第10話 2の0乗は1

「最近のミスコンってネットで投票出来るんスねー」

 なぜ私は丸井君とスタバにいるのか。話は二十分前に遡る。


「すいません先輩ッ! 文化人類学(2)のノート、貸してもらえないッスか!」

 朝一、ゼミの部屋を開けた瞬間に仏様でも拝むような感じで頼まれたら、周囲の目もあってむげに断れる感じは出せなかった。

「同級生いっぱいいるでしょ。その子たちに頼めば良いじゃん。ノートはまだ家にあるけど、人様に見せられるほど綺麗じゃないというか」

「そんなことないッスよ。ときと――田中先輩のノートはマジで神がかってるって評判ッスもん」

「え、どこから流れてきたの、そんな噂」

「山谷先輩ッスね」

 あー、百合ちゃんか……。去年は前期も後期も試験直前になって泣きつかれたのをよく覚えている。試験が終わったら自分の実力で乗り越えたみたいにケロッとしてたけど。世渡り上手って言葉がぴったりな子だ。

「まあ、そこまで言うなら良いけど……その代わり、何か驕ってね、安いので良いから」

「じゃあ先払いで今からスタバ行きましょ!」

 世の中は強引な方が上手く回るのかもしれない。やろうと思ったところでできないけど。


 そんなわけで、年に二、三回あるかないかくらいの男子と二人で飲食店というシチュエーション。丸井君は自前のタンブラーを持っている「ガチ勢」だった。学内に併設されているとはいえ、ほとんど行ったことのない私にはトールとかグランデとかのサイズ感がよく分からなかった。全部大きいんじゃないの。いっそメガとかギガとかテラとか言ってくれた方がまだ分かる。

「あーこの子可愛いな。付き合いたい。でも四日で飽きそう」

 丸井君が――言い方は悪いけどバカだからか、ミスコンの参加者を見ながらあれやこれや言ったところで苛立ちを感じたりはしない。

「じゃ、そろそろ本題入りましょっか。先輩、この前学校一のイケメンの情報欲しがってたじゃないッスか」

 私は努めて平静を装おうとした。果たして、うまく出来ていただろうか。視線のずっと向こうではつがいの雀が羽ばたいてもっと先に行ってしまった。

「とにかく有名だから、適当に友だちに聞いてみたら写真持ってて、すぐ先輩に送ろうとしたんスけど、そういえば先輩のLINE知らなかったんスよね。で、ちょうど良い方法思いついて」

「じゃ、じゃあ、ノートはただの口実だったの?」

「いや、それはそれでマジッス。西谷センセの説明ちんぷんかんぷんなんスよね」

 多分授業を聞いてないか、心底分からないだけなんだろうな、とは言えなかった。確かにあの授業は難しい。でも、きちんと聞いていれば、理解は出来るはずだ。

「だからこれは取引ってことで。俺は先輩にイケメン君の写真を、先輩は俺に秘伝のノートを」

「いや、そんなタレみたいに言われても」

「ま、先払いって言ったの俺ッスから、はい、これがうちで一番カッコいいって専ら評判のイケメン君ッス」

 丸井君が見せてくれた画面には二人写っていた。申し訳ないけれど、どっちが私の興味の対象かは一目瞭然だった。

 ――そして、彼だった。

 でもなぜか、見つけたという喜びや感動より、違和感の方が先に出た。何て言えば良いんだろう。確かに彼ではある。だけど、醸し出す雰囲気が違う。眠った幼子のような可愛げのあった彼と違って、写真の中の彼は、とても儚げで、冷たくて、この世の何者にも期待していないような哀しさがあった。

「名前も、分かる?」

 私の曖昧な記憶は頼りにならない。丸井君もそうだけど、一致する方に賭けてみることにした。

「いや、名前までは友だちも知らなかったッスね。この写真だってグループLINEで出回ってるのを保存しただけらしいスから」

「出回ってるって……顔が良いのも楽じゃないのね」

「でも良いに越したことないッスよ。自分はどう足掻いても美形にはなれないんで、ただただ羨ましくてたまんないッス」

(悪い奴ではないんだよな、丸井君って……それを補いきれないバカさ加減が、どうしようもないだけで)

「で、この人が先輩の探してる人で合ってました?」

「うん。合ってた。ありがとう。ノートはいつ渡したら良い?」

「じゃあ、木曜とか空いてるッスか? 俺、二限と五限っていう気持ち悪い取り方しちゃってだいぶ暇なんで」

「木曜ね。お昼休み、ゼミに持っていくから」

 そう返しながら、私はいまだ名の知れぬ彼について考え出していた。あれが覚醒した状態の彼の本性だったんだとしたら、やっぱり私は酔わされて連れ込まれたんだろうか。それにしては、私の身体には何の痛みも残っていなかった。精々二日酔いが酷かったくらいで、とてもじゃないけれど酷いことをされたとは思えない。

「あ、この子も可愛いな。ほら先輩、この子アイドルの高田ちゃん似じゃないッスか?」

 他人のそら似、って説もまだ否定できそうにない。この間の抜けた後輩が私を女優なんかと間違えるせいで、いくらでもドッペルゲンガーがいそうな気がしてくる。

「一応さっきの写真、送っておいてくれる? AirDropで」

 何故だかLINEは嫌だった。理由は自分にもよく分からない。でもとにかく嫌だった。たぶん、丸井君とこれ以上仲良くなるビジョンが私の中にないんだろう。

 就活を始めてから人に冷たくなった。人の顔や仕草から、感情を類推するようになった。

 今目の前で「AirDropってどうするんでしたっけ?」と呑気なことを言っている丸井君でさえ、腹の底で何か考えているのではないかと、隅々まで観察してしまう。

「あ、送れたッスよ」

 ようやく私のスマホに現れた彼の背後には、文学部の棟がチラリと写り込んでいた。もしかして、彼は文学部生なのかもしれない。

 全てが狂いだした――それは別に、彼と一夜を明かすよりずっと前、生きていくことに絶望してしまった時から始まっている。

 むしろ、彼はそんな私の人生を完全に破壊して、新しく作り替えてくれるかもしれない。

 壊れてどうしようもなくなってしまった田中愛世ではなく、ミカとして。

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