R愛の詩

ナリタヒロトモ

第1話

Ⅰ 黎明編

 20年が過ぎたのだった。2人の、あの雨のテニスコートの日から20年が経っていたのだった。

 岡島ユキコが帰ってきた故郷はすっかりうらびれていた。

 駅前の商店街はどこもシャッターがしまり、人影がまばらだった。

 昔は城下町として栄えたが、多分その頃がピークだったのだろう、発展においてかれた地方の小さな町、そこに岡島ユキコは帰ってきた。

 大学進学で東京へ出て、2度の結婚と2度の離婚と、結局出て行った頃と同じカバン一つで戻ってきたのだ。ただ歳だけとってしまった。18歳で街を出た岡島ユキコは35歳になって戻ってきた。

この季節は朝からどんよりした雲ばかりの空に、ついに小雨まで降ってきた。岡島ユキコは涙が止まらなかった。

くやしさに打ちひしがれながら声を絞った。

「そこにいるのは分かっているのよ」

岡島ユキコはずっと気が付いていた。東京から新幹線をつかわずに宇都宮線の普通列車で真紺土(*)まで北上してきた。

*架空の町マコンドと読みます ガルシアマルケス 百年の孤独に出てくるマコンドからつけてみました

その間、ずっと見張られていた。大宮で高崎線から宇都宮線へ乗り換えるさいも合わせて乗り換える赤いコートを着た大柄の女を2つ先の車両で感じた。利根川を渡るさいもその香水の匂いを感じていた。

鬼怒川にかかる寒々として橋の上で岡島ユキコは雨に打たれていた。傘もなかった。

岡島由紀子は言った。

「私には何もないの。今夜泊まる宿もないの。お願い。私を拾って。」

そう、そこに西園寺マリアはいた。青いBMWの中、ずっと声を潜め、橋の欄干に仕掛けた盗聴器で声を拾いながら、200m先の表情も読み取れる米軍仕様の赤外線スコープでその表情と唇を読み取っていた。

あまりの喜びと興奮のあまり、下着がすっかり濡れてしまった。

車を橋の手前に停めると、西園寺マリアは岡島ユキコの元に走り、言った。

「おかえりなさい。またあなたに会えるのをずっと待っていたのよ。」

嘘である。西園寺アカネはずっと岡島ユキコを追っていたのだ。高校を卒業して、東京へ進学したさいもずっと岡島ユキコのマンションから1ブロック離れたところに下宿し、就職も、その後の結婚生活もずっと隠れておっていたのだ。その「待っていたのよ」という言葉が正しいのならば、西園寺アカネが待っていたのは岡島ユキコではなく、そう、この時であった。

西園寺アカネは岡島ユキコに近寄ると慰めるようにそっと肩を抱いた。

そして(いったいどのくらい許されるものかしら?)と思った。(抱きしめの延長でキスをするのはどうかしら?そのさいに舌を絡めるのはまだ早いのかしら?)

西園寺マリアは生粋のレズビアンであった。そこに何の迷いもなく、ジェンダーとか言葉の選択もなかった。西園寺マリアは女として女である岡島ユキコを愛していたのだ。真紺土第一高校のころからずっと、20年間も、その思いを処女の中で腐らせていたのだ。

(ようやく手に入った)、西園寺マリアはキスどころか食べてしまいたくなる衝動にかられた。そして言った。

「愛が大きければ心配も大きく、いささかなことも気にかかり、少しの心配が大きくなるところ、大きな愛もそこに生ずるというものだ。」

それは高校生のころ、学園祭で行ったシェイクスピア劇中のセリフだった。

*シェイクスピア 「ハムレット-三幕二場」

それは愛する人を大切に思う気持ちが大きければ大きいほど心配も大きくなることを示している。なぜなら、人は愛する人を失うことの怖さを知っているからである。

真紺土第一高校の思い出は西園寺アカネにとって人生最良の日々であり、今取り戻そうとしている時間でもあった。

西園寺マリアと岡島ユキコは真子登第一高校2年生の頃だった。

今日みたいに雨の降るテニスコートのわきの日よけの下で、急な夕立に2人は雨宿りをしていたのだけど、西園寺アカネは急に「愛してる」と言い、岡島ユキコにキスをしたのだった。岡島ユキコはとまどったようで震えていた。でも西園寺マリアには岡島ユキコが拒んでいないように思えた。西園寺アカネはさらに手を伸ばすと岡島ユキコの胸をまさぐり、さらにスカートの下に手を入れた。

そこでまだ幼かった岡島ユキコは愛よりも怖さを感じ、雨の中、西園寺アカネを残し、去って行ったのだった。

それから20年が経った。

西園寺マリアは傘を手放すとどうしても抑えきれず、岡島ユキコにキスをした。

興奮して胃酸がこみあげて来ていたので、岡島ユキコはひどい臭いを味わい、さらに口内炎をわずらうこととなった。

岡島ユキコは凡庸に生まれ、その凡庸な自分を知っていた。だから高望みすることなく、ずっと慎ましやかに生きて来た。才に恵まれない者がもつ、嫉妬に苦しんだ頃もあったが、年を重ね、自分を知り、ただ平凡な女として生きたいと思ったのだけど、そのささやかな願いもかなわず、離婚の果てに、父親の残した財産もすべて失い、病で子宮すら切除していた。

岡島ユキコは西園寺アカネの胸に身を寄せると、失敗してどうしようもなくなった人生の残り香みたいな我が身を思った。すべての試みは失敗し最後の望みも絶たれたのだ。(*)

*The end by doors

岡島ユキコは一人では生活することもできなかった。この北関東というよりも南東北の土地に戻り、この一回りも大きい女に養ってもらうほかはないのだ。

「好きにしてください。」

岡島ユキコはそう言うともう逃げることはなかった。

西園寺マリアはもう自分を抑えられなった。岡ユキコの胸に手を伸ばすとさらに下へと向かった。

「分かっています」と岡島ユキコは言った。

「でもここでは止めてください。」

西園寺マリアはようやくそこがこの界隈では一番人通りの多い真子登大橋の上だというのを思い出した。

「ごめんなさい。すごく懐かしくて、つい慌てちゃったわ」

と西園寺マリアは言うのだけど、その口からは大量の唾液があふれていて、西園寺マリアのドレスはもちろん、岡島ユキコの口元から胸元まで、まるで水ガラスのような粘性と苛性をもった液体で濡れていた。それは胃酸を含んでおり、岡島ユキコの首筋は赤く腫れ、岡島ユキコはかゆみというよりもかすかな痛みを感じた。

西園寺マリアは母方がロシア人のハーフで欧風かかった美しい顔をあいていた。目はかすかに青く、髪はブロンドだった。鼻はつんと通っており、唇は薄いピンクだけど、その端からは狂犬のようによだれが漏れていた。

20年前、西園寺マリアに憧れていたのはむしろ岡島ユキコであった。

西園寺マリアは真紺土第一高校皆のあこがれの的であった。端正な顔つきとすらっとした出で立ち、頭もよく、運動神経は抜群であった。実際東京大学を卒業して外務省に入っていたし、オリンピックにも2度出場した。岡島ユキコは大勢いる西園寺マリアの追っかけの1人で陰から見守っているだけだった。

だからあの雨の日、テニスコートわきの日よけの下で2人きりになれたのとき岡島ユキコは本当はうれしかったのだ。正直、キスもうれしかった。ただあの白魚のような指が陰毛をかき分けて岡島ユキコの中にはいってきたのが怖かったのだ。

 その日、岡島ユキコは西園寺マリアのどうしようもない性向を理解した。しかし自分自身のことは、学園の女王の異常な趣味の気まぐれの対象となったおそらくは大勢の内の1人であろうと思ったのだった。

 そうではなかった。西園寺マリアにとって岡島ユキコは唯一の半身であった。これから一緒に暮らす中で岡島ユキコは西園寺マリアのすべてを知ることになるのだけど、なぜ自分が選ばれたのか?それだけはとうとう分からなかった。

あの雨の日以来、岡島ユキコは西園寺マリアと疎遠になったが、真子登第一高校在学中も、卒業して三流大学に入って、自宅からどうしても通えない距離ではなかったが、親の反対を押し切って東京で下宿したときも、毎日西園寺マリアの影を感じていた。実際、超望遠レンズと町中に張り巡らされた集音機で西園寺マリアにいつも観察されていたのだ。そしてそれが西園寺マリアの生きる糧であった。

岡島ユキコは三流大学を卒業しても就職先はなく、それでも東京に残りたくてコンビニでバイトしていた。そこへ何度か偶然をよそおい西園寺マリアは来て、「あら、奇遇ね」と簡単な挨拶をしに来ていた。

 結婚式には呼ばなかったが、電報と志が届けられた。言葉は短く、「どうか幸せになってね」とあったが、心にもないことを言っていると岡島ユキコにも分かった。

そして離婚、ぼろぼろになった岡島ユキコを慰めに西園寺マリアはどこからともなく現れ、元夫にギャンブルで使い果たされた親の資産を取り戻すための書類一式が手渡された。またその訴状には必要な内容は既にすべて記入されていた。元夫が破産したので、その役目ははたせなかったが、受理した警察署がうなるくらいきちんと書かれていた。

2度目の結婚と離婚、それはすでに傷ついていた岡島ユキコのとどめを刺すようなものであったが、危機があるたびに西園寺マリアはどこからものなく現れ、喫茶店でちょっとした同窓会をして、テーブルに差し支えない程度の額の入ったバッグを忘れて帰ったりした。そして本当の危機のときには、いつでも通報を受けた警察がパトカーで乗りつけたのだ。

実際いつも西園寺マリアは岡島由紀子の近くにいた。

岡島由紀子の結婚中も嫉妬に狂いながらも、西園寺マリアは岡島由紀子を見守っていた。外務省に勤めながら、西園寺マリアはずっと岡島由紀子を観察し続けた。4社の探偵事務所を24時間で使い、西園寺マリア自身も集音と望遠レンズによる観察に勤めた。それは言い換えると盗聴と盗撮なのだけど、当時微妙になりかけた日米関係を損なうきっかけとならないように、くだらない国会であるが、与党が野党にする質問の内容とならないように、西園寺マリアは言葉の使い方にはいつも気を付けていた。

そして西園寺マリアは岡島ユキコがついに諦めて故郷に帰るのを知ると外務省を辞め、真子登で床用ワックス製造販売会社をおこした。事務次官として国会で答弁をする当日に辞めたので、国会はおおもめとなり、その年の在日米軍費用負担渉は滞り、あわゆく日米安保条約(*)は1960年並のデモがおきるところであった。

*アメリカ合衆国との間の安全保障条約(にほんこくとアメリカがっしゅうこくとのあいだのあんぜんほしょうじょうやく、英語:Security Treaty Between the United States and Japan)は、日本における安全保障の為にアメリカ合衆国が関与し、アメリカ軍を日本国内に駐留させること(在日アメリカ軍)などを定めた2国間条約。いわゆる旧日米安保条約(きゅうにちべいあんぽじょうやく)と呼ばれるものであり、1951年(昭和26年)9月8日の日本国との平和条約の同日に署名された。1960年(昭和35年)6月に日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約(新日米安保条約)が発効したことに伴って失効した。(Wikipedia)

岡島ユキコの幸せを祈りながらも、ケダモノの獲物を狙う容赦ない恋心に苦しめられながら西園寺マリアは20年を過ごしたのだけど、20年が経ち、ようやく西園寺マリアは岡島ユキコを手に入れたのだった。

人生最大の目標を手に入れた西園寺マリアはよだれを垂らしながら岡島由紀子をBMWに案内した。胃酸を含んだ唾液はかつて真子登の名産であった大谷石でできた橋の欄干を焦がした。

そして岡島ユキコは、西園寺マリアはスラックスを履いているのだけど、雨に濡れていないその部分がしっとりと濡れているのが気になった。その部分はかすかに湯気も立っていた。近くにいる犬猫たちは急に発情期を迎え、そのとき真子登橋にいた純真さゆえに戸惑いがちだった3つのカップルは、その夜結ばれることとなった。

西園寺マリアのマンションはJRではなくて、東武線の真子登駅近くにあった。かつての城下町はシャッター街と化しており、2人が高校生活を送った頃よりもずっと寂れていた。

かつて毎年開かれていた夏祭りも今はなく、駅前のおおきな商店街は駐車場になっており、2人が通った真紺土第一高校も今は老人用の介護施設になっていた。

なつかしさの中に寂しさが漂う街をぼんやりと岡島ユキコは見ていた。

今日の日のために西園寺マリアはマンションを買ったのだった。すでに35歳になっていたのだけど、西園寺マリアにとってそれは新婚生活を迎える新居のようなものだった。

10階建ての、真子登にしては大きなマンションで、その10階に西園寺マリアの部屋はあった。日が当たる開けたテラスがあり、明るいオレンジ色のカーテンがかかっていた。

岡島ユキコの服は既に用意され、パジャマも、下着まであった。

サイズはぴったりで、すべては西園寺マリアとおそろいであった。

岡島ユキコは空腹であった。実際、この2日間ほとんど何も食べていなかった。おとといの夜にネットカフェで食べたカップヌードルが最後の食事だった。

空腹は岡島ユキコの人生をますます惨めに思わせた。2日間下着も代えてないし、シャワーも浴びていなかった。髪はぼさぼさで明るい居間に通されると自分に野良犬のような臭いがしていることに気づかされた。

岡島ユキコは出されたビーフシチューに両手を合わせるとゆっくりと食べ始めた。施しを受けなくてならない惨めさもあったが、空腹が何よりもおおきかった。はげかけたマニキュアを隠してスプーンでゆっくりとシチューを食べ始めた。パンも出来立てだった。全粒粉のみから出来たパンは、惨めな気持ちになっていた岡島ユキコに自分も生きていて良いのだと思わせることができた。

西園寺マリアも実際は2日前から新宿、上野、御徒町と、岡島ユキコを追って来たのでやはり何も食べてはいなかった。しかし目の前にいるようやく手に入れた宝石に見とれていて、とても食べる気など起きなかったのだ。

たまらず西園寺マリアは岡島ユキコの胸に手を伸ばした。岡島由紀子はちょっとびくっとしたが、空腹にたまらずシチューをすすっていた。牛肉は柔らかく煮込まれていたのだけど、岡島由紀子は元夫に殴られたさいに歯を3つも失っており、それを気づかれるのが嫌で口元を閉じてゆっくり咀嚼して飲み込んだので、20年も待ったのだけど、この一瞬を待つことが西園寺マリアには出来なかった。西園寺マリアの指は岡島ユキコの胸元に忍び込み、その乳頭をつまんだ。

岡島ユキコは「もう少し待って」と言いたかっただけど、これから仕える相手の気分を害することにならないか心配になり、それが出来なかった。

その代わり、お腹が大きな音を立てたので岡島ユキコの気持ちは伝えることができた。久しぶりにありついた人並みな食事をやせた体が手放したくないと欲したのだった。

だが20年という圧倒的が飢餓の時間を過ごした西園寺マリアはその欲望を抑えることはできなかった。

西園寺マリアの顔は涙と鼻水とおびただしい涎に覆われていた。狂喜というよりも狂気。純粋で迷うことのない、裸の、飾り気もなければ、一糸まとわない、やがてそれは悲劇的な終末を迎えるのだけれども、そのとき、その瞬間は、太古から引き継がれたヒト科ヒトの純粋な感情、すなわち「愛」がそこにはあったのだ。

 西園寺マリアの足跡は乾いた粘膜でカタツムリの通った後のようにカピカピになっていた。

 西園寺アカネは有無を言わさず岡島ユキコの衣類をすべて脱がすと、岡島ユキコを抱えベッドの上へ放り投げた。そして自身の服を脱いだのだけど、あまりに気が急いていたのでびりびりに破いてしまった。

 それからほぼ三日三晩にわたる岡島ユキコの3度の目のハネムーン、またそれは西園寺アカネにとっては初めてのことであったのだけど、ほぼ一睡もすることなく続けられた。

 2人の永遠の愛の証として西園寺マリアは岡島ユキコに指輪を贈りたいと申し出たが、岡島ユキコは人前でものが食べれるように差し歯が欲しいと言った。

 その2、3日後、岡島ユキコは念願の差し歯を入れることが出来、あまりに食事に時間がかかるので愛の時間が足りなくなると感じていた西園寺マリアの心にも安らぎをもたらした。

 2人は幸せであった。岡島ユキコは自分の痩せた体、それでいて下腹部はたっぷりと膨らんでおり、子宮を切除したさいの14針の後、そうしたものが果たして受け入れられるかと心配した。

しかしそれは杞憂であった。20年を経て手に入れた宝物を、西園寺マリアは文字通り舐めるようにかわいがった、すなわち岡島ユキコの全身を。岡島ユキコは結婚だけでなく、3度全身脱毛にも失敗していたが、西園寺アカネの胃酸を含んだ唾液は岡島ユキコの体毛を、頭髪と眉毛と陰毛を覗いてすべて奪うこととなった。

岡島ユキコは年をとりますます貧相になった自分の体が嫌になったが、一方西園寺マリアも年をとっていた。

裸になった西園寺マリアを見たとき、岡島ユキコは西園寺マリアが高校生の頃に比べてずい分太ったことが分かった。丸々として女の体つきになっていた。

薄かった唇は厚みを持っていた。はじけるような豊かな乳房、、乳首はビー玉のように大きくなり、その白い肌に不似合いなほど漆黒であった。そして大きな臀部は熟れて落ちる寸前の果実のようになっていた。それは出産の準備が整ったことを示していた。

もし西園寺マリアがこのような致命的な性癖に見舞われていなかったら、男たちを喜ばせた上に多くの子宝に恵まれたのにと思った。

岡島ユキコはその言葉とおり西園寺マリアのいうことは何でも聞いた。朝から晩まで、そして晩から朝まで続く、愛の儀式にもずっと付き合った。

岡島ユキコは西園寺マリアに生殺与奪、全ての権利をゆだねていたのだ。

しかし1つだけ受け入れられないことがあった。

西園寺マリアは直腸に大きな腫瘍があり、それ自体は有害なものではないが、排便を妨げるので医者から毎朝2本ガラス器具で薬液を直腸へ注入するように言われていた。その行為は一人で行うには難しく、そして惨めな気持ちになるのでパートナーである岡島ユキコに頼みたいと言った。

岡島ユキコはそれだけは断った。医者の話を疑ったのではないが、変態の上での更なる変態、変態の変態の変態になることが、全てを失っても、まだこの真紺土の城下町でかつて城主も務めた一族の末裔の、心が、意地が、良心が受け入れられなかったのだ。

そのため西園寺マリアはその苦行にも似た行為を毎朝一人でこなさなければならなかった。でもそれ以外はすべての幸福を手に入れたと西園寺マリアは満足していた。ガラス器具の冷たさを浴室で一人で感じながらも、西園寺マリアは幸福だった。

 岡島ユキコは元々南東北生まれの色黒の女であったが、1年も経つと白人のような色白になった。また子供の頃から悩まされていた酷いアトピーも治癒された。また本人すら気が付いていないが2人目の夫からうつされた白癬病、すなわち水虫も完治した。すべては万病にきく西園寺マリアの胃酸をふくんだ唾液のためである。

実は岡島ユキコはクラジミアにも感染していたのだけど、それは2人目の夫が岡島ユキコに友人の相手をさせたからなのだが、菌はその部分の奥深くにあったので西園寺マリアの胃液を含んだ唾液で治癒されるにも1年を要した。

 男性の突起を持たない西園寺マリアにとっては舌がすなわちその役割を果たした。愛するということは全身を舐めまわすということであり、同じ行為を岡島ユキコにするのだけど、当然ながら西園寺マリアの処女は守られたままであった。ただ純潔はというと、十分すぎるほど蹂躙されたと言えるのである。

 岡島ユキコは今までの人生でこれほど愛されたことはなかったと思った。曲がってゆがんだ上に腐ってはいるが、まさにこれが岡島ユキコは2度の結婚で求めた愛であった。

 それはすぐ手に届くところにあったのだ。20年前に既に手に入れていたものだった。

 2人の生活は男女の新婚生活のそれと変わらなかった。

 カーテンを明るくし花瓶に花を生けた。安いが気持ちが明るくなるような絵を部屋に置いた。

 ステンレス製のナイフ、フォーク、スプーンを買いそろえたのだけど、胃酸を含む西園寺マリアの唾液でさびてしまい、すべて銀製に買い替えることとなった。

 しかしそれ以外の二人の買い物は概ねうまくいった。

 岡島ユキコはテラスで夢のガーデニングを行うことができた。手作りの菜園でサニーレタス、ミニトマト、カブ、パプリカを作っていた。朝早く収穫して朝食の足しにしていた。ドレッシングは酢と卵黄で自分でマヨネーズを作って楽しんだ。

 この生活は5年も続き、岡島ユキコのそれまでのつらい人生を差し引きしても、良い人生と言えるほどであった。

 

 Ⅱ 生命編

 さらに5年が過ぎたのだった。20+5で25年、2人の、あの雨のテニスコートの日から25年が経っていた。

 岡島ユキコと西園寺マリアは40歳になろうとしていた。真紺土の町はますますさびれ、駅に到着する電車の本数は減り、アーケード街の屋根は破れたまま放置され、レンガの道はその隙間から生えた雑草のためたわんでしまっていた。若者は街を去り、老人だけが残された。それでも岡島ユキコはこの街を愛していた。この忘れられた街で静かに朽ちて行くことを願った。

 すべてに満足している岡島ユキコであるが、それでもその生活を破壊してしまうような野望があった。この5年間、何度もその思いは去来し、そのたびに思いとどまったのであるが、40歳を前にしてどうしても抑えることが出来なくなった。

 岡島ユキコは西園寺マリアと暮らして3年目のことである。岡島ユキコは西園寺マリアに男性を付き合うことを提案した。西園寺マリアは美しく、どんな男も私に対してのような態度はとらない、きっと大切にされる、と言った。何なら一緒に暮らしたら良い、私は住み込みのお手伝いみたい感じで小さな部屋か近くのアパートに住まわせれば良いとまで言った。

 最初笑ってかわしていた西園寺マリアも次第に怒り出した。自分の気持ちをあまりに理解していないパートナーに怒りをぶつけた。あなたを殺して自分も死ぬとまで言われた。

岡島ユキコが西園寺マリアと暮らして4年目のことである。岡島ユキコは西園寺マリアに子種を得るために男性を接触することを提案した。愛をはぐくむというと長く感じるが実際の行為は10分足らずで、一瞬に過ぎなく、痛みもそれほどなく、インフルエンザの予防接種とかわらないという話をした。岡島ユキコは怒りを買うのを知っていながらも説得を続けた。その行為が女同士のそれに比べて極めて短く、あっけなく一瞬のことで、しかも体液を放出した後の賢者タイム(*)というものが存在し、行為の前に言っていた言葉がすべて裏返る可能性があるが、そのようなめんどうくささをすべて排除し、自分が受け入れ、西園寺マリアには予防接種程度の負担しかさせないたないと言った。

*賢者タイム 射精後不応期(しゃせいごふおうき)とは、男性が性交あるいは自慰行為での射精により、興奮状態が一気に冷めた心理状態のことをいう。 俗に「賢者タイム」とも呼ばれている。

しかし全く受け入れられなかった。

それは岡島ユキコが2度の結婚をしたさいの西園寺マリアの屈辱を思い出させた。悔しさに歯を食いしばらせため、西園寺マリアの歯は3本抜け、怒りに毛細血管が切れて、西園寺マリアは血の涙を流し、血の小便で便器は赤く染まった。

大腸の腫瘍が破裂したのではないかと心配した岡島ユキコは西園寺マリアを病院に連れていたのだけど、腫瘍の破裂ではないことが分かった。それは20年間、孤独と屈辱に耐えた女が、5年かけてその傷をいやしたはずなのに、再び開いてしまった、その出血なのだった。

岡島ユキコはある決意をしていた。

西園寺マリアが3本の差し歯を治療していた間に、6週間もかけて調べ、必要なものを用意した。

岡島ユキコの両親はずっと前に他界しているのだけど、双子の弟がいた。名前を岡島ユキオと言い、瓜二つであった。

天守閣の後には小さなマンションが建っていた。その中の日当たりの悪い小さな1室がかつてこの土地を治めた一族の末裔に残されたたった一つの資産であった。

そこに岡島ユキオはいた。ややこしいので岡島ユキオ♂、岡島ユキコ♀と記す。

薄汚れたカーテンの、小さな部屋、何冊かの書物が机の上にあり、壁にはかつての栄光の証である真紺土第一高等学校の制服がかかっていた。

岡島ユキオ♂はそこにいた。すべての夢に破れた者がそうであるように、瘦せて、死んだ目をしていた。

2人はたった2人の姉弟で、かつて城主を務めた一族の末裔なのだけど、ほとんど会うことがなかった。いろいろな試みをして、それがことごとくうまく行かず、ついには捨てたはずの故郷に戻り、それでいて何をするでもなく、かつての仲間にも誰にも会わず、時が過ぎ、自分たちが消えゆくのを待っていた。

双子とは言え男女に分かれているので、当然一卵性ではないのだけど、相手が憎くなるくらい2人はそっくりであった。

岡島ユキオ♂は東京の二流大学で化学を専攻した。

大学で岡島ユキオ♂は自身のテーマを海洋プラスチック問題の解決に費やしていた。それはかつて城主を務めた一族の末裔が故郷を捨て、大学で研究者の道を選んだ者の矜持とも言えた。

海洋プラスチック問題とは、

・海洋プラスチックによる海洋汚染は地球規模で広がっている。

・北極や南極でもマイクロプラスチックが観測されたとの報告もある。

・2050 年までに海洋中に存在するプラスチックの量が魚の量を超過すると予測されている(*)。

・海洋ゴミの中ではプラスチック類が最も高い割合を占めている。

* (出展)The New Plastics Economy: Rethinking the future of plastics(2016.Jan. World Economic Forum)

では誰が海洋プラスチックゴミを出しているのか?

中国+インドネシアで約4割を占めており、海洋プラスチックゴミはこの2国が主原因。

・海洋プラスチックゴミのG7割合は2%

・G20(G7除く)で46% 中国は単体で約28%

・ASEAN 19%、その他 33%

両国とも7 割以上のプラスチックゴミがmanage(管理)出来ていない*5。

*(出典)環境省プラスチックスマートキャンペーンについて

2019年6月にはG20大阪2019サミットが開催され、「海洋プラスチックゴミ」は大きく取り上げられた。

外務省はマリーン(MARINE)・イニシアティブ(2019年7月)の下で,具体的な施策を通じ,廃棄物管理,海洋ごみの回収及びイノベーションを推進するための,「途上国における能力強化を支援していくことを表明した」。

これはとても重要なことで、ようやく海洋プラスチック問題に解決の糸口が見えて来たとされた。

本来なら2020年は海洋プラスチック対策を中心とした環境対応の年になるはずであった。

しかしここで新型コロナウイルスによるパンデミックが起きてしまった。

「新型コロナウイルスの感染拡大により世界各地で検疫体制が導入され、パンデミック以前との比較で温室効果ガスの排出量は5パーセントも低下した。その一方、医療用マスクや手袋、消毒液のペットボトルなどが大量に消費されていることから、プラスチックごみによる環境破壊が進んでいるという。国連貿易開発会議(UNCTAD)が2020年7月27日に発表した報告書で明らかになった。

国連報告書によれば、新型コロナウイルスの感染拡大以前から問題視されていたプラスチックごみによる環境破壊は急速に規模を拡大しているという

パメラ・コーク・ハミルトンUNCTAD国際貿易部ディレクターは、ウイルスの感染拡大防止対策として特定の商品が日常的に大量消費されるようになった結果、環境破壊は悪化を続けていると警鐘を鳴らしている」と表明した。*

*引用:スプートニクニュース

海洋プラスチック問題に向けたODA日本の府開発援助(せいふかいはつえんじょ、英語: Official Development Assistance)は止まり、人の動きの止まった世界の中でJICA独立行政法人国際協力機構(どくりつぎょうせいほうじんこくさいきょうりょくきこう、英: Japan International Cooperation Agency、略称: JICA)は何の働きもできなかった。


岡島ユキオ♂はそれでもそれなりの努力をして挫折したのだけど、岡島ユキコ♀はそれを認めていなかった。一族の資産のすべて食いつぶし、岡島ユキコ♀の、恥だけが人生の、その終わりをますます惨めにした張本人と思っていた。岡島ユキコ♀は、二人の元夫と弟によって自分の人生は堕ちてしまったのだと思っていた。それは岡島ユキコ♀自身の考えての浅さ、不懸命さ、だらしなさ、おごり、知ったかぶり、勝気さ、意地悪な心、から気をそらすものであったけど、岡島ユキコ♀は生涯それを信じて疑わなかったのだ。

二人は近くにいるとき、話をしなくても互いに考えを伝えることが出来た。

玄関に立ち、入ってこようとしない姉を見て岡島ユキオ♂は言った。

「姉さん、そんなことできないよ。」

岡島ユキコ♀はバッグから小さな包みを取り出すと、それを渡すでもなく、床に投げて言った。

「いいえ。あなたはするわ。」

それは岡島ユキコ♀が西園寺マリアからもらっている小遣いを5年かけてためたものだった。包みには厚みがあり、その厚みに岡島ユキオ♂は生唾を呑んでしまうのだけど、その惨めな心を見透かしている姉を本当に殺してやりたいと思ったのだった。

それを感じ取った岡島ユキコ♀は一瞬どきりとしたのだけど、態度にはあらわさず、

「準備が出来たら呼ぶから」と言った。

「そのときはシャワーで良く洗って新しい下着を着て来て」と言った。

ドアが閉まり、岡島ユキコ♀は去って行ったのだけど、惨めな岡島ユキオ♂はその包みに手を伸ばしては引っ込めていた。


 岡島ユキコ♀は安全だが強力な睡眠薬を探した。

 いわゆる超短時間作用型であるトリアゾラム(商品名:ハルシオンなど。ベンゾジアゼピン系)は西園寺マリアに対してほとんど効果を示さないことが分かった。夕食のワインに少し混ぜてみたがほとんど効果のないことが分かった。むしろ西園寺マリアのその有り余る精力を増強し、岡島ユキコ♀は息も絶え絶えで朝を迎えることことなったのだった 

短-中時間作用型であるペントバルビタール(商品名:ラボナ、ネンブタールなど。バルビツール酸系)はそれなりの効果があったが、西園寺マリアのその精力にして性欲を増長してしまうという副作用を岡島ユキコ♀は身をもって知るのだった。

そもそも睡眠薬とは何か?Wikipediaによれば左記に表される

睡眠薬(すいみんやく、英語: Hypnotic、Soporific、Sleeping pill)とは、不眠症や睡眠が必要な状態に用いる薬物である。睡眠時の緊張や不安を取り除き、寝つきをよくするなどの作用がある。眠剤、睡眠導入剤、催眠薬とも呼ばれる。多くは国際条約上、乱用の危険性のある薬物に該当する。

これらの薬による「睡眠」とは比喩であり、麻酔として使用された場合に意識消失を生じさせていることであり、通常の睡眠段階や自然な周期的な状態ではない。患者はまれにしか、麻酔から回復し新たな活力とともに気分がすっきりすることを感じない。この種類の薬には一般的に抗不安作用から意識消失までの用量依存的な効果があり、鎮静/催眠薬と称される。

岡島ユキコ♀が行き着いたのは混合して用いる処方だった。

即ち、超短時間作用型のトリアゾラム、短時間作用型のエチゾラム、短-中時間作用型であるペントバルビタールを1:8:1の割合で混ぜて処方した。(*)

*睡眠薬のくだり Wikipedia

西園寺マリアが夕食で睡眠薬が入ったワインを出されたとき、匂いだけでそれが何か仕込まれたものだと分かった。正確にはその夜の岡島ユキコ♀の表情だけで何か大きな企みがあることが分かった。

しかしようやく手に入れた愛しい人の願いなら、たとえそれが毒であっても受け入れようと思った。西園寺マリアはワインを一気飲み干すと、

「キスして」と言った。

岡島ユキコ♀は言われるままにキスをするのだけど、胃酸を含んでいる西園寺マリアの唾液で舌がヒリヒリした。それを薄汚れた岡島ユキコ♀は良心の呵責のように感じた。

またわずかに唇に触れただけで岡島ユキコ♀はクラクラした。西園寺マリアに処方したのは巨像をも倒す量の睡眠薬であった。岡島ユキコ♀は口をぬぐうと、ふらふらとテーブルにつかまりながらキッチンへ行き、口をゆすぎ、気付けにブランデーを一口呑んだ。

ずっと言いなりだった岡島ユキコ♀の人生でこれほど自発的に動いたことはなかった。自分で図面を描き、計画を立て、時間を測り、用意した。そして隠し扉の中から拘束器具を取り出した。それは立体的にできており、スポーツジムのベンチプレスにも似ていたが実は全く違った。上半身はそれで良かったらが、下半身の部分は岡島ユキ♀コ自身何度か通った産婦人科の分娩台となっていた。

岡島ユキコ♀はどうにか西園寺マリアを立たせ、その上に寝かせ、最後に服を脱がせた。シャツは脱がせることが出来ず、鋏で切り除いた。スカートを脱がせ、下の下着に手をかけるのだけど、もともと履いていなかったのですることはなかった。

規則的だった西園寺マリアの寝息は不安定になり、岡島ユキコ♀は目覚めの時が近いことを知った。

器具は頑丈につけられていたが決して傷つけないように西園寺マリアとの皮膚の間には柔らかな布があててあった。西園寺マリアの口元から漏れる胃酸を含んだ唾液をぬぐうとその口にシリコン製のマウスピースを入れて、革製のバンドで決して外れないように固定した。それは目覚めた後の西園寺マリアの暴言、冒涜を防ぐためであったが、同時に西園寺マリアが舌を噛むのを防止するためでもあった。

西園寺マリアにシルクの毛布をかぶせ、その下に手を入れ、左に乳房に触れ岡島ユキコ♀は鼓動を感じ取った。西園寺マリアの目が見開いた、すべてを見透かす眼光であったが、西園寺マリアの聡明さをもってしても岡島ユキコ♀の愚かな企みはまだ理解できていなかった。

岡島ユキコ♀は電話で階下にいる岡島ユキオ♂を呼び出した。

西園寺マリアは薄暗い部屋に二人の裸を見た。岡島ユキコ♀と岡島ユキオ♂であった。痩せた猫背でみすぼらしい裸、14針の傷跡とかすかな胸のふくらみ、そして陰毛の下の小さな突起を除いてその2人を区別するのは不可能だった。そしてそのとき西園寺マリアはすべてを理解し、恐怖した。その執念、恩をあだで返すことに躊躇のないその身勝手さ、西園寺マリアは岡島ユキコ♀のすべてを許し、全てを受け入れていたつもりであったが、その愛情と同じくらいの深さで絶対的な復讐を誓うのであった。

岡島ユキコ♀は岡島ユキオ♂を口で含み、皮を剥いて、反らせ、その部分をねかしたり、立たせたりした。そして2つの球形の立体部を優しくもみ、体液の製造を促した。岡島ユキオ♂は40歳前の童貞であったけど、岡島ユキコ♀の甲斐あって。準備はできたのだった。

続いて岡島ユキコ♀は西園寺マリアの準備をした。いつもより時間をかけて舐めたり、噛んだり、つまんだり、引っ張ったり、開けたり、閉じたり、差し入れたり、また舐めたり、噛んだりした。西園寺マリアはその肉体的な快楽の反射として準備が出来つつあったのだけど、生粋のレズビアンとして必死の抵抗をした。即ち、小も大も、全ての排せつ物を出しきって抵抗した。その都度仕切り直しとなり、岡島ユキコ♀は西園寺マリアの体を丁寧に吹きなおし、床を掃除した上で換気を行い、ファブリーズで臭いを整えるのだけど、自分を拾ってくれた西園寺マリアへは一切𠮟責や愚痴は言わなかった。舌と指先と自分自身のその部分、全てを用いて西園寺マリアを慰め、

「ごめんなさい。ごめんなさい。」と謝るのだった。

 結局行為がなされたのは夜遅くとなった。

 岡島ユキコ♀の唾液で準備をして良く濡らした岡島ユキオ♂の凸の部分を同じく岡島ユキコ♀の唾液で準備をして良く濡らした西園寺マリアの凹の部分へと導いた。40歳直前の処女と童貞はそうして破瓜の瞬間を迎えたのだけど、岡島ユキコ♀にとってはその瞬間よりも体液の移動が重要であったので、気を抜かず、薄暗闇の中、LEDの光を当てて注視したのだった。

 岡島ユキオ♂体液の放出と西園寺マリアの出血を確認した。そして西園寺マリアを見た。西園寺マリアは憎んでも憎んでも憎み切れないという目をしていた。(*)

 *少女革命ウテナ29話「空より淡き瑠璃色の」のセリフ

1回目の体液の移動が確認された後、休憩をとることとした。岡島ユキコ♀は岡島ユキオ♂に簡単な食事と十分な水分、そして精力剤を与えた。

精力剤の成分メカニズムは大きく分けて加齢、ストレス、喫煙習慣などによって血流が停滞したとき、末梢血管、とりわけ陰部に血流を促進させるためのものや、同様にストレスやミネラル不足による性ホルモン分泌抑制、あるいは産生物質不足により生じた精力減退に対して性ホルモン分泌を促進させるもの、また滋養強壮、疲労回復を目的とし、間接的に精力促進、増強を謳ったものなどがある。(*)

*Wikipedia

それは、オットセイ、マムシ、サソリ、スッポン、ニンニク、マカからなっり、その成分じゃテストステロン、メチルテストステロン、ストリキニーネ、ヨヒンビン、ジゾノールであった。

そして西園寺マリアに対しては、岡島ユキコ♀は拘束マウスピースを外さず、その腔内の部分に空いた穴を通して、咀嚼した食事と水分を口移しに与えたのだった。岡島ユキコ♀のその容赦のない行為に西園寺マリアはわずかな希望も絶たれたのを知った。それは覚悟というよりもあきらめであった。

20年かけて思ったわが半身、そして5年かけて愛を与えた相手が、少しも自分を理解していないことを知るのだった。愛はやさしさだけでは成立しない。西園寺マリアが自分の愛を岡島ユキコ♀の骨身にしみこませるために、飴だけでなく刺のある厳しい鞭を用意しなくてはいけないことを知った。

排卵期とは何か?

LHによって開始されたシグナル伝達カスケードを通じて、タンパク質分解酵素が卵胞から分泌され、卵巣の表面に出ている卵胞の組織を分解して裂け目を作る。そこから卵子卵丘細胞複合体が卵胞を出て腹腔へ、更に卵管の末端にある卵管采に受け止められる。卵管へ入った後は、卵子卵丘細胞複合体は繊毛の動きにしたがって押されながら子宮への旅を始める。

この時に、卵母細胞は第一減数分裂を終え、二つの細胞―大きな方が全ての細胞質の物質を含む卵娘細胞(二次卵母細胞)、小さな方が不活性な第一極体―に分かれている。第二減数分裂は中期で止まっており、受精までは進行しない。排卵の時に第二減数分裂の紡錘体が出現する。もし受精しなければ卵母細胞は約24時間で退化する。(*)

*Wikipedia

すなわち受胎には排卵期の24時間が重要なのである。

その前後で12時間とり、岡島ユキコ♀監修の下、48時間かけて受胎行為は行われた。西園寺マリアと岡島ユキオ♂の2人は途中何度か眠りに落ちたが、岡島ユキコ♀だけはずっと起き続け、1時間インターバルの砂時計を回した。そして2日とも朝にはガラス器具で西園寺マリアの腸内に薬剤を液注し排せつ物を人為的に出させる仕事もこなした。西園寺マリア大と小を同時にする癖があるので、岡島ユキコ♀はバケツと尿瓶を同時にあてる技術を身に着けたのだった。

そのような努力にかかわらず、最初の試みは失敗と終わった。 

妊娠検査薬の結果に落胆した岡島ユキコ♀であったが、いくつかの失敗からから課題が得られ、それを改善する案を考えたのだった。そう、岡島ユキコ♀は全くあきらめていなかったのだ。

岡島ユキコ♀は岡島ユキオ♂にタクシー代を渡すと帰した。そのさいにその時が来たらまた呼ぶので来るように伝えた。

西園寺マリアは岡島ユキコ♀がいつか必ず来る終わりを迎えるこの拘束をどのように考えているのか?疑問に思った。西園寺マリアが訴えれば、最悪刑事事件にもなりかねないこの案件を岡島ユキコ♀がその終わりをどのように見積もったのかと思った。

しかし岡島ユキコ♀の考えが確固たるもので、一部の迷いもなく、容赦もなかった。

即ち、西園寺マリアについては、その拘束を解くと2度と捕えることが出来ないと思ったので、28日後のその時までそのままとした。西園寺マリアが代表を務める床用ワックスの製造販売会社はその間休業とした。岡島ユキコ♀が準備を重ね、すべてを検討した上で実施した精密な計画性を西園寺マリアは知るのだった。

次の排卵日までの28日間を西園寺マリアは拘束されたままで過ごすのだけど、実はそれほど悪いものでもなかった。岡島ユキコ♀はその生涯を西園寺マリアに捧ぐと決めていたが、その思いに偽りはなかった。西園寺マリアは拘束はされていたけれど、十分な待遇を受けていたのだ。体は8時間ごとに温かいお湯で拭かれ、床ずれにならないようあて布は3時間ごとの位置をずらされた。髪は毎日洗った上で1時間かけてとかれ、爪も毎日磨けれ、マニキュアも施された。咀嚼して与えられた食事も28日間、同じメニューになることはなかった。

そして何よりも西園寺マリアの果てしない性欲を満たす施術がなされたのだった。その部分を岡島ユキコ♀からサービスを受けながら、一方で腋毛を剃られていたのだけど、西園寺マリアはそうした生活を悪く思わないどころか、満足していた。

岡島ユキコ♀はやむを得ずガラス器具で西園寺マリアの腸内に薬液を注入する役目を続けたのだが、恐れていたとおり、それは医療行為というよりもはるかに西園寺マリアの性的嗜好を満たすものであることを知ったのだった。歓喜の声をあげる西園寺マリアに、つまりそのようなとき西園寺マリアは大と小を同時に出す癖があるので、バケツと同時に尿瓶をあてて周りが水浸しになるのを防いだ。西園寺マリアの排出物は匂いがきつく、床に漏れると夏に引き換えたばかりのフローリングにどうしても取れないシミを残した。西園寺マリア自身が製造販売している床用ワックスを用いてもその酸性度には勝てなかった。あらゆるものを汚し腐らせ、浄化する、聖水にも似た恐るべき効用を備えていたのだった。

岡島ユキコ♀は実際とても忙しかったのだ。そのためトイレに行く時間もなく、西園寺マリアが用を足した後のバケツを自分で使うこともしばしばあった。

ようやく28日が過ぎ、2回目の試みがなされた。そのさい岡島ユキコ♀は1回目のトライの教訓から事前に西園寺マリアにガラス器具を施し、その腸内を空にしておいた。これでやっかいごとの半分は片付いたと岡島ユキコ♀は思ったのだった。

しかしそのような努力にかかわらず2回目も着床はならなかった。

28日間、岡島ユキコ♀は西園寺マリアに合わせてずっと裸で過ごしていたので、さすがに心折れるものがあった。

さらにいくつかの改善がなされ、さらに28日後、最初からすると28+28で56日後、3度目の試みがなされた。

食事に精力剤が混ぜられたのとリラックスを促すというアルコールが西園寺マリアにガラス器具で注入する薬液に混ぜられた。あとは西園寺マリアと岡島ユキオ♂の2人による繰り返しの行為がなされた。実際、西園寺マリアと岡島ユキオ♂の性交渉は100回を超えていたのだけど、2人が互いの肌に触れることもなければ、言葉を交わすこともなかった。またお互いをまっすぐに見ることもなかったのだ。

岡島ユキコ♀は西園寺マリアのその部分を舌で良くほぐし、岡島ユキコ♀は岡島ユキオ♂の皮をむき、奮い立たせ、垂直水平方向の座標と角度を良く調整した上でゆっくりと挿送し、体液の放出を促した。48時間×3回で計144時間、また1時間のインターバルで繰り返されたので、その回数は144回に上った。しかし岡島ユキオ♂は144回が終わり、ようやく帰れると思った矢先、145回目の膣圧を感じた。思わず目隠しを取り、そこにいるのが血を分けた姉岡島ユキコ♀であることを知ったのだった。岡島ユキオ♂は姉の中に入っていた。

「姉さん、僕は絶対に許さないよ。」

と岡島ユキオ♂は言った。

そして「尼寺へ行け!」と叫んだ。(*)

「清楚に生きよ!」とも訳されることもあるそのセリフは、高校生のころ、学園祭で行ったシェイクスピア劇中のものだった。ハムレットが、愛するオフィーリアに投げかける残酷な言葉としてよく知られている。

*シェイクスピア 「ハムレット-三幕一場」

西園寺マリアは性交した相手がかつて学園祭で一緒に演じた相手であることをようやく思い出した。しかし何の感慨も湧かなかった。岡島ユキオ♂は岡島ユキコ♀と瓜二つであったが、異性であったためである。

西園寺マリアは2人の行為を目隠しの下で感じ取っていたのだけど、強制的な快感による極度の疲労で、実のところ全く関心が湧かなかった。

岡島ユキコ♀は本心ではこのトライを岡島ユキコ♀が懐妊するまで、少なくとも次の28日後には行うつもりであったのだけど、岡島ユキオ♂の突然の死によってそれは閉ざされたのだった。

岡島ユキオ♂の死体はかつて天守閣があった岡島ユキオ♂の住む古いマンションのわきの小さなドブ川で発見された。深さは10センチもなく、自殺としか考えられない状況であったのにも関わらず、事故死とされた。外傷もなく、自分で歩いて行った跡もあった。必死にドブから体を起こさないようにドブのへりに手をあてた跡があった。しかしいくら死ぬという強い意志を持っていてもその方法で死ぬことは不可能と思われたのだった。

岡島ユキコ♀は自分の愚かさが起こした結末と弟である岡島ユキオ♂が行った残酷な仕打ちを思った。

それは300年続いた、かつては真紺土の一帯を治めた城主一族の最後だった。岡島ユキオ♂と岡島ユキコ♀の2人は結局のところ何の役にも立たず、何もしないで消えゆくのだった。簡単な葬式を岡島ユキコ♀は1人で行った。部屋にあった大量の書物をすべて処分し、壁にかかっていた岡島ユキオ♂の栄光の証である真紺土第一高等学校の制服だけ引き取った。そして自分の罪を戒めるため、家の壁にかけた。風もないときに制服が揺れるときがあり、それはまるでレベーカ(Rebeca)の両親の骨つぼが鳴っているようだと岡島ユキコ♀は思った。(*)

*ガルシアマルケス 百年の孤独 より

弟の葬儀が終わった後、一人罪の意識にさいなみ帰ってきた岡島ユキコ♀を西園寺マリアはピンク色のエルメスの拘束具で迎えた。岡島ユキコ♀が留守の間に西園寺マリアはおそるべき執念で拘束具を外し、その間に3本の指と2本の肋骨を折ったのだけど、Amazonで最高級のものを取り寄せたのだった。それは通夜と葬儀の2日間で組み立てられ、同じピンク色のリボンで飾られていた。

全てを観念した岡島ユキコ♀は贖罪と永遠の忠誠の証として、西園寺マリアのその部分を3日3晩舐め続けたのだった。そしてその恐るべき腐食性を有する体液を飲み干したのだった。その酸性度のため岡島ユキコ♀は胃潰瘍となり、差し歯3本はその炭酸カルシウムの部分が溶けてしまったのだった。


Ⅲ 復活編

西園寺マリアの拷問ともいえる拘束具をともなう岡島ユキコ♀への仕打ちはぴったり56日間続いた。

西園寺マリアは自身がもっとも恐怖を感じた目隠しを最初から行った。目隠しをされたまま注挿された経験はその後も西園寺マリアのトラウマとして記憶され、その後灯りのない部屋では眠ることが出来なくなった。

しかし岡島ユキコ♀は暗闇に何も感じなかった。見えなくても西園寺マリアがどこにいるのか?怒っているのか?笑っているのか?何を考えているのか?すべて分かるのだった。

この5年間、西園寺マリアは部屋では下着を身に着けることはなかった。そのわずかな匂いで岡島ユキコ♀のすべてを知ることが出来たのだった。

岡島ユキコ♀が目隠し越しにまっすぐな目で西園寺マリアのその部分を見つめ、

「まだメンスはないの?」と聞いた時には、西園寺マリアは本当に驚いたのだった。

西園寺マリアは今まで正確に28日間でその日を迎えていた。

急に不安になり近づいた西園寺マリアのその部分に岡島ユキコ♀は鼻を近づけるのだけど、もっさりとした陰毛越しにツンとした匂いを嗅いださいには何かした違和感を覚えた。

岡島ユキコ♀は西園寺マリアに食器棚の珪藻土のコースターの裏に隠してある妊娠検査薬を取ってくるよう頼んだ。そして西園寺マリアの尿意が高まるのを待ち、検査をさせた。西園寺マリアは岡島ユキコ♀の目隠しをずらすとビショビショに濡れた検査キットを見せた。

Positive、すなわち陽性を示していた。

岡島ユキコ♀はその僥倖に飛び上がって喜んだ。弟の死という破滅的な結末で終了したプロジェクトであったが、目的は達成していたのだ。しかしあまりに不幸な人生を歩んできた岡島ユキコ♀はその成功を簡単には信じることができなかった。箱に残っていた5つの検査薬をすべて西園寺マリアに試させ陽性を確認した後、自分自身も試して、それが陰性であるのを知り、ようやくこの奇跡を受け止めることができたのだった。

岡島ユキコ♀はその後、53日間に上る拘束具に捕らわれた生活を送るのだけど、気が気でなかった。

朝のガラス器具による拷問を除けばその生活はそれほど堪えられないものではなかった。マウスピースを経ずに口移しで咀嚼されたので、胃酸を含む西園寺マリアの唾液で口の周りは赤くただれたけど、それも大した話ではなかった。

むしろ西園寺マリアが性的満足を得た後に裸で寝たり、うつぶせて腹部に負担をかけている姿をみて、たまらない気持ちになった。その方がはるかに拷問と言えた。

岡島ユキコ♀は拘束生活に差しさわりにない範囲で都度一時的に自分の拘束を解く許可を得た。その間、岡島ユキコ♀は西園寺マリアに毛布をかけたり、寝る姿勢を正したりした。そして西園寺マリアの毎朝のガラス器には体温まで温められられた薬液を使用するようにした。最後の何日かは西園寺マリア自身、ひどいつわりに苦しんでいたので、苦痛を強いられていたのは西園寺マリアの方であった。咀嚼して食べさせるという拷問も、ほとんど嘔吐物をそのまま岡島ユキコ♀の胃に移送するという内容に変わっていた。もともと胃酸を含んでいた西園寺マリアの唾液は今や胃酸そのものとなり、岡島ユキコ♀の差し歯のクロムの部分もすべて溶けてしまった。

また西園寺マリアの豊満な乳房は蓄えられた母乳でさらに膨れ上がった。岡島ユキコ♀は乳腺の腫れを抑えるため、ビー玉の大きさの漆黒の乳首を口で吸うのだけど、口内炎だらけの口に沁みた上に栄養満点のため、西園寺マリアの出産までの間に岡島ユキコ♀は10kgも太ってしまった。

約束の56日が経ち、岡島ユキコ♀はようやく拘束を解かれ、西園寺マリアを産婦人科へ連れて行った。そこで妊娠証明を得て、この消えゆく真紺土の町で唯一高層化が進んでいる役場に行き、母子手帳をもらった。

それは岡島ユキコ♀にとってずっと以前にあきらめた思いを取り戻るような、かけがえのないものであった。喜びで胸が詰まるのを感じた。弟の死とう重罪を背負って手に入れた喜びであるが、その弟の死は自分に帰するのものであり、もしこの生命の誕生に後ろ暗い影を残すならば、その対策のためにならば喜んで罰としての死を受け入れようと思った。

岡島ユキコ♀は男の子が欲しいと思った。2人も元夫たち、2人目の夫にあてがわれた2人目の夫の友人たち、そして血を分けた唯一の弟、彼らに足りなかったもの、つまり優しさ、思いやり、自己犠牲の心、そして岡島ユキコ♀への愛情をもった男を育てたいと思った。そしてそのような男を育てることがこの消えゆく町、錆びて忘れられゆく街の復興も、結局はそのような男たちの出現を待つしかないのでないかと考えた。

この滅び行く世界の、破滅へと向かう列車を止めることができるのは優しさと明るさ、そして正直さしかなかった。岡島ユキコ♀の知るかぎり男たちの本質的に抱える欲と嘘に満ちた傲慢さ、見栄っ張り、意気地のなさ、不正直さ、薄情さ、言い訳のうまさ、詰まるところ人間の弱さを克服した、西園寺マリアのような男を育てたいと思った。

 しかし早い段階でエコーの影から子供は女の子と分かった。

 それでも岡島ユキコ♀はうれしかった。こっそりと買った男の子用の衣類をすべて捨てると女の子用のものに買い替えた。

岡島ユキコ♀がかつて与えられたピアノ、それを生まれてくる子供に与えたいと思った。そして今までの分は弟のすべて渡してしまった小遣いを今日からはその時のために貯めるのだった。5年前、真紺土の町へ帰って、西園寺マリアと一緒に暮らした時から岡島ユキコ♀は自分のためには下着一枚買ったことはなかった。そのため最近ではサイズが2回り大きい西園寺マリアのお古を履いていた。履いていてずり落ちることもあったし、洗っても落ちないシミのために湿疹が起きることもあったが、耐えることが最も自分の優れた特性だと気づいた岡島ユキコ♀は、夢見ながらその生活を続けたのだった。

臨月を迎え、西園寺マリアはようやく重荷を下ろすことが出来ると喜んだ。そして分娩台に載せられると、

「ああ、これなら家にもあるわ」と言った。

陣痛は夕方に始まったが、子供が生まれたのはその6時間後の夜半であった。

一仕事終えた思いでそのまま寝付いた西園寺マリアに代わって岡島ユキコ♀が赤ん坊の世話をした。世話と言っても、それは抱きかかえて、あやしたり、その柔らかな頬に唇を寄せて、涙で濡らすだけであったけれども。

子供が生まれると厄介ごとだらけで、大人たちはあっという間に時間が過ぎていくようになる。

名前を決めなくてはいけなかった。岡島ユキコ♀は東京の著名な占い師をはじめ多くの意見を聞いていた。幸福と不幸、幸運と不運、それをたかが名前が左右することはないのだけど、それでも岡島ユキコ♀はそれがこの子の将来に少しでも助けになるならと集めた。その候補は100にも上り、最後まで絞り切れていなかった。

そんな日のことである。ようやく荷が下りて、楽になった体を横ら耐えながら、西園寺マリアは何となく、

「アテネ」と言った。

アテネとは古代ギリシャでアクアポリスと言われる神殿を築いた都市の名である。

紀元前500年頃のペルシア戦争後の数十年は、民主政アテネの黄金時代(en)として知られる。前5世紀のこの時代、アテネは古代ギリシア世界の先頭を走り、さまざまな文化的達成は以後の西洋文明の礎となった。アイスキュロス、ソポクレス、エウリピデスといった劇作家、歴史家のヘロドトスとトゥキディデス、医師ヒポクラテス、哲学者ソクラテスがこの時期のアテネで活躍している。優れた指導者であったペリクレスは諸芸の振興と民主主義の庇護をこととしたが、この指導者のもとでアテネは野心的計画に乗り出し、パルテノン神殿をはじめとするアクロポリスの壮観と、デロス同盟を通じた帝国の樹立を見ることとなった。デロス同盟はもともとはペルシアへの抵抗を継続するギリシアの諸都市が相互に結んだ同盟関係というべきものであったが、ほどなくアテネの帝国的野望のための手段となった。このアテネの傲岸がもたらした緊張はペロポネソス戦争(前431年 - 前404年)の開戦を招き、宿敵スパルタに敗北したアテネはギリシアにおける覇権を失った。(*)

*Wikipedia

「アテネって何?」と岡島ユキコ♀は言ったが、西園寺マリアは、

「何それ?」と言った。そしてそんな言葉言った覚えはないとつづけた。

 実際のところ岡島ユキコ♀はそれが空耳であったと思ったのであるが、最後にはアテネと命名した。かつて栄華を誇り滅びた町の名前は、最後の希望であり、抗いがたい宿命とも言えた。

アテネの出産届を出す際に不思議なのことに西園寺マリアの籍がどこにもないことが分かった。早くから亡くなったという両親のこともほとんど分からなかった。父親がいたという真紺土の住所はでたらめで、母親がいたロシア小国は1856年のクリミア戦争でなくなったものであった。

「あなたはどこから来たの?」と岡島ユキコは聞くが、西園寺マリアはただ微笑むだけであった。

生まれたばかりのアテネはひどいアレルギーであった。

医者は、この自家中毒でこの生まれたばかりの赤ん坊は早死にする可能性もあると言った。

岡島ユキコ♀は東京の著名な医者の診断を含め、あらゆる方法を試したのだけど、一向に良くならなかった。

薄い皮膚がかろうじて汚れた外界から体を守っているのだけど、今にも破れて崩れ落ちそうであった。

途方に暮れた岡島ユキコ♀は西園寺マリアの胃酸を含む唾液を100倍に希釈してガーゼに濡らし、アテネに塗ってみた。それは何の医学に基づくものではなかったが岡島ユキコ♀は直観的に毒と薬は実は同じものでその濃さだけが違うのだと知っていたのだ。

アトピー性皮膚炎(アトピーせいひふえん、英語: atopic dermatitis)とは、アレルギー反応と関連があるもののうち皮膚の炎症を伴う[1]もの。アトピー性湿疹(英語: atopic eczema)と呼ぶ方が適切である。アトピーという医学用語は、主にタンパク質のアレルゲンに強く反応する傾向のことであり、気管支喘息、鼻炎などの他のアトピー性のアレルギー疾患にも冠されることがある。アトピーである場合、典型的には皮膚炎、鼻炎、喘息の症状を示すことがあり、その内の皮膚炎(湿疹)のことである。

過半数は乳児期に、そして90%までが5歳までに発症する[3]。(*)

*Wikipedia

それは正しい方法であったかは分からないがアトピーを引き起こすタンパク質よりもはるかに強い毒を施すことで、結果としてアレルゲンがおさまったのだった。

アテネのただれた皮膚の下からは美しい桜色の皮膚が現れた。その後、高熱を出したり、コレラ並みの下痢をしたりすることはあったが、アテナはすくすくと成長したのだった。

岡島ユキコ♀にとってそれは楽しみで、まさに生きる希望とも言えた。

アテネはまたひどく便秘がちで岡島ユキコ♀は希釈した浣腸液を口に含んでアテネの肛門へ吹き入れた。またしょっちゅう熱を出し、看病に追われる岡島ユキコ♀は眠れない夜を何度も過ごした。

出産を経た西園寺マリアの乳頭はピンポン玉のように大きくなり、色はますます漆黒になった。赤ん坊のアテネはそれを口に口を含むことが出来ず、吸い付くことで母乳にありついた。西園寺マリアは寝たまま授乳させていたので、西園寺マリアの寝返りでつぶれそうになることもしばしばであった。

そのため岡島ユキコ♀は西園寺マリアの授乳の間中見張っていなければならなかった。西園寺マリアが授乳するタイミングはいつも激しい愛の営みの後だったので、岡島ユキコ♀はへとへとになりがらも授乳を注視し、アテネが吸い終えた後には抱きかかえてげっぷをさせ、乳臭い温かい体を抱えることに至上の喜びを感じるのだった。

多くの女たちが新しく増えた義務のように考え、その時は楽しみと感じることができず、老いてようやく幸福だったことを理解するのであるが、岡島ユキコ♀ははなっからそれが人生最高の喜びであることを知っていたのだ。

40歳になって、ようやく手に入れた幸福であった。岡島ユキコ♀はアテネから手を放すことすら惜しく、いつも座ったままゆりかごのように抱えて眠るのであった。

アテネはすくすくと成長した。寝返りをうったかと思うと這い這いを始めて、つかまり立ちをしだし、そこら中に糞尿を垂らすことで縄張りを広げていった。

実際アテネは傍若無人であった。癇癪が強く、強情で、気に入らないと何でも投げつけた。岡島ユキコ♀が買いそろえたティファニーの食器をすべて割り、岡島ユキオ♂の栄光の証である真紺土第一高等学校の制服をハサミで切り刻んだ。そのとき実は岡島ユキコ♀は家にいついた不吉なやっかいもの除いてくれたと心の中では喜んでいた。

岡島ユキコ♀はいたずらに疲れたアテネを抱えると寝ていた西園寺マリアの胸をまさぐり、乳をださせると、すっかり大きくなり乳頭がすっぽりと口に入るようになったアテネに吸わせてやるのだった。

アテネの悪戯はとまらなかった。

クレヨンと画用紙を与えても画用紙を使うことはなかった。真っ白な壁に排泄と性交の絵を描き連ねた。

ベランダから鉢植えを落として警察から注意を受けたことがあった。また3回もトイレにぬいぐるみを流し詰まらせた。その後にどうしても我慢できなかった西園寺マリアが用を足したので大変な騒ぎになった。

アテネはほとんどを口をきかない、いつも怒った子供であった。大人たちを馬鹿にし、困らせることに熱中した。

そのため3回も幼稚園を転園し、ついには真紺土の町でアテナを引き受けるところはなくなった。

それでも岡島ユキコ♀はアテネを愛していた。その暴力性も自分に罰を与えるためにアテネが神から仰せつかったのだと思った。西園寺マリアはアテネがただの瘦せっぽっちで癇癪持ちのガキだと気が付いていたが、岡島ユキコ♀がそれで良いと思っているならと、何も言わなかった。

アテネは6歳になったが、未だに西園寺マリアの乳を吸い、自分がこの家の女王と思っていた。言葉がほとんどしゃべらず、ものを投げつけ、蹴りつけ、いつも怒っていた。岡島ユキコ♀をにらみつけ、罵倒した。パンツの履かず、いまだにそこらじゅうで糞尿を垂れた。

そんなある日のことである昼食に放り出された西園寺マリアの左乳を吸っていたのだが、アテネは自分が女王であることを示すために漆黒の乳頭に思い切りかみついた。

するとビタンと大きな音を立てて、西園寺マリアがアテネをひっぱたいた。アテネの体は3回転も転がるとテーブルの端で止まった。

アテネは恐怖に震え、久しぶりに大泣きし、おしっこを漏らした。

岡島ユキコ♀は布団たたきの棒を掴むと思い切り、西園寺マリアを打ち付けた。

「このレズの、あばずれの、変態の、出来損ないが!」

西園寺マリアが千切れかかった乳首を見せ、事情を釈明しようとしたが岡島ユキコ♀はまるで聞かなった。

「この浣腸好きの、淫乱の、怪物が!アテネは私の子よ」と叫んだ。

岡島ユキコ♀は震えるアテネを抱きかかえ、頭を撫ぜた。

アテナはあまりに強く殴られたので乳歯が2本抜け、左の鼓膜が破れ、その日から右に首が曲がらなくなった。

しかしそれでもこれはアテネには必要な経験であった。自分が何もできないくせに威張り腐ったガキであることを知ることができたのだった。

アテネの強情さは意思の強さに変わり、馬鹿にした態度は自分が馬鹿であることを知り慎んだものに変わり、執着は熱心さに変わり、偏狭さは大らかさへと変わっていった。

アテネは成長した。

 今まで面倒くさいという理由で使わなかった言葉も6歳にしてようやく使い始めた。字も書き始めた。

西園寺マリアを「マリア」と呼び、岡島ユキコ♀を「ママ」と呼んだ。

アテネが愛していたのはマリアであった。いつも果実のようないい臭い匂いをその陰毛の下に感じていた。「ママ」のそれはいつもおしっこの匂いがした。それでも喜ぶのは岡島ユキコ♀の方だと思ったので、その愛への返答として「ママ」と呼んだ。

ある夜、マリアとママが毎晩の夜伽に興じているときにアテネはこっそりとベッドに入り、自分も入れてくれと言った。

マリアはそのまま続けようとしたが、ママはそれがお酒を呑んでたまたま裸で寝てしまっただけだと言い訳し、匂いでものを見るという恐るべき能力をもったわが子に気をつけるようになった。声を上げないようハンカチを丸めてマリアと自分の口に入れるようにし、その最中はラベンダーの香をたてるようにした。そしてやがてアテネはラベンダーの香りがするとその行為が始まったと思うようになった。

そんなことがあっても、アテネは十分良い子に育った。勉強も運動も絵も音楽も、大概のことは人並み以上にできたが、決して威張らなかった。ブロンドの髪に、やや青みがかった黒い瞳をしていた。

思いやりがあり、生徒に人気があったが、その表情はどこか憂いがあり、親しくなりたいと思った多くの生徒を、一瞬であるが躊躇させるのだった。

成長する中でマリアとママの関係が正常なものではないと気づくのであるが2人を責める気はなく、愛していた。

ママは6年間貯めた小遣いでアテネにピアノを買った。実はママはそれほど弾けるのではなく、教えるのはマリアであり、いつも1時間も過ぎると露骨に面倒くさい顔をして止めてしまうのだった。

それでもアテネのピアノは上達し、マリアほどではないが、真紺土市の小さな演奏会で表彰されるほどになった。それはママにとってはこの上ない喜びであった。

ママはアテネを自分の失敗した人生が得た唯一の成果だと思った。またママはアテネに同じ道を歩ませないように、男たちの言葉に気を付けること、女たちに対抗するという理由だけで好きでもない男の言い寄らないこと、たまたまな成果におごらないこと、期待してくれた人の気持ちを裏切らないこと、自分を好きでい続けることを教えた。

どんな失敗を繰り返せばそんなに多くの教訓が出てくるのかとアテネはおもったが、それでも自分を愛しているからだと理解し、我慢してその話をずっと聞いた。

やがて10年が過ぎ、アテネは16歳になり、マリアとママは56歳になった。

マリアとママが16歳のとき、真紺土高等学校のテニスコートわきで雨に打たれ、軒下でキスをした日から、真紺土大橋での再会まで20年が経ち、さらに5年が経ち、アテネが仕込まれ、1年後にアテネが生まれ、そこからさらに16年が経ったのだ。

真紺土第一高等学校は今では老人用の介護施設になっていた。

そのためアテネは隣県の高校に行っていた。しかし真紺土第一高等学校が廃校になったさいに多くの建材がそこに移設されたので、アテネの入学式の日にマリアとママは30年前の、あの風景の中に戻ったような錯覚に襲われた。

アテネは成績が良かった。真紺土にいる多くの未来のある若者がそうであるようにアテネは東京の大学に行くと期待された。ママはアテネを誇りに思い、またそうして自分が捨てられるのもうれしく思った。一方、マリアは2人の生活を邪魔する厄介者がようやくいなくなると喜んだ。

ある朝のことである。ガラス器具で整腸処理を施した後のマリアがトイレから呼ぶのが聞こえた。ある程度大きなものが出たとき、しばしばマリアは2人を呼び出すので、そうだと思い、アテナは見に行った。ママが一緒に行かなかったのは朝食中だったからである。ガラス器具でマリアに薬液を注入した後に良く手を洗い、1人で朝食を食べていたのだった。

「キャア」と短いが鋭い、アテネの声を聞き、ママもようやく見に行った。

そこには突っ伏したマリアとトイレからあふれる真っ赤な鮮血があった。

長年マリアを苦しめてきた直腸の腫瘍がついに破裂したのだ。

それは約束された死の始まりだった。

直ぐに救急車が呼ばれマリアは病院に運ばれたが、その日の内に破裂した癌細胞は瞬く間に全身に回り、入院となった。マリアが経営した床用ワックスの会社は見込みのある社員たちに株を譲渡し、代表の座を退いた。

その後、それこそ日本中の病院を回ったが、どの医者もサジを投げたのだった。年をとってもマリアは美しかったが、その皮膚の下はすべて癌に侵されていた。

五臓と言われる心臓・肝臓・肺臓・脾 (ひ) 臓・腎 (じん) 臓、また六腑と呼ばれる大腸・小腸・胃・胆・膀胱 (ぼうこう) のすべてが癌に侵されていた。脳の半分と左の眼球も癌に侵されていた。

長期入院でマリアはすっかり歳をとり、老婆になっていた。髪はすべて白くなり、抗がん剤治療のため左半分は抜けてしまった。歯はさらに抜けあと数本が残るだけだった。爪は黄色く変色し、皮膚はしわが寄り、あんなに豊満であった乳房もしぼみ、情けない姿になった。

マリアは胃、小腸、大腸、直腸をすべて切除した。14針の手術跡をなぞり、「おそろいね」とママに言った。

1年後、すべての治療行為を終了したマリアは真紺土の家に戻っていた。

延命治療さえ行われず、痛み止めにモルヒネの点滴のみ受けていた。

白くなった髪と細くなったマリアの体は真っ白なシーツに溶けてしまうようであった。

学校生活で忙しいアテネは朝晩欠かさずキスをしていたが、そのほとんどの時をマリアは眠っていた。マリアは夢の中で、昔のハチャメチャな生活を懐かしみ、その限りのない欲望を思い出し、その部分に手を伸ばすのだけど、今はすっかり乾いてしまっていた。

ときどき起きては、マリアはママと呼ばれる岡島ユキコに陰毛の下のその部位を舐めさせた。岡島ユキコは丁寧は作業を行いながら、かつては近所の犬猫をも発情させたその強力な匂いが乾いた草原のように変わったと思った。

またママはかつて胃酸を含んだ唾液のためピリピリとしたマリアのキスが穏やかな、乾いたシルクの風合いに変わって行ったのに気が付いた。

外は雨が降っており、ガラス越しに雨音が聞こえた。

30年前、2人がまだ処女の頃、真紺土第一高等学校のテニスコートのわきのひさしの下で振っていたのと同じ雨が降っていた。


最期の時を知った西園寺マリアは岡島ユキコを呼び寄せると言った。

「愛しているわ。ずっと愛している。あなたは私のことを愛しているの?」

岡島ユキコは言った。

「星が火であることを疑ってもいい。太陽が動くことを疑ってもいい。真実が嘘であると疑ってもいい。でも、わたしの愛を疑わないでくれ。」

それは高校生のころ、学園祭で行ったシェイクスピア劇中のセリフだった。

*シェイクスピア 「ハムレット二幕二場」

そして「怖がらないで。私も一緒にいくから」と言った。


西園寺マリアが死んだあと、岡島由紀子はまた一人に戻っていた。

簡単な葬儀を済ますと部屋の片づけを行った。荒れ果てたベランダの鉢植えを整理し、西園寺マリアと岡島ユキコの2台の拘束具、ガラス器具、この世に残してはいけないと思うものを岡島ユキコはすべて処分した。

岡島由紀子は西園寺マリアを失い、弟も自らの過ちで失っていた。

そして耐えがたいその人生の終焉を迎えようとしていた。

最近は僻みっぽく、また疑り深くなっていた。それでいて物覚えがひどく、2桁の足し算ができず、6の段以降の九九もできなくなっていた。

岡島由紀子は57歳になっていた。西園寺マリアが病気になったときに、その時がきたら、まだちょっと早いがかつて青春の日々をすごした真紺土第一高校の後に建てられた施設に入ろうと思った。そこで思い通りにならなかった人生の、恥ずかしく失敗の日々を慰めたいと思った。そして滅んでしまったわが一族の末裔として、もうすでにやることは何もなく、ただ人の迷惑にならないように静かに過ごしたいと思っていた。

しかし実際に西園寺マリアの死を迎えて岡島ユキコはもう1人での生活を耐えることが出来ないのに気が付いた。

部屋の整理が一とおり終わると、20年前、西園寺マリアに身を拾われなかったら飛び込んでいたはずの真紺土大橋に行こうと思った。あの時、西園寺マリアに拾われて中断した、その続きを行うために。

その時になって、ようやくアテネのことを思い出した。

私の宝石、私のすべて、私は唯一成果としてこの世界に残すことができた私の娘はどこにいるの?

岡島ユキコが振り向くとアテネはそこにいた。

これから死ぬつもりだったのに、思わず、

「学校はどうしたの?」と岡島ユキコは言った。

 アテネは何も答えずただ笑っていた。衣服は何もつけずに裸だった。

外は雨が降っており、ガラス越しに雨音が聞こえた。

40年前、真紺土第一高等学校のテニスコートのわきのひさしの下で降っていたのと同じ雨が降っていた。

 アテネの体を見た。美しいヴィーナスのような均等のとれた肢体がそこにあった。乳頭は桜色で、その下にへそがあり、さらにその下には不似合いなくらいもっさりとした陰毛があった。

岡島ユキコは思わず14針の手術の跡を探してしまった。自分のではなく、西園寺マリアのである。

外は雨が降っている。雨音の中、急な夕立に2人は雨宿りをしていたのだけど、アテネは急に「愛してる」と言い、岡島ユキコにキスをした。

何が起きているの?

岡島由紀子はとまどい、震えていた。でもアテネにはママが拒んでいないように思えた。アテネはさらに手を伸ばすとママの胸をまさぐり、さらにスカートの下に手を入れた。

天空で天使の羽音がした。

キスは胃酸を含んだ唾液の、苦い味がした。そして岡島ユキコは

「ただいま。またあなたに会えるのをずっと待っていたのよ」

という声を遠くに聞いた。


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R愛の詩 ナリタヒロトモ @JunichiN

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