第29話 石蜜の秘密

 大仁ダーレン石蜜シーミーが出会ってから一年ほどが過ぎた、ある春めいた日。


 大仁は彼女に連れられて、町の郊外にある森を訪れていた。

 そこは、家の庭のほかに彼女が足を運ぶ、数少ない場所の一つだった。

 薬師たる父の手伝いで、薬草や花などの採集のために行くうちに好きになったという。


 いわく、

『危険な動物もいないし。特に、人のいないのが良いわ』


 森には泉があり、そのほとりで、ふたりは座っていた。

 ふたりの間には常に三人分の距離がある。

 それは、心の距離が縮まるようには、一人分とて縮まることはなかった。


 大仁は、泉を眺めていた視線を、ちらりと横にやった。


 ここに来てからというもの、石蜜はなにも喋らない。

 正座して、じっと泉の淵を見ている。

 肩肘に、妙に力が入っている。それも珍しいが、落ち着きもない。

 前後に小さく揺れている。


(うーん……気になる。来るまでも、なんだか、心ここにあらずって感じだったし)


 だが大仁は、自分から問うことはしなかった。

 待っていればいずれ、彼女は話してくれる。

 そう信じていた。


「……ねえ、大仁。今から、大切な話をするわ」

 石蜜は、淵を見つめたまま、そう言った。


「なに?」


「これをあなたに話すのは、あたしが……あたしの勘違いだったら、とても申し訳ないけれど……あなたが、あたしに寄せているものと、そう変わらない気持ちを寄せているからなのよ。言っている意味、わかるかしら?」


 大仁は、彼女の言葉を頭の中で反芻し、どうにか咀嚼した。

「えーっと、つまり」


 と、彼が言い掛けたのを手で制し、

「あたしの勘違い、思い上がりも甚だしい。それならそうと、今、ここで、言って欲しいわ。顔布つけた、目つきの悪い、病気女如きが、って。単なる同情とか……良くても精々、友情に過ぎないのに馬鹿な女だ、って。自意識過剰で、恥知らずだ、って。どうか罵って欲しいのよ」


 そうしてくれたら、きっぱり、さっぱり、忘れられるから――。


 石蜜の声は次第に小さく、尻すぼみになっていき、最後には彼女はすっかり俯いてしまった。

 いつも背筋良く、鋭い眼差しで、はっきりとした話し方をする彼女が、こうも小さく見えたのは初めてのことだった。

 そしてそれは彼女の、自分への思いの大きさがゆえなのだと思うと、大仁は込み上げてくるものがあった。


(そりゃ流石に、好かれてるなとは思ったけど……こんなにだなんて)


 石蜜の、もっと傍にいたい。抱きしめたい。

 そうして、つい尻を浮かせたならば、


「駄目!」

 と、彼女の悲痛とも言える声。


 大仁は我に返った。

「……ごめん」


 石蜜が、はっとしたように顔を上げる。

 その目元は、今にも泣き出しそうだった。


「ち、ちがうの」

「わかってる、わかってるよ。今のは、おれが悪かった」


 大仁は腹をくくって、石蜜を見据える。

「おれは――きみを愛してる」


 目を丸くする石蜜。

「うそ」


「嘘じゃないよ」

「だって、こんな、変な女なのよ? 可愛くもないし。それに……」

「それに?」


 石蜜が、膝の上に視線を落とす。

 その上の拳は、きつく握りしめられていた。


「ええ、そうよ。これを知ったら、結局は離れていくのよ。誰だって、そうせざるを得ないの」

「それが……大切な話?」


 彼女は小さく頷いた。

 そして、ふっと笑った。なにかを諦めたように、なにかを嘲笑うように。


「本当に愚かだわ。こんな身で、誰かを愛し、愛されようなどと」

「病気のこと? 念のためと言っても、近づけないのは寂しいけれど、でも、心は」


 大仁の言葉を遮るように、首を横に振る。

「病気というのは、嘘よ」


 手袋を外しながら彼女は言った。

「あたしを見なさい、大仁。この身に宿る業を。ほら」


 真っ白な手だった。

 その手で彼女は、すぐ傍に咲く小さな花たちを、

「ごめんね」

 と、そっと撫でた。


「あっ!」

 大仁が絶句したのも当然であろう。

 途端、花たちは茶色くなって、枯れ果てたのだから。


 石蜜の頬を、涙が静かに落ちていく。

「これが、あたしなのよ。毒の手に、毒の息。石蜜セキミツなんかじゃあ、ない。まるでチンでしょう? ねえ、こんな女に恋をするなんて愚かなことだわ。だから言ってよ。この化け物、と。醜く、哀れな、化け物と」


 大仁は、己を恥じた。


 どうして、病気という言葉を鵜呑みにしていたのか。

 この真実に辿り着くことは無理だとしても、感染うつらぬはずの病気で、こうも人避けを徹底しているのだから、嘘だというくらいは察しがついても良さそうなものではないか。


石蜜シーミー

「ええ。覚悟はできているわ」

「おれは、馬鹿だ」


 彼女は一瞬、固まってから「は?」と。


「おれは馬鹿だ。きみの言うことだからと、この距離のこと、なにも考えてなかった」

「そ、そんなの別に……あたしが隠していたんだから」

「きみが悩んでいること、苦しんでいることを、気付かなかった」

「顔からして隠しているような女なのよ、当たり前じゃない」


「それでも、おれは気付きたかったし」

 愛している――その言葉を口にするのなら。

「気付かなきゃいけなかった。でも、できなかった。これからもできるか、自信はないや」


 大仁は、深く息を吸って、言った。

「こんな馬鹿な男だけど、おれは、きみを愛したい」


 その身を忌み嫌い、枯らしてしまった花のために涙を流す、優しい貴女。

「そんなきみを、愛したい」


 石蜜は大粒の涙を零すと、かぶりを振って溜息交じりに笑った。


「ほんと、馬鹿ね」

「ああ。ごめん」

「いいわ。ある意味、お似合いかもしれない。愚かな女と、馬鹿な男で」


 それから彼女は、涙の止まるのを待ってから、少しずつ語り始めた。

 その呪われた身の所以を。


「わたしは幼い頃から、毒を与えられて育ったの。死なないように、慎重に、ほんの少しずつ。様々な毒を、ね」


 彼女の父の手によって、その研究は行われたという。

 毒も薬も、表裏一体。

 多種多様な毒に耐性ある肉をもってして万能の薬を生み出さんがために。

 仁愛と狂気の狭間を揺れ動くような話だった。


「お母さまは、あたしを産んですぐに、病で亡くなったから」


 研究は、半分は成功したと言えよう。石蜜は確かに毒の耐性を得たのだから。

 しかし、その身から万能薬を作り出すことは未だ出来ず。

 そのうえ、毒の手と、毒の息を持つようになってしまった。


「ごめんなさい、大仁。あたし、貴方の子を産んではあげられないわ。ううん、それ以前に」


 歳不相応な、直接的な物言いに、彼女の真剣さが窺える。

 そこを誤魔化して、曖昧なままに関係だけを進展させはしない、と。


「おれたちは、おれたちなりに、幸せになろう。どんな形かは、まだ、わからないけれど……一緒に考えていこう?」

「馬鹿同士で?」

「ああ、馬鹿同士で」


 石蜜はそこでようやく、柔らかく目を細めた。

「ありがとう、大仁」


 以来、ふたりは恋人としての仲を、この泉のほとりで深めていった。

 それは、庭でする雑談とは違った。互いの思いを詩にして通わせるのだ。

 もっとも、ふたりとも詩の才はなかったが。


 それでも、ふたりだけの秘密の時間は、とても幸せなものだった。

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