Chapter 5 Clematis
窓を全開にした車窓から入る夜風が心地よい。昼の暑さの名残を感じさせるけれど、暑すぎず、かといって涼しいわけでもない、常夏の夜風。ハイドラは、バリの夜が好きだ。
正月も三が日を過ぎると、ビーチのカウントダウンイベントや、ニューイヤーの花火目当てに集まる観光客の賑わいも落ち着き、バリの街は、人々も雰囲気も日常に戻っていく。
ハイドラとモモを乗せたタクシーは、夜の街を抜けて、郊外の寺院へと向かっている。よく手入れされた、背の高い椰子の木が両側に立ち並ぶ街中の道路から、野生の熱帯植物が生い茂る山の中に入っていく。木々の切れ間切れ間で、月明かりに輝く海が見える。
寺院に向かっている目的は、ドキョックと呼ばれるバリ伝統のダンスの鑑賞だ。ドキョックとは、男性二人が独特な声とダンスで掛け合いを行い、そのメインの二人のダンサーを男女数十人のダンサーが囲み、二人に合わせた掛け声やダンスを行うもので、カラフルな伝統衣装と複雑なリズムで観光客を虜にしている。
ストーリーのメインテーマは不老不死。大まかなストーリーは、修行により不老不死を目指す僧侶Aと、仙人草と呼ばれる花から作る薬で不老不死を目指す僧侶Bが、お互いの方法を批判し合う。僧侶Aが僧侶Bに偽の仙人草を渡し、偽の仙人草で作った薬を飲み、自分は不老不死であると信じている僧侶Bは、僧侶Aとの無謀な賭けに出て命を落とす。死んだ僧侶Bは僧侶Aのところに化けて出て、僧侶Aは精神を病んで自殺するという話だ。
モモ曰く、「どうせ由来は、どこかのエクスペリの適当なジョークだよ。」とのことだが、ストーリーはさておき、色とりどりの民族衣装で踊り狂う姿は圧巻と、評判は高い。ハイドラの胸は期待で高鳴っていた。
そもそも、バリには幾度も来ているが、観光らしい観光は今回が初めてだ。ハイドラのリクエストを、観光嫌いなモモが承諾したのには理由がある。
モモが、プラハのエリックのアパルトマンに着いたのは深夜0時を回った頃だった。もう二人とも寝ているだろう、と音を立てないようにそっと家に入ったモモを待っていたのは、仁王立ちでモモを睨みつけるハイドラと、恨めしげにテーブルの上で冷たくなったクリスマスディナーだった。
ハイドラはほぼ丸一日かけてディナーを作ったらしく、料理は電子レンジで温めれば問題ないとモモが言うと、ギュッと口を結び、そして無言のまま寝室に消えていった。百年も一緒にいると、ハイドラが激怒していることは何も言わなくてもわかる。ハイドラの機嫌は翌日も直らず、最終的に、モモが帰りが遅くなったことを平謝りし、次の旅の目的地はハイドラが決めることで決着した。
寺院に向かうタクシーの中、モモはほとんど言葉を発しない。モモはドイツに行ってから、少し変わったようだ、とハイドラは思う。スッキリしたような顔をして戻ってきたかと思えば、ぼんやりと物思いに耽っていることも多くなった。一人の時間が欲しい、と時々どこかに一人でぶらりと散歩に出たり、朝はゆっくり寝かせてほしいと、ハイドラが起こしに行っても起きてくれないこともある。そんなモモの変化に戸惑いながらも、ハイドラ自身も、一人の時間を楽しむようになっていた。
タクシーがゆっくり止まる。寺院に着いたようだ。
寺院は切り立った崖の上にあった。石造りの三重の塔が崖の淵に建っており、塔までは石畳の回廊がくねくねと曲がりながら伸びている。ところどころに猿を模った石像があり、それぞれ違った表情をしていてユニークだ。塔の前には円形の広場があり、広場を囲んで簡易な座席が設置されている。蝋燭の炎に照らされた広場は、幻想的で、今から魔術の儀式でも行いそうな雰囲気だ。
ドキョックは最初は物々しく静かに、そして段々と激しさを増していく。最後の方は、ダンサー皆で叫び踊り狂い、迫力のあまりハイドラは怖くなって耳を塞いでしまったくらいだった。
ダンサー達は寄り固まり、一つの生命体のようにも見える。一説によると、不老不死というのは、個々の生物の死を超え、生きとし生けるもの全ての生命に還り、一体となることを指すそうだ。ドキョックも、本当は、死に囚われた哀れな僧侶達の末路ではなく、大いなる生命と一体になることの美しさを描いているのかもしれない、とハイドラは思う。バリにいつまでいるのか分からないけど、少し調べる価値はありそうだ。
「バンクーバーに行くことになった。」と、モモが言ったのは、バリに一カ月ほど滞在し、2月半ばを過ぎた頃だった。
いつものようにビーチに散歩に行こうとしていたハイドラは、外出の準備をやめてモモを見る。またバリともしばらくお別れか、とハイドラは残念に思う。どうやら、長年、カナダでモモの担当編集者をしている女性から連絡があったようだ。
「彼女もそろそろ定年らしい。最後の仕事として、どうしても僕に書いて欲しいテーマがあるんだって。」と、モモは言う。
「カナダ……えっと、ベッカさんでしたっけ?あの、仕事の出来る。」ハイドラは記憶を辿りながら言う。
「うん、そう。彼女は有能だね。カナダで僕の作品がそこそこ売れたのは、正直、彼女の働きが大きいと思うよ。」と、頷くモモ。
「連絡が来たの、久しぶりですね。」
「そうだね。社内でもかなり偉くなってるはずだし、僕のことなんて忘れたと思ってたよ。」
「モモに書いて欲しいテーマって何なんですか?」
クローゼットからスーツケースを引っ張り出しながら、モモは答える。
「安楽死。」
死なない彼女たちと僕 Who wrote who she is? 小森なつき @natsuki0401
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