第2章 七少女失踪事件
第8話 少女修行中
天に浮かぶ浮島の、端から下を見遣れば果てしなく雲海が広がっている。
にもかかわらず、仰ぎ見れば、そこには当然のように雲あり、太陽あり。雨の降る日とてある。川には魚、森には鳥もいる。
ここは俗世に近しくも俗世にあらず。いわば異界なのである。
地上から、その姿を見ようとしても、それが雲一つない青天であろうと、浮島の底さえ拝むことはできないし、たとえ人が自由に空を飛べるようになろうとも容易に辿り着けるものでもない。
後ろ髪を短くした一方、側頭部はある程度伸ばして、一つ結び。
その結び目には杏の花が咲いている。
頬はふっくらと、健康的な色をしている。背も、もちろん伸びた。
身にまとう
修行の内容は日によって異なるが、午前中はもっぱら、文机に向かう。
うららかな春の陽気が窓から差し込んでいた。
その日は、算術の後、歴史の授業だった。
水珠にとっては、料理や野草の見分け方、賭博の技などといった実技と比べて、実に、悩ましい時間だった。座学ならば仙人列伝とかのほうが楽しい。
「では、水珠。北天の変をまとめてみてください」
約二十年前のことである。
「はい。えーと……
「良いでしょう。これで国史概略は以上です」
水珠がホッと胸を撫でおろしたのも束の間、
「次から国史の授業は、詳細として一からおさらいしつつ、より深めていく予定ですが」
「う」
「その前に試験を行います。出題範囲は、ここまでの全て。よく復習しておくように」
と、師は無情にも付け足した。
「はぁい……」
萎びれた気持ちを美味しい昼食で回復させ、午後。
屋敷からほど近いところにある竹林にて。
水珠は地を這うような低さで飛んでいた。手には白き剣を握り締めている。
視線はやや上向きで、竹から竹へと跳躍を繰り返す、一体の異形を追っていた。
それは、さながら蛙人間のようだった。
ここ、崑崙において仙人の身の回りの世話は【仙道助手】なる存在が担っている。
これは
それが現れるまでも、歩くことや手を上げ下げさせる程度の人形はあったが、これの画期的なところは、炊事選択などの複雑な動きも人間と同等にできるようになった点にある。
開発者は、この功績をもって天界に招聘されるも当然な大発明だった。
今や己の修行や研究に注力したい仙人たちにとって欠かせない存在となっている。
水珠が追っているのは、その一種。
奴から鈴を奪取せよ、というのが、課題だ。
ただし常に飛翔しながら、攻撃は術によるもののみが許される。
彼女は霊力を丹田で練り上げる。
眼前に二指を立て、標的の機を窺う。
(――ここ!)
蛙人間が竹から跳躍した。
瞬間、二指を相手に差し向けると共に「
傍らに拳より二回りほど小さな水の球が生じるや否や、着地点に向かって放たれる。が、相手は竹に掴まることなく、そのまま蹴って次に移り跳んだ。
惜しい。悔しい。
「そろそろなのにー!」
そのとき右耳に捉える、葉を踏む音。
視線を遣れば、異様に手足の長い女めいた存在が四つん這いで素早く向かってくる。
「やっぱり来た!」
鈴の奪取までに時間を掛ければ掛けるほど妨害役も増えるのだ。
その口から伸びた剣の一突きを、水珠はひらりと躱し、背中に花剣を振り降ろす。
妨害役に対しては術以外での攻撃も認められているのだ。
が、躱された。
「あー、もう! このままじゃ」
蛙人間に逃げられてしまう。
追って、追われて、新手がまた現れ、ついには五体となり、飛翔術の維持ができなくなったところで、終わり。
今日もダメだった。この修行が始まってから二年。水珠は未だ鈴の奪取に成功したことはないのだった。
肩で息をしながら仰向けに寝転がっていると、白銀君が空から降りてくる。
「お疲れさまです」
と、手渡されるは水の入った瓢箪。
それを飲んでいる間には、とうとうと良い点と悪い点が語られるから聞き逃せない。
「では、水珠。もう少しだけ休憩しましたら、次は私と徒手空拳で」
「は、はい。……あの、白銀君さま」
「水ですか?」
「いえ、それはもう、充分です」
水珠は逡巡し、ぽつりと、呟くように、
「わたしは、花剣道士として、どうなのでしょうか」
知識も、技術も、無力な田舎娘の頃とは比べるまでもない。
だが、あのとき言われたように、花剣を使いこなす域には、まだまだだ。
じっと師を見る。
彼はやはり、いつも通りに眉の一つも動かすことなく答えた。
「貴女は、よくやっていますよ」
「……そうでしょうか」
「ええ。ですから、新しい課題を用意しましょう」
「新しい、課題ですか?」
白銀君は「そうですね」と、なにか言葉を探して、
「島外学習、とでも言いましょうか」
◇
そろそろ春も終わろうかという頃だった。
「あれ?」
食堂に来た水珠は首を傾げずにはいられなかった。
今日も今日とて、腕も足も頭もへとへと。お腹はぐうぐう鳴いているというのに、円卓にはいつものように夕食が並んでいなかった。
どういうことだろう。料理担当の仙道助手が故障でもしたのだろうか。
そう思っていたら、白銀君がやって来て言った。
「水珠、今日の夕食は客人と頂くことにしました。間もなく到着するでしょう」
「お客さまと? 珍しいですね」
「私の同期と、その弟子です」
水珠は目をぱちくりさせた。
「ということは、わたしと同じ、花剣道士」
「ええ。島外学習には、その者と行ってもらいます」
急な話に、一抹の不安。どんな人だろう。
「……仲良くできるかな」
「どちらにせよ、切っても切れぬ縁になることでしょう」
そういうものなのかと目で窺えば、
「我ら五金君は、ほぼ同時期に、三人の師のもとで学びました。兄弟のようなものです。その弟子たる貴女たちは従兄弟のようなもの。家族の縁がどうして易々と切れるでしょう。良くも悪くも、ね」
「家族の、縁……」
水珠の脳裏に、妹と両親の顔が浮かんだ。
程なくして、仙道助手に連れられて、男と少女がやって来た。
三十代に見える大柄の男は、短髪の黒髪をして胸板厚く、白色の上衣と黒色の下位という、白銀君と同様の格好をしている。
白銀君の腰帯が白色なのに対して、男のそれは黒色だった。
少女は、背は水珠よりやや低く、髪は烏の濡れ場色して長く、波打つかのよう。
つり目が、勝気そうな印象を与える。
その身にまとうは、水珠と同じく青藍色の
右胸には黒に近い紫色の牡丹が一輪、咲いている。
男が右拳を胸元に掲げ、左掌で包み込む。
「五金君が一人、黒鉄君だ。そして、こちらが」
促された少女も同様に構えて、
「
白銀君らも挨拶を返して、食事会は静かに始まった。
「へー! 澄泥ちゃんは画家を目指してるんだ」
「ええ。父の影響で」
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