第8話 よみがえる
公園のベンチに腰掛けて、仲良さげにブランコで遊ぶ男の子と女の子を眺めていた。
私がとうの昔に忘れてしまった童心とやらが、確かにまだあそこにはあった。悔しくもなければ、寂しくもなかった。ただちょっと、「まーぜーてー」と言ってみたかった。当然、そんな真似は出来ない。この世界にはもうできないことがあまりにも多すぎる。年を重ねるほどにしなければならないことが増えて、したいことが出来なくなっていく。
「見てろよ、マキ。オレはこんなことだって出来るんだぜ」
小学校中学年くらいの男の子は、ブランコの上によろめきつつも立ったかと思うと、ギコギコとこぎ出した。
「だ、だめだよユウヤ君。危ないよ」
「マキもやってみたら良いじゃん。案外簡単だから。最初はちょっぴり怖いけどな、座ったままぶらんぶらんするのと違う、世界が大きく変わっちゃうほどの新鮮さがあるんだぜ」
好きな少年漫画でもあるんだろうか。キャラクターの台詞に多分に影響を受けたその喋り方に、心の中でクスリと笑いながら、どうせ女の子は呆れるだけで何もしないんだろうな、と勝手に決めつけていた。
「じゃ、じゃあ、ユウヤ君、後ろに立って、私がこけそうになったら、ぜーったい支えてね」
そう言うとマキちゃんは生まれたての小ジカのように震えながら、右足を褐色の木の板の上に置いた。ユウヤ君はぴょいと飛び降りて、すぐにその後ろに立った。
「わーったわーった。オレがちゃんとついててやっから」
小さな手でギュウと掴まれたチェーンは、今にも千切れてしまいそうだ。
それでも、マキちゃんは右脚にふんと力を込めると、左足も乗せるのに成功した。
「ど、どう? できてる?」
「まあ、できてはいるけど、それだとただ立っただけだな。やっぱブランコは、動かねえと」
「えっえっ良いよ、そこまでしなくて。ユウヤ君の言う新鮮さは、もう味わーっ!」
決して力強くはなく、けれど優しすぎず、ユウヤ君はマキちゃんの背を押した。目を瞑りながら必死に耐えるしかないマキちゃんが可哀想に思えたけれど、この二人は将来、良いカップルになりそうだな、とか思ったりした。中学辺りで立場が逆転してそうだけど。
初めは怯えるばかりだった彼女がうっすらと目を開けた時、その表情は私の知る美しい笑顔の内、五本の指に入ると思った。
(あ、そう言えば。中辻君、今どこで何してるんだろう)
五本の指の内の、一番大事なところにあるけれど、普段は思い出しもしないそれ。
中辻君は中学一年生の時に転校してきたと思ったら、二年生になる前に転校してしまった男の子だ。
彼はいつも窓際で本を読んでいた。(当時の私は今より少しだけ積極性が高かったので)席が近くもないというのに、話しかけにいった。長めの前髪で隠れた目元はきっと、今思えば他人の拒絶だったように感じる。
「ねえ、何読んでるの」
「サントーカ」
「さ、サントーカ? 外国の人?」
中辻君の本には布製のブックカバーがしてあって、タイトルはおろか、作者名すらも見えない。
「た ね だ さ ん と う か。日本の俳人だよ」
「ああ! 俳句ね。それなら私だって知ってるよ。『この味が良いねと君が良いねと言ったから、今日はオムライス記念日』みたいなやつでしょ」
私はぴょんと彼の前の空いている椅子に跨がった。あの頃の私にはもう少しお淑やかさを学んで欲しい。
中辻君は眉間にシワを寄せた。凄くコミカルな表情だ。
「それは俵万智だし、俳句じゃなくて短歌だし、一番大事な部分がサラダからオムライスになっちゃってるじゃんか。それだと売れてないよ」
「あれ、サラダだっけ?」
「日本で『サラダ記念日』知らない人がいるだなんて思いもしなかった」
今思えば、私は中辻君に相当馬鹿にされていたんだと思う。でも当時の私はと言えば、中辻君って頭が良いんだなあとそっちばかり考えていた。能天気なまま大人になれていたら、バカなまま成長していたら、きっとずっと、幸せだったろうに。
「サントーカって面白い?」
「その発音だとJリーグのクラブチームみたいだ。種田サントーカ」
彼の笑いのツボはちょっと分からなかった。多分サッカーチームのことを言っていたんだろうけれど、私はボールを相手のゴールにシュートすると勝ちってことくらいしか知らない。体育の時間にやった時は、前に蹴ろうとしたら真横に飛んでいって、友だちの脛に当ててしまって随分と怒られた。確かに正面に飛ぶように蹴ったはずなのに、どうしてそんな方向に動くのか、まるで分からない。
「で、そのサントーカって面白いの?」
「いや、全然分かんない」
あっけらかんと言ってみせるものだから、かえってかっこよかった。私だったら、分からないものがあったら真っ先に回避してしまうから、挑むだけでも賞賛に値すると思った。
「そもそもこの人、お坊さんなのにお酒飲んで全国放浪してたし、俳句のルールもすぐ破るし」
「でも人気なんでしょ? 中辻君がこうやって読んでるくらいなんだし」
「まあ。でもさ、『分け入っても分け入っても青い山』って句の何が素晴らしいかって言われても、正直全然分かんないんだよな」
「めちゃくちゃ山奥行っちゃったんじゃないの?」
あ然、とはまさにこの顔のことを指すのだな、と思った。毛先に紛れた瞳が時折煌めいていたのをよく覚えている。
「あー、言葉通りに解釈したらそう、そうなんだけど、こう、何て言うんだ、文学的な深み? ってのを見つけ出したいんだよ、俺は」
「でもお酒飲んじゃう生臭坊主なわけでしょ? 読み手だけそんな高尚な考え持ってちゃ損だと思うんだよ。いっそちょっとお酒飲んで登山してみたら、気持ち分かるんじゃない?」
「言われてみれば、そう、だね。そうでしか、ないね。じゃあ大人になったら、分かるかな。少しは。その時まではこの本は置いとくよ」
それが中辻君と一番喋った日で、それ以外の記憶は、それより遥かに曖昧だ。修学旅行は班が違ったし、席替えで席が近くなるようなこともなかった。
「ユウヤ君、一緒にやろーよ!」
「良いぜ、どっちがより高くまで行けるか、競走な!」
はっと現在に帰ってくれば、いつの間にかマキちゃんは立ちこぎを難なく出来るようになっていて、幼少期の成長度合いに驚かされるばかりだった。
仲睦まじい二人が、いついつまでもそのままでいてくれたら良いけれど。
ユウヤ君はその内ブランコに乗らなくなって、マキちゃんはユウヤ君と二人で遊ぶようなことがなくなって……。
いつかこの関係さえも何気なく終わって、お互いに今どこで何をしているんだろうと振り返る日が来るか、そんな日すら来なくなってしまうんだろう。
だから『平家物語』みたいな冒頭文ができあがるんだろうか。高校まではどうでも良かった国語の文言が、最近は断片的によみがえってきて、私を責め立てる。
(私はまだ何も為せてない。何にも成れてない)
それなのに、何かを失い、それが必然だと諦めようとしている。
もう一度、彼の面影が脳裏によぎった。顔は全然浮かばない。合っているかも分からない曖昧な声色と、適当にチューニングされた教室の景色がぐちゃぐちゃに再生される。
彼、彼は確か――
「中辻君――中辻、ナカツジ……ユズル」
その名前を口にした刹那、ふいに別の光景が脳内をジャックした。
今度はバーだ。目の前にいるのは彼じゃなく、隣で寝ていた彼。
〝愛世さんってさ、俳句とか読むの、好き? 俺、結構好きでさ、今もほら、鞄の中に――〟
そう言って彼が取りだして見せたのは、種田山頭火の句集だった。
彼は、彼にあまりに似ていた。
(いや、でも、だったらどうして目を覚ました後の中辻君は、私のことをミカって呼んだんだろう)
私が知るのは、精々中学生の頃の声変わりもまだ微妙な頃の中辻君だけだ。山頭火が好きな男なんて別に、山ほどいる。
でももし、彼が本当に中辻君だったのだとしたら、私が家にまで上がり込んだことにも、納得はいく。
名前を間違えたのは、きっと寝ぼけて昔の恋人と勘違いしていたとかで――
とにかく、彼に会って確かめねば。
閉塞し切っていた私の世界に風穴を開けるような感覚に縋りたくて、私はベンチから立ち上がると、ブランコを続ける二人を横目に、公園を後にした。
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