辛くなったら、頼るかもしれないけど」
ウサギを抱いた少女の名前は、アイセ。私の絶対的味方をしてくれるために私の脳が作り出した自己防衛プログラム。でも作成者が私だから、性能がポンコツなのだ。お酒はアイセが現れにくくしたり、逆に頻繁に現れたりさせる。アイセを成長させることができるのは私だけ。そして私が彼女を厭う間は、それは叶わない。呼んでも出てくることはない。少なくとも、今は。
思いつくままに実行する。でもそれだけではダメだ。一つ一つ確実にタスクをこなす。そのために、やるべきことを考えて、書き出す。完璧は目指せない。
(今の私がすべきことは何だ)
スマホのタスクアプリを立ち上げて、上から順に書き込んでいく。
①今の小暮君の情報を正確に知る
②ミカさんについて調べる
③記憶がよみがえった際のリスクヘッジ案を考えておく
アバウトだ。でもこれ以上具体的に考えれば、さらにここに立ち止まることになる。
②と③については今どうこうする手段が思いつかない。だから①から始める。中学時代の友だちと何人かは連絡がつくから、そこから始めよう。
「久しぶり。突然だけど、中学の時に一緒だった中辻君って覚えてる?」とだけ書いたメッセージを一番仲の良かった子に送ると、スマホをカバンにしまって、立ち上がる。ミカさんになりすました私であっても、愛世としての生活もあるのだ。
「できる気がしないな、この二重生活」
暗いことでもワントーン高い声で口に出せば、意外とまだ何とかなる。
「またね、アイセ」
狭い部屋のドアを閉めて、背を向ける。
私は私の行動権を完全に掌握して、現実で生きていく。
こういうタイプの脳のつくりを何と呼ぶのか、私はよく知らない。きっとアルファベットの羅列でなんたら障害とか名前があるのだろう。知ってラクになる人もいるだろうけれど、私は多分、ガックリする方だから、知らないでおく。
「さあて、嫌だけど、お祈りメールに向き合うところからリスタートだ」
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