第4話 正しさ
「もう行かなきゃ」
浸って沈んで、ダメになってしまう気がした。それの何がいけないのかは一向に分からなかったけれど、「正しい」と「正しくない」とがあるなら、前者を選ぶべきだと思った。
「俺からは連絡取らないから。ミカが赦してくれるまで」
彼は知らない。私が彼の連絡先なんて知らないなんて。この家がどこかは少し調べれば分かるけれど、ミカさんと二人がどんな関係だったかは分からない。きっと彼女はここにはやってこない気はしているけれど、万が一ということも否定できない。
私はハンドバッグをひっつかむと立ち上がった。
「さっきも言ったと思うけど、ちょっと時間、欲しい」
彼の方は向かなかった。私は自分がどんな顔をしているか分からなかった。
玄関へと続く引き戸を開けて、無造作に脱ぎ散らかされたパンプスに足を押し込んだ。
「今でも、私のこと、好き?」
どうしてそんなことを尋ねたのか。覗き窓を前にして、俯き加減に。
「……好きだよ。ミカが赦してくれなくても」
いったい彼はミカさんに何をしたのか。思い切って問い
「じゃあね」
でも私にはそれが精一杯だった。
ドアの鍵はかかっていなかった。外に出てやっと目をやった腕時計は、お昼過ぎを示していた。
(ゼミ、休んじゃったな)
ゼミは最低限出席して、卒論を出せば単位がもらえる。でも私はないがしろにしたくなかった。それも、こんな理由で。
彼の姿を見ることなくドアを閉めて、私の家よりなだらかで綺麗な階段を下りていった。まだ建ってから年数が経っていないんだろう。
妬み。嫉み。彼がいくつかは知らないけれど、きっと上手く就活だってこなすだろう。真面目に生きてきた私みたいな人間がババを引いて、遊んできた(さあ普段は真っ当に生きているのかもしらないけれど)ような人間があっさり良いところに行く。
涙が滲みそうになって、人差し指の腹でぬぐった。僅かな汗が目に入って痛い。
何のために働くんだろう。
――もっと良いところ行けないの?
――お前なら、きっと大手行けるさ。
歩いていた足は止まってしまった。
大手企業に行ったのに半年でやめてしまった先輩を知っている。素敵な人だった。尊敬できる人だった。次に会った時はやつれきっていた。七年も付き合っていた自慢の彼氏とも別れていた。今は派遣会社で働いていると言っていたけれど、決して幸せそうではなかった。家も裕福ではなくて、四年間奨学金を何とかもらい続けるような人だった。
私だって先輩ほどではないけれど、楽な生活を送ってはいない。
「待って、待ってっ、ミカっ」
声をした方を向くと、息を切らした彼が立っていた。
「忘れ物。こんなに大事なもの忘れてくなんてらしくないよ」
スマホ。
「……ありがと」
そんな肝心なものを忘れても気付かなきゃいけないなんて、もう限界が近いか、限界なんだろう。
「ごめんね、迷惑かけて」
それでも、私はスマホを受け取ると、大学の方に向かって歩きはじめた。ゼミはもう終わっている。授業はもうない。ただ、彼の元にいれば、自分が根底から崩れ去ってしまうような気がした。
愛世どころから、ミカさんですらない何かになってしまう気がした。
もう二度と彼とは会わない。それくらいの覚悟で、私は歩を進めた。
――正しさが何かは分からない。
でも――正しくなさは分かっていたかった。
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