その名前に恋をして

杏珠るる

第1話 記憶のない朝

「はっ」

 朝。

 すー、すーという寝息。

 ドキッという感覚があって、私はギギギと寝息のした方に顔を向けた。

(ひぃぃっ!)

 白目を剥いてしまった。

 だ、だだだだって、お、おおお男の人がベッドにいる。いや、男の人とベッドにいる。な、なんで。なんでだ、思い出せ、いつかのこと――いや、いつのことを。

 田中たなか愛世あいせ、大学四年生。就活のストレスが募って、初めて手を出したお酒が妙に肌に合って、急に気が強くなった私は歌舞伎町のバーに夜な夜な出入りするようになっていた……それが、なんでこんな透き通った肌の青年と同衾することに……。

(思い出せ、昨夜のこと、昨夜のこと……あ、ダメだ、行きつけのバーに入ったところまでしか思い出せない。新入りのお兄さんが……いや、この人じゃない。もっとチャラチャラした感じだった)

 そこでハッとして、おそるおそる下着に手をやった。薬指をすすすと布の下に入れる。毛をかき分けて触れてみる。感覚はいつもと変わらない。いくらなんでも、酔い潰れたとしても、見ず知らずの男性に初めてを預けるほど私は狂って……あぁダメだ、自信ない。エントリーした残り十社の選考結果ばかりが先行して、まともな判断を出来るかどうかには意識が行かない。

(ひぃぃっ!)

 こ、今度は何だ。気が付けば、彼の両腕が私の腰に回されている。

 私は完全に凍りついてしまった。

 痙攣しながら頭を左右に動かす。こんな東京(?)のワンルームの部屋にしては、綺麗な内装によく整理された家具。私の荒れきった部屋とは天地の差がある。

(ああ、嫌だ)

 どうしてこんなに自分はダメな奴なんだろう。

「行かないで……」

 二日酔いの偏頭痛に微かに加わる彼の声。よく見なくても整った顔。とても私より年上には見えない幼い顔立ち。少しだけかかったパーマが可愛らしい。

 思わず私は彼の頭を撫でていた。

「一人にしないよ」

 好きな漫画の台詞。望んで手に入れた私が何を言っているんだって話だけど、どうしても見捨てられなかった。

「だから安心して。私はちゃんと傍にいるから」

 それはきっと私が欲しかった言葉。

 パチッ。

 まるでそんな音がしそうな感じに彼の目は開いた。

「ミカ……?」

(……はい?)

「良かった。ミカ……ずっと心配してたから」

 彼に抱きしめられながら、私は天に昇りそうな顔をしていた。

(ミカって誰だろう)

 人に抱きしめられるなんてこと、いつ以来だろう、そんな明後日の方向の思考を浮かべながら。

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