第3話 もやしと、もやしのもやしかた
私はソーヤに水道とコップの使い方を教えると、ラーメン菜豆に電話をかけて三宅さんからことの顛末を聞いた。
男性はもやし工場が自然災害で稼働がストップしていると伝え、工場から迷子になった外国出身の作業員を探していると話していたそうだ。
精霊って迷子になるのかという問いに三宅さんは、可能性は低いと教えてくれた。
そしておそらく彼がソーヤを召喚した魔法使いだとも。
私は今までの経緯を話し、全く覚えていないのかと尋ねた。
ソーヤはフローリングに蹲ると、この前と反対側のポケットからシンプルなボールペンを取り出した。私があのメモを出して側に適当に字を書くと、インクの色と太さが一致した。
「出荷されるまではほぼ暗室にいるので、ボールペンも紙も作業員の人からくすねたんだと思います」
「普段は何をしてました?」
「早く強く成長するように力を送るのが仕事でした。唯一会話できる魔法使いの人が、それがみんなの幸せのためだって」
ソーヤは俯く。前髪がかかり表情は見えないが、声が割れたように響いた。
「たとえ何か楽しいことがあっても、覚えていることなんてできないんですけどね。……また、記憶が消えたんですね」
「それでも、もやしを助けようと、メモを取って覚えていようとしたんですよ。今度は大丈夫です、私が覚えてますから」
人間の私には気休めの励まししか言えないが、手助けくらいはできるかもしれない。急いで有給休暇の申請をして、荷造りを始める。
***
翌日早朝、ソーヤを連れて新幹線で栃木へ発った。
電車を乗り継ぎ、一日に三本しかないバスを諦めてタクシーに乗り――帰りの足として待ってもらう。
広い駐車場に囲まれた、大きな一軒家くらいの大きさの工場。外壁の一部が鮮やかな青で覆われているのが見えた。
「先日の突風で何かが飛んで来て、外壁が崩れたっていう……」
タクシーの運転手さんが世間話で教えてくれた。
誰かしら出勤はしているだろうけど、有利に交渉できるだろうか。工場唯一の魔法使いが東京にいるのなら、一番ソーヤに近いのは私ということになる。
「あそこから外に逃げたんでしょうか」
「……多分そうでしょう。ああ……そうだ、光。やっと屋外に出られた」
ソーヤは青空を仰いで両手を広げた。
水温も室温も管理された屋内で育てられているもやしには、それは貴重な経験の筈で――、
「あれ? 管理されてないともやしって育たないんですよね?」
「もやしとしては」
答えるソーヤは気分が悪そうに口をふさぐ。実は前日持ち直したものの、今朝からまた少しずつ生気が失われているようだった。
ざわざわと胸の奥が鳴り、急かされるようにビニールシートの方へ走る。昨日の今日で強い風が吹いており、シートが目の前でぶわっとめくれ上がった。フラフープ大の穴が開いた薄い外壁の向こうに、四角い金属の桶が大量に並んでいるのが見えた。
シートの中に入ると、乳白色のもやしの中にちらちらと緑が見えて、少し酸っぱいにおいが鼻をついた。消費期限ぎりぎりのあの臭い。
「何か思い出しました?」
「シートを……剥いでください」
背後からの声はついに切羽詰まったものになっていたが、さすがに躊躇った。その権限は部外者にはないし、賠償に発展しそうだ。
「理由を説明してくれますか? 玄関に回って工場の人に話してみましょう」
振り返った時、再びビニールシートがめくれて、今度は地面に倒れているソーヤが目に入った。深い眠りというよりは昏睡に近い状態に見える。
そしてその側に、店で見た男性が立っていた――いや、よく似ているが少し年齢が上だ。
「わざわざお越しいただきありがとうございます。工場長の白日下です」
作業服を着た男性の胸元ポケットには、確かにプラスチックのネームプレートが付けられていた。その横にあのボールペン。
「精霊をお連れいただいたんですね?」
「……そのようなものです」
「うちの魔法使いの弟は、今出掛けていまして。どうも精霊というのは、本体から離れると力をすぐ使い果たしてしまうようです。
こうなると回復を待つしかない。最悪消えることもある。
……ですが、今、彼の力が必要なんですよ」
口の中が乾く。相手はどれだけこちらを知っているのか。
「何故ですか?」
「ご覧になったでしょう。工場が破損した上に精霊が出て行ってしまったので、今のもやしは捨てるしかない。後始末で会社は大損、出荷先にご迷惑をおかけして謝罪行脚、職員の給料はカット。
ただし精霊の加護があればすぐ再生産に入れて、被害は最小限で済みます。
生憎精霊に“お願いを聞いてもらうことができる”のは魔法使いだけなのです。口付けで魔力を吹き込むと一気に回復するそうですが、お願いできますか?」
にこやかに笑う工場長。
工場長の言い分は……ああ、正論だな、と思う。被害は最小限、みんな幸せ。ソーヤがこれからずっと我慢することに目をつぶれば。
お願いを聞いてもらうというのは、強制的にだろう。だって三宅さんの奥さんとは普通に話していた。
罪悪感を持たせる言い回しもやめて欲しい。
「……あの。彼がここから出たのにはきっと理由があるはずなんです」
私は工場の中に目をやった。
今のもやしを全部処分するということは、ソーヤにとって一時的に本体や仲間を失うようなものだろう。
そうだ……あのメモ。もし違った意味だったら。
「もやしを助けて、と精霊は言っていました」
「もやし工場を助けてでは?」
「今いるもやしです」
「無理ですよ」
「もやしという状態を、ですよ。動詞の『萌やし』なら方法はあります」
私はシートに手をかけてみせた。
「日光を当てて植物として育てれば生きられます。彼は……きっともやしの精霊でなくなっても仲間を失いたくなかったし、日光を浴び、他の生き物と交流したかったし、記憶も失いたくなかった」
私は工場長の目を見た。
「ところで精霊を非人道的に使役した場合、魔法の不適切使用で法に問われる可能性があるそうですね。マスコミに知り合いがいるのですが……もやしを助けてくれたらそちらには黙っていてもいいです」
声は震えていたけど、ハッタリは効いた。
工場長が渋々頷くのを見て、私はソーヤの側に蹲ってその手を握り耳に口を寄せた。
お姫様じゃないからキスをする勇気はない。精霊の器官が人間と同じと決まったわけでもないだろう。
「後は本人に任せます」
私は声とともに、なけなしの魔力のようなものをイメージして吹き込んだ。
彼の命が惜しいと思う。
ただ無理やり延命させるのも嫌だった。消えてしまうリスクを冒しても彼にはしたいことがあった思いを汲みたい。
だから選んで欲しい。
ああ魔法の才能なんてものがこの世にあるのなら、私の力も誰かのためでなく、自分自身のために使いたいだけなのだ。
***
数日後、私はいつものようにラーメン菜豆に来ていた。
あれから役所に工場について報告して魔法使い登録をした後、無能アピールの甲斐があって転職しないで済んでいる。
その代わり実はキャベツの精霊しか召喚できない三宅さんの店で、たまにもやし関連のボランティアをすることになった。
「野菜だけモヤシマシマシマシでお願いします!」
お昼休憩に呪文を唱えれば、数分後、目の前に置かれた丼に手を合わせる。
ラーメン丼の上にうずたかく積み上げられたシャキシャキの、緑のキャベツがささやかに入っているそれは雪解けを始めた大山のようだった。
ひとくち口に運べば、しゃっきりとした歯ごたえに軽い弾力、みずみずしさが口を洗う。
(本当に美味しいよ、ソーヤのもやし)
スープの絡んだ麺を食べ、もやしを黙々と食べる。
栄養は大事だけれど、とにかくこのラーメンにはこのもやしが必要だった。
そしてこのラーメンは今までずっと、私を満たしてくれたはずなのに。
美味しいのに、少ししょっぱくて、苦い。
あれから結局、ソーヤは昏睡状態が続いていた。
工場のもやしは一部は萌やされて別の用途が決まり、一部は無事出荷された。
届いたもやしの味はやっぱり以前より落ちたが、私がこの間新たに覚えた魔法は何故かもやしを瑞々しくさせた。
それが以前と同じくらい美味しいのは、素直に喜んでいいのか分からなかったけれど。
私が鼻をすすると、丼から立つ湯気を縫って、ティッシュを差し出してくれた人がいた。
「どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
私はお礼を言って受け取り、目についた蒸気をまず拭う。
そして視界に入った手は、もやしのように美しい白い手で……。
丼の上で会いましょう 有沢楓 @fluxio
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