第2話 求められるなら、それもまた
「良かった……本当、良かった……ずっと謝りたかったんだ」
ぬくもりが触れられた箇所からじわじわと拡がっていく。
本来なら嫌がるべきそれが、
「大丈夫、私、怒ってないから」
「いや、怒ってほしいんだ。ちゃんと。俺は、君に決して赦されないような真似をした。でも、身勝手だとしても、謝りたかった。最後に覚えているのがあの日の顔っていうのが嫌だったんだ」
きっと私よりいくつか年下の彼を撫でながら、私は愛世でなくても良いか、なんて思いはじめていた。
――田中愛世です。
――田中愛世です。
――田中愛世です。
――田中、愛世です。
――田中……愛世です。
――田中……愛世です……。
――田中様のご活躍を心よりお祈り申し上げます。
有り触れた苗字に、私以外で会ったことのない名前。求められるということに飢えていた。
でも、それは別に、私でなくても良かった。私という器に注がれた液体にぬくもりを与えてくれるなら、称号は何でも良かった。
(この人が何であっても、私のことなんて全く見ていなかったとしても――)
ふと彼から外した目線の先には、ホコリを被った写真立て。彼と、ミカさん(だろうか。首から上を隠すようにシールが無造作に貼られている)が寄り添ってピースサインを構えた写真が飾ってあった。
私は目を瞑ると、彼の頭を撫でるのに注力しようとした。
彼氏がいなかったわけではない。でもみんなと清いお付き合いだった。私に魅力がなかったのか、初心でしかなかったのか、三ヶ月も保たない恋愛を一つと、男友達の延長みたいな恋をいくつか。
こんなふうに同じ
「俺は、どんな罰でも受けるから」
顔は見えない。ただ右耳の傍でこぼされた音を拾うだけ。どちらか一方が悪い恋愛なんて、きっとない。この人が仮に悪いのだとして、そうなるに至った理由の一端はミカさんが握っていたはずだ。そうじゃなきゃ、あんなふうに写真は飾らないだろう。撮った写真を現像するなんて真似、深く愛していなきゃできない。
(私が私らしくそのまま生きていたとしたら、この人がこんなふうに勘違いしていなかったら、私はこの人に愛されていただろうか)
答えは知っている。否だ。
「簡単に赦したりはできないけど、無下に突き放したりもできないから、少し、時間をちょうだい」
ああ、本当のミカさんが今乗り込んできたら、私のことを何だと感じるだろう。本物が私の頸を締め上げたら、私は抵抗一つせず諦めるだろう。
――でも、きっとミカさんは帰ってこない。
何一つ二人のことは知らないけれど、そんな確信があった。同じ女という生き物だからだろうか。彼がぶつけてきた言葉の波長から察してだろうか。それともはたまた勘か。何かは分からないけれど、多分、ミカさんはもう、彼に対しては微塵も感情を持っていないだろう。少なくとも、未練があったとしても表に出したりするような振る舞いはしない気がした。動くなら、ホコリがかぶるような期間置いておいたりはできない。
こんなにあたたかい人を、放っておくなんて真似が、できるとは思えないし、嫌だった。
もし、気分によって態度が豹変するのだとしても、この瞬間を見てしまって、捨てたりはできないはずだ。
「……分かった」
後悔と嘆息。
私はよほど彼女に似ているんだろう。顔だけでなく、声色や喋り方、振る舞いまで。
ああ、もしかして、勘違いしているのは私の方で、都合よく彼のことをすっぽり忘れてしまっているのだとしたら――はは、そんなお話みたいなこと、あるはずはない。
「もう少し、寝ても良い?」
「ああ、良いよ。俺も寝る、そうしたら」
彼は私に背を向けて、先にタオルケットにくるまった。
私もまた同様にした。互いの好みの寝相はちょうど真逆だった。
(これが二人の定位置だったんだろうな)
他人のフリをして愛される。私、何してるんだろう。
目を瞑ったまま、もうどこにも行かなくて良い日が来たら良いのに。そう願っていたここ何カ月かの願いが叶ったような気がした。
(現実逃避って言うんだよ、こういうの)
分かってる。分かってるけど。
――田中愛世です。
その繰り返しの毎日の中で、私はとっくの昔に壊れてしまっていたんだ。
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