第4章 偽者帰還事件
第20話 青龍谷
十六歳となった
長大なる
水珠は、段々畑のように並ぶ泉の群れを左手に眺めながら、その脇に作られた丸太の階段を降りていく。
その来し方も行く先も、大きさも、形も、様々な濃い青色で輝いていた。
それはまるで青龍の鱗のようで、なるほど、ここが
足元には草花が芽吹き、頬を風が優しく撫でる。
春のにおいがする。
水珠は、深々と息を吸って、長々と吐いた。
その肩には一匹の白鼬が乗っている。体躯は、掌より少し大きいくらい。
名は
彼女は小さな目を細めて言った。
「ほんとに綺麗ですねえ、お嬢」
「うんっ、来て良かった!」
水珠と白鼬の出会いは、ほんの一月ほど前のことになる。
その日、四人の花剣道士は
彼は五金君の中で最も才気に溢れると謳われ、最も若く――見た目は十代前半ほどにしか見えず、それでいて尊大だった。
『貴様たちには、しばらく、地上を旅してもらう』
しばらくとは、どのくらいか。
黄金君の直弟子たる青年――
『期限は定めない。力もついたゆえ、単身で臨んでもらう。無論、道中に出くわした場合は、その限りではないがな。主目的は、ま、島外学習と大差なし』
すなわち、人に仇為す魔を討つこと。
『そのために、花剣を鍛え、貴様たちを鍛えた。期待しているぞ』
『と、申されましても、この国は広大です。島外学習の折には、
『その通りだ。なんの指針もなければ、ままならぬ。ゆえに、定期的に方角を与える』
そして――と、彼は四匹の小さな獣たちを呼んだ。
そのうちの一匹が、白鼬の心心だった。
『これを連絡係として与える。お前たちのほうからも、必要とあれば言葉を送れる。それから話し相手にもなろう。旅に役立つ術も覚えている。戦闘のあてに……する者はまさかおるまい』
水珠は、修行の一段落するこの日を、少し前から待っていた。
この六年間で、両親のことは何一つとして進展していない。
目ぼしい術は見つからないし、物を直す術を発展させる試みはしているが不発ばかり。花剣の力も目覚めてくれない。
諦めと安堵が年を経るごとに大きくなっていった。
もう帰ることはできいなのだ。
もう、記憶を取り戻した父と母から憎悪の目で見られることを、夢に見なくても良いのだ。
仙境にあがったときの一つの目標に、心の内で決着をつけた以上、水珠がもう一つの目標に、注力しようと思うのは自然なことと言えよう。
いよいよ白銀君に恩返しができる。
妹の命を救ってくれた恩に、自分みたいなものに様々な知識と技術を与えて第二の育ての親になったくれた恩に、遂に報いるときがきた。
恩に報いることを、
これは助けた雀が後に
雀のような小鳥でさえ仁愛に感謝する心があるのだから、ましてや人間においてはなおさらである。
もしも道士となったのが
水珠が少し残念に思うのは、その雪梅のことだ。
彼女にはやはり、あれから会っていない。
時々、下界に降りて遠目から見守るだけ。
旅に出たら、それがままならなくなってしまう。
十三歳になった彼女は相変わらず可愛らしい。
髪は少し長めにしているようだが、お団子は今も二つ結っている。
そろそろ会ってみようかなと、数日前に見に行ったときに思ったばかりでもあったのだ。
彼女が、朧気ながらでも自分を覚えていたなら嬉しい。
そうでなくても、今なら動揺しないだろう。
あの夜の真実を打ち明ける覚悟もできていた。
そんな話を師にもしていたから、旅に出る前に会ってきたらどうか、と勧められた。
でも断った。
『今、会って、彼女がわたしを受け入れてくれたら、もう旅なんて出たくなくなっちゃいます!』
かくして道士たちはそれぞれ、別の日、別の時、別の地に降り立つのだった。
水珠が初めに降りたのは長江の上流付近、
そこから北へ、長江を渡り、
一ヶ月で水珠は、二つの怪事と出くわし、これを片付けた。
ここ、青龍谷も、ただの物見遊山で訪れたわけではない。
それでも、この絶景を前にしては、ほう、と溜息を零してしまうというもの。
すると
「油断したらいけませんよ。別人谷なんて今じゃ呼ばれているんですからね!」
「わかってるってぇ」
その噂を教えてくれたのは、先日泊まった宿の主人だった。
『あんたも青龍谷を見に来たんだろ? 確かにあれは、一見の価値あり、だ。でも今はやめたほうがいい。なぜって、そりゃあ、出るからだよ。化け物が』
詳しく聞いてみたところ、それはなんとも奇妙な話だった。
ある人が青龍谷に、というよりは露山のほうに、山菜を採りに行くと言ってそのまま帰って来なかった。
山狩りをしても見つからず、家族も諦めていたのだが、数日後の雨の日に、彼はひょっこり帰って来たという。
怪我もなさそうで喜んだのも束の間。すぐに、なにかおかしいと感じた。
人が変わったようだった。
最初は遭難によって精神に異常をきたしたのかと思った。
目の焦点は合っていないし、晴れていると外に出ようとしない。
だが、話してみると、間違いなく彼なのだ。
ただ、やけに昔のことを詳しく覚えているとは思ったそうだ。
水珠が問うた。
『どういうことですか?』
『覚えすぎていたのさ。例えば嬢ちゃん、七歳の九月七日に、晩飯なに食ったか覚えてるか?』
当然、首を横に振る。
誰だって覚えているはずがない。
『そういうことまでも、覚えていたんだとさ』
そして彼の、特に奇妙なところは、曇りや雨の日には、青龍谷に行こうと誘ってくるのだ。
やがて彼の他にも、同じように行方不明の後、人が変わって帰って来る者が現れ始めた。
『で、ある日、その帰って来た奴を外に無理矢理、連れ出したんだと。そしたら』
ぐずぐずに溶けてしまった――と。
『それから、どいつもこいつも日光浴させたのが、まっ、五年前だな』
以来、近隣の住人は谷に近寄らなくなり、こうして注意喚起をしているのだという。
元の人の行方は、今もわからない。
『ただ、今でもたまに、話を聞かずか知らずかして、旅人らしき人が帰って来ることがあるよ。それだけならまだしもなぁ、前に溶けちゃった人も帰って来るときがあるから、家族なんかはたまったものじゃねえ。現に、引っ越しちまった家もあらぁ』
水珠は階段を下りながら、ぼやくように言った。
「ぜーんぜん、怪しいとこないよねぇ」
「だからこそというものでしょう。真に怪しきところに行って、巻き込まれるは愚かです」
「白銀君さまも、真の護身は危うきに近寄らず、って言ってたけども。ちょっと辛辣」
谷の終わりまで残すところ半分といった具合。
今のところは絶景が続くばかり。
空では鳥が羽ばたき、泉では――ぼちゃん。
「って、なんで?」
思わず振り返った。
魚はいないはずだ。釣りをするなら川だと雑談中に聞いた覚えがある。
「お嬢! どうか警戒を。かすかに、においがします」
「了解、心心」
水珠は来た道を少しばかり戻った。
音は結構、大きく聞こえたから、きっとこの階段近くの泉のどれかだ。
青き水面の奥深くを覗き込まんと、そっとしゃがんだ。
特に、なにもない。やはり魚もいない。
ここではない、別の泉からだったのだろうか。
そう思った矢先、水珠は目を丸くした。
「はっ!?」
水底から、少女の顔が浮かんできたのだ。
二つのお団子頭。丸くて澄んだお目目。
柔らかそうなほっぺ。薄桃色の唇
どれも見覚えのある、愛おしいあの子だった。
「
妹が涙を流しながら叫ぶ。
「お姉ちゃん! 助けて、お姉ちゃあん!」
ぶくぶくと溺れていく。
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