第12話 2×2

「あ、あの日、一緒にバーで吞んだ日、山頭火の句集見せてくれたよね」

 一番手っ取り早いのは「苗字は中辻?」と聞くことだ。でも、それだと失敗した時に、ジェンガみたいに全部が崩れ去ってしまうようで、怖くてできなかった。頼っているというか、縋っているというか、心の柱にしつつあるのは、間違いなかった。

「うん、見せた見せた。ミカは最初、サントーカ? ってサッカーのチーム名みたいな聞き返し方したけど」

 ああ、確信した――中辻君だ。この人は。

 でも、それだけに不思議さが募る。呑んでいた時には私のことを「愛世さん」と呼んでいたわけで、それがどういうわけか、夜が明けたら「ミカさん」に変わっている。そういう遊び、というようには全く見えないし、彼は本気で私を「ミカさん」として見ているか、見ようとしている。

 私がただの面食いならそれで良かったのかもしれない。あるいは、病みきっておかしくなっていたのなら。

 抑鬱状態がそれほど強くなく、現実に向き合おうとする気持ちがほんの僅かに湧いている時は、まともな物の考え方をしてしまうし。

 そういう状態だと、自分を覆う薄暗い影をできるだけ晴らしたく思う。

 だから、あえて昔の呼び方をすることにした。ミカさんではなく、私として。

「ねえ、中辻君、、、、山頭火の俳句の意味は、ちょっと分かるようになった?」

 彼は一瞬フリーズしたようになって、それから僅かに目をそらした。

「……何から話せば良いだろう」

 サァァ、と風が吹いて、彼の長い前髪をさらう。何かが、違う。私の知る彼と、目の前のこの人は。

「良いよ、何からでも。私には時間、いっぱいあるから」

 嘘だ。時間なんてちっともありはしない。お尻に火がつくどころか、大炎上中だ。親にはかじるほどのすねはない。貧乏とまではいかないけれど、かといって就職浪人をできるほどの余裕はまるでない。

 だけど、今は目の前の、この人の話を聞いてあげたい。――たとえそれが、逃げの理由なのだとしても。

「……俺は記憶の繋がりがないんだ」

 私がとても素直に分かっていない顔をしてしまったからだろう。彼は思案するように眉根に皺を寄せると、「生まれてからある時期までの記憶をAとする。で、その時から現在までの記憶をBとしよう。ここまでは良い?」

 私は頷いた。

「そのAが俺にはないんだ」

「具体的には……いつまで、なの?」

 ああ、答えに近付いている。ドアが少しずつ開いていくような音が聞こえるような感覚。

「ミカ――たぶん、元カノになるのかな、と別れてから……。若干の揺れがあって定まらないけど、そうだね、半年くらい前だろうか」

「中辻君ではある、んだよね」

「ああ、まあ、一応そうではあるんだけど、中学の時に親が離婚して、俺は母さんと暮らすことになったから、旧姓の小暮なんだよ。それも記憶じゃなくて、色んな人に聞いたり記録してあった情報から吸い上げたものだけど」

 コグレユズル。それが今の彼の本名。そうか、女の子じゃなくても苗字が変わる理由なんていくらでもあって、自己の同一性すら怪しい瞬間だって容易にあるのだ。

 記憶喪失。お話の中の出来事だと思っている節があった。でも実際に現実のことで、それもすぐそばで起きる可能性のあるものだった。

「どうして記憶がなくなってしまったのかは、聞いても良い?」

「ミカと何かあったから。何かは知らないけどね」

 鋭く突き刺すような眼。丸井君が見せてくれた写真に見えたのと同じ、凍てついた雰囲気。そうか。彼は、ミカさんに殺されてしまったんだ、一度。

「でも、きっと大丈夫だ。こうやって今、君がいてくれる。俺はそれで良い」

 良くないよ、とは言えなかった。今の彼に語りかけることのできる権利を持っているのはきっと世界でたった一人、ミカさんだけで、私――田中愛世は、最早彼の中には存在すらしないのだから。正直に自分のことを打ち明けたとして、それで救われる人はいない。そのことが分かってホッとしたのと同時に、罪深さを背負っていくことの重みで、またどっと気分が重くなった。

 就活。現実。何度もそこに引き戻される。

 そして、ふと、あることに思い至った。

〝悩んでるのはまた就活のこと?〟

 あの夜、就活の話をしたかどうかは定かではないけれど、多分、していない気がする。そこは私の一番ナイーヴな部分で、その日会ったばかりの人間に、いくら気を許したとしても、言いはしなかっただろう。身体の方は、正直、分からない。もうどうなったって構わない、というなりふりのなさがあったような気もする。

 だとすれば、ミカさんもまた、私と同じように就活のことで深く悩んでいたのだろう。

 彼の意識がどれほど信用できるものかは分からない。明らかに私をミカだと思って話すような瞬間もあるし、私が別人だと分かっているような節もある。

「ねえ、この話って、他に誰が知ってるの?」

「心療内科の先生と、一応、母親。後は……覚えてない」

「要するに、話したかもしれないし、話してないかもしれない、ってこと、ね」

「薬の副作用でもあるし、心理的なショック反応でもあるらしくて、正直、自分じゃコントロールできない部分もある。今自分を動かしているのだって、過去と地続きの自分なのか、新しく芽生えた自分なのか、ハッキリしないんだ」

 仮に過去の彼を中辻君、今の彼をコグレ君だとしよう。私(ミカ)がよりを戻したところで、それはもう、全く別々の二人が、おぼつかない仮面カップルを演じるようなもので、でも素性を明かしても、埒があかない。そもそも私をどうしてミカさんだと認識しているのかはまだ分かっていない。顔がそんなにも似ているのか――あのシールの下さえ見えれば……。でも声かもしれないし、中辻君が受けたショックの度合いによっては、全くの他人である私が、たまたまミカさんに見えてしまっているだけの説もある。それこそ、まるで魔法にかけられたみたいに。ある時突然、私は田中愛世に戻ることになるのだ。

(その時虚しくなるのはあなただけだよ)

 そっと耳元で囁く自分の声を無視して、私はコグレ君の目をじっと見つめた。もうしっとりとしたやさしい瞳に戻っている。私は中辻君の瞳のことなんて知りもしなかった。あの頃、私はちっとも彼を見てはいなかった。でも今は、誰がとか、誰をとかどうでも良い。私の意志で、私はこの人の傍にいたい。

「どんなあなたでも、私は隣にいるよ」

 何者かハッキリしたい気持ちが、今の私には、きっと誰より分かるから。

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