第3話 愛せないもの

 また先に目を覚ましたのは私だった。彼はさっきと同じ体勢で寝ているのに、私は彼の背中に抱き着くような向きに変わっていた。私の寝相、悪いんだろうか。

 私は彼を起こさないようにそろりとベッドから抜け出すと、ベッドの縁にもたれかかるようにして座った。喉が渇いての咄嗟の動きだったけれど、人様の家で変に動き回るわけにはいかないと思って踏み留まった。家主が目を覚ますまでどうすることもできない。

 そういえば私の荷物はどこなんだろう。最低限顔を動かして辺りを見回す。少し先のローテーブルの脇に私のハンドバックが寝ていた。それで初めて、私が昨夜自分の意志でここに来たという自覚が生まれた。誘われたのか、頼ったのか。よほど酔っていたんだろう。全く思い出せない。

 それでもやっぱり、連れ込まれたという気はしない。彼がとかじゃない。私という人間が、すんでのところで踏みとどまる人間だと思うから――せめてそれだけは、守りたいという最後の砦なのかもしれない――。

 私は這って鞄の元まで行った。スマホも入っていた。充電はまだ半分弱残っている。

 見慣れたロック画面、壁紙。記憶にある限りで止まっていたLINEのトーク履歴。友だち一覧に見知らぬ名前が増えていたりはしなかった。

 彼、名前は何て言うんだろう。「ミカさん」になった私は彼に聞くわけにはいかない。ほとんど盗人同然なのに、部家の中を漁る気にはなれなかった。せめて、と目を向けたテーブルの上は綺麗で、私の部屋にならあるだろう郵便物の一つだってありはしなかった。

 諦めて開いたXには、覚えのない呟きがいくつかあった。

 ――私は私を

(なんて書きたかったんだろう?)

 ――落としたものを拾ってくれていた人。

(彼のこと、なのかな)

 呟いた時間はどれも日付が変わる少し前で、おそらく、この家に上がってからだろう。いくらなんでも、夜を跨いでまで自分が外で飲み明かしていたとは思いにくい。そもそも、何もかもが嫌になったのだとして、そこまで酒に入り浸り、見知らぬ男の家に上がり込むような真似を私がするだろうか。そもそも、今日はそれほどストレスが溜まるような出来事はなかったはずなのに。

(じゃあ、どうして私は外で吞んでいたんだろう)

 今日は珍しく大学にしか行く用事はなかった。ここ最近就活でずっとスーツに身を包んで出かけてばかりだったけれど、そんな気楽な日に、お酒を呑みに行くなんて……。なぜ……?

 鞄には財布とポーチ、その他最低限しか入っていなかった。

 スマホを片っ端から見たものの、傷付くようなきっかけは特になかった。メールを開いた瞬間には一瞬心臓を鷲掴みにされるような苦しさを覚えたものの、今日は広告しか届いていない。

 だとしたら、偶然家を出て、偶然彼に出逢って、同衾どうきんまでした……?

 泥酔していたとして、自分とは違う名前を呼ぶ声にしたがって、私は店を出たんだろうか。

(だとしたら、悪いのは私だ)

 そこまで私の心はやられてしまっていたとしたら――壊れてしまった友だちを二人見たことがある。彼女たちには予兆なんてものは見えなかった。ある日突然学校に来なくなったと思ったら、何ヶ月かしてやめていた。一人は高校。もう一人は大学。別の友だちと「全然気付かなかったよねー」と適当に話していた。

 みんな、必死に耐えながら、ある日ボキリと折れてしまっていたんじゃ……。

 理由はどっちも知らない。ただ、ダメになってしまったとしか。学校をやめた後別の道に進めたのか、それを知るほど私たちは仲良くはなくて、聞いたりすることはなかった。

 いや、私の関心が薄かっただけだ。最初は保健室に行ったりしていたかもしれない。不登校やうつ病には微かでも前兆があるはずだ。きっかけを直接知らずとも、ほんのりと差した影に気付けないのは、よく見ていなかっただけなんだ。習ったりネットを介したりして断片的にでもイメージは持っている。それが、自分や自分の大切な人に降りかかってくるとは思っていない――思いたくないだけ。

 少しずつ、少しずつ、私の心には影が忍び寄っていた。限界を超えて、私は押し潰されてしまっていた。身体がふらふらと憩いを求めて出ていたとしても、おかしくない。

 自信がなくなってきた。

(私の記憶は、どこまで正しい?)

「ミカ」

 今度は私が抱きしめられる番だった。

「ミカが安心できる所を見つけられるまで、俺を利用したって良いから。それまで、俺がミカを守ってみせるから」

 彼はまるで私を見ないで言った。彼の胸板に私の顔がうずもれたままだったから。

 それが今は心地良かった。その言葉が、別の誰かに向けられたものでしかなくても、今は私の手元に置いていて構わないというのだから。心を預けてしまっても、良い気がした。

(私なんて――田中愛世なんて、いなくても良いんだから)

 どうせいつか苗字は変わる。名前なんて記号に過ぎない。だったら、アイセがミカになっても、何も困らない。

 繰り返されるほど虚しい、タナカアイセなんて、私だって、要らない。

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