第9話 縋り

 思い立って調べようと試みたのは良いものの、泥酔した状態で入り、動揺した状態で出ていった家を特定するのは酷く難しかった。マップに履歴が残っているわけではないし、高円寺近くという曖昧な情報から考えるしかなかった。行きつけのバーから高円寺まではおよそ二十分。彼の部屋には宅吞みした後は見えなかったし(それは彼が綺麗好きだと言ってしまえば済む話だけれど)、さらに彼の家で呑み直したということはないようだった。

〝愛世さんってさ、俳句とか読むの、好き? 俺、結構好きで、今でもほら、鞄の中に――〟

 断片的に頭に残る記憶。あの時ちらりと顔を覗かせたのは、間違いなく山頭火の句集だった。それに、まだあの時は「ミカさん」ではなく「愛世さん」だった。

(あー、売れないホストの営業だったりするのかな)

 いや、いくら何でも俳句集をいつも鞄に忍ばせているホストは即日失職だろう。というか、嫌だ、何だか、生理的に。世の中には俳句が好きなホストだってそりゃたくさんいるだろうけど、それにしたって、初手で山頭火を見せてくるのはクズ男臭しかしない。……どうだろうか。そっちの方が案外、文学女子とかには好感触かもしれないけど。

(顔は明らかに綺麗だったし……いや、そうじゃないでしょ)

 北口の改札をとりあえず抜けて、左右を確認する。うん、どっちに行ったか分からない。ランドマークらしきものも地元民ならともかく、高円寺初心者の私に分かるわけがない。もしかしたら、彼の家までタクシーで連れて行かれた可能性だってある。

 ――あれ、ミカ、どうしたの、こんなところで。

 なんて奇跡が起こるはずもなく、往来の中心に立ち尽くす私はいつしか自分が障害物になっていることに気が付いて、傍のコンクリートの柱に身を寄せた。背中をぺたりとつけて、はぁ、と息を吐く。

 あのバー自体は二年ほど前に先輩に教えてもらって、時々足を運ぶ程度だった。それが就活のストレスで頻度が激増して、同い年くらいのバーテンダーに渇いた笑い声で迎えられるくらいになってしまった。それでも、入店時は素面なわけだし、いくら病んでいるとはいえ、彼ほど造形の優れた人物なら、もう一度目にした時にすぐに気が付くだろう。

(うーん。堂々巡りだ。一人で考え込んでたって仕方ないのに、ああもう、どうしてこんなに就活じゃなければ自己分析ができるんだろう……)

 死んだ魚の目をした女にはナンパ男が寄ってくるようなこともなく、いたずらに時間が過ぎ去っていくのを惜しむことくらいしかやることがない。

「はぁぁぁ」と長い溜め息を吐いた時だった。

 近付いてくる影、もしかして、彼――

時任ときとう先輩じゃないスか?」

 一瞬、実にがっかりした顔を浮かべてしまった気がして、すぐに取り繕った。バレてなければ良いけど……。

 同じゼミの一個下の子。どんなシーズンでもパーカーを着てくるから、密かにピーターとあだ名をつけられている。私は映画を観たことがないから、最初はその由来に随分戸惑った。

「違うよ。好い加減覚えてね。私田中だから。時任とかいう珍しい苗字と一ミリも被ってないから」

「でも顔が時任ミリヤとそっくりなんスよ」

「だからって間違えないでしょ、普通」

 そうだ。普通、間違えない。どれだけ容姿が似ていると思っても、二人を横に並べれば、あまりにも違っているはずだ。時任とかいう女優だって一度調べてみたけれど、私なんかと間違えるのは申し訳なさしかない。

 おそらくは、ミカさんと私もまた、それほもどまでに違っているに違いない。だとしたら、どうして私のことを、そんな名前で……。いったい、私とミカさんにはどういう繋がりが……。

「で、人の名前も覚えられない丸井君はなんでまたここに」

「え、だって俺んち最寄りここッスもん」

「あ、そうなの……」

 これは思わぬ収穫なのか、はたまた厄介な事態の始まりなのか。私には段々区別がつかなくなってきた。そもそも、彼と一緒にいたあの日から、全ての歯車が狂いだしたのだ。こんなに短期間に色んな人と話したりするなんて、これまでの私の人生じゃ考えられもしなかった。友だちが全くいない生活を送ってきたとかではないけれど、積極的に関わろうとしたことはない。

 一瞬だけ、中辻君の顔がちらついた。彼がいた頃は、こんなに卑屈ではなかった気がする。

「じゃ、じゃあもしかして、こう、一度見ただけで目に灼きついて忘れられないような、絶世の美少年のお家も知ってたり――」

 何を言ってるんだ私は。ろくろを回すようなポーズまでして……。恥ずかしさのあまり、途中で言葉に詰まってしまった。どうかしてるのは丸井君より、私の方だ。

「男ッスか? 自分、ソッチ系にはてんで興味がないもんで、からっきしッスね。役に立てなくて申し訳ないッス」

「いや、ごめん、今の説明で分かった方が逆に怖いし、本当ごめんね、変なこと聞いちゃって」

「あ、でも――」

 鞄からICカードを出して逃げるように改札を抜けようとした時だった。

「大学でなら、目を疑うようなイケメン、すれ違ったことあるッス。何て呼ばれてたかなー、すいません、また思い出したらLINEするんで」

 これはもしかして、男に飢えていると思われているのでは……。そう思いながら、ICカードを改札機にタッチすると、残高不足で入れなかった。東京の改札は、持たざるものに手厳しい。

(本当、何から何までダメだな、私)

 目を疑うようなイケメン君とやらが、彼だったら良いのに。今は何だか、もう縋るような気持ちになりつつあった。

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