第7話 仙人と共に去りぬ
朝日が昇ってきた頃、
早い者はすでに、畑に出ている。
最も高いところにある村長の家の脇を通り抜け、大きな段差を、水珠は逸る気持ちを抑えながら下っていく。幼馴染の家の傍を通ったとき、中から復調を喜ぶ声が漏れ聞こえた。
水珠は、ぴょんっ、と段差を飛び越えた。
良かった、と。心底、そう思う。
水珠の家は昨夜、彼女が飛び出したときのまま、戸が開きっ放しだった。
ちょっと待って、朝の晴れ晴れとした空気を吸い込む。
「私がちゃんと説明しますから」
仙人の言葉に後押しされる形で、それでも、そっと忍び込むようにして、寝室へ向かう。
まず、両親の声が聞こえてきて、水珠はホッとした。
(仙人さまの言ってたことは、本当だったんだ……よかった、生きてた……っ!)
そして、ふたりの話し声から、雪梅も無事に回復したことがわかった。
すでに泣いてしまいそうだった。
「良かったですね」
「う、うん……っ!」
鼻をすすり、中を覗く。
「あ」
彼女はまだ布団に座っていたが、
「おねえちゃん!」
勢いよく立ちあがると駆けてきて、飛び込むように抱きついた。
「こ、こら、雪梅。そんなに急に動いたら」
「へーき! 治ったもん!」
「も、もぉー……」
言いつつ、恐々と両親を窺う。
その顔は――怪訝だった。
怒りでも、憎しみでもなく、ひとすらに訝しんでいた。
「あの……」
と、母が口を開く。
「……どちらさまですか?」
ああ、そうだ、仙人のことを忘れていた。
水珠が彼を指して紹介しようとしたところ、父が、母に囁いた。
「村に、こんな子いたか?」
「いえ……後ろの方も見たことないわ」
「あ、あれか、行商人か? 薬売りか」
雪梅が「なに言ってるの!」と語気を強める。
「おねえちゃんだよ! 水珠おねえちゃん! 後ろの人は……知らないけど」
しかし、ふたりは、雪梅に対してこそ、なにを言っているのか、という顔をした。
それから父が、ふと我に返ったように、雪梅の手を引っぱる。
「すみませんね。この子、病み上がりなもので。どうにも、夢かなにかと勘違いを」
水珠は背筋に氷柱を突き立てられたような気になった。
父と母は決して、冗談や悪意から、言っているのではない。
本当に自分のことがわからないのだ。
そして、その原因は――自分にある。
「ちょっと、おっとう! おっかあ!」
そのことを知らぬ妹がますます怒るのを、水珠は優しく止めた。
「いいの、雪梅」
「おねえちゃん?」
「全部、わたしのせいだから。ふたりを怒らないであげて」
「な、なに言ってるの? ねえ、わかんないよ」
困惑する妹に、父と母。
水珠は、三人の家族を眺め、どこか安心した気持ちになった。
「これが――あるべき姿だったんだ」
だから……と。最後に微笑み、
「元気でね、雪梅」
家を飛び出した。
「待って、おねえちゃん!」
妹が父の手を振り切り、追いかけてくる。
「ねえ、おねえ――あっ!」
転んだ。水珠は思わず振り返り、彼女のもとに向かうかどうか逡巡しているうちに、雪梅は立ちあがった。
その姿を、誇らしく思う。だから大丈夫だと思う。
優しき父と母、その娘なら、幸せに暮らしていける。
水珠は背を向け、里山を目指した。
もう脇目を振ることもなかった。
例の
「しゅ、
顔を上げずに問えば、
「山を登ろうとしていましたので、帰しました」
「……ありがとう、ございます」
「ご両親のことは、極彩色のせいにしておきました」
水珠はしばし黙りこくった。
なにを言えば良いのか。あるいは、これは言うべきことなのか。
迷い、幾度となく口を開きかけては、やめた。
けれど結局、齢十の彼女に、それを抱えておくことはできなかった。
「なにを斬ったのか、わかったんです」
無論、それは昨夜の、両親との間に起きた出来事を指す。
仙人は思った通り、余計な口を挟まないでいてくれた。
「あのとき、思ったんです。たぶん。おっかあに首を絞められて、悲しくて、苦しくて、もうなにがなんだか、わからなくなっちゃった。ただ、もう、無理なんだってことは、わかった。もう、昔みたいには戻れないって」
それはなぜ、と。
きっと、こう思ったのだ。
花剣をふたりに向けたとき。
「どうして、こうなっちゃったのかなぁ。どうして……おっかあとおっとうは、こんなにも、わたしを嫌いになっちゃったのかなぁ。だって、昔は、優しかった。だから……わたしみたいなのを拾ったのに。どうして、優しくなくなっちゃったんだろう」
仙人はやはり、答えない。
でも、それで良かった。
答えはもう、わかっているから。
「わたしの、せいなんです。わたしがいたから、ふたりは、優しくなくなった」
水珠は袖口で、目元をごしごしと真っ赤になるくらいに強く拭いて、立ち上がる。
「でも、もう、大丈夫! おっとうとおっかあは、これでもう、昔みたいに優しくなった! わたしは、もう、いないから! ふたりの、どこにも!」
ふたりの悪しき心を斬った。
ふたりを悪くした元凶を斬った。
ふたりは、かつてのふたりに戻った。
水の玉から産まれた、へそなしでも、我が子のように愛する――そんな人たちに。
なれば、こんなにも嬉しいことはない。
そうして浮かべた水珠の笑顔の、なんと歪なことか。
真っ赤な目と鼻。頬を流れた涙の筋は乾き、粉を吹いたよう。
口角は吊り上がり、眉間には深い皺が刻まれている。
仙人は、そんな彼女を見据えて、言った。
「貴女は今日から、私の弟子です」
言われるまでもなく、そのつもりだ。
もう帰る場所はないのだから。
「その花剣は、今は蕾のようなもの。まるで力を引き出せていません」
水珠は胸元の杏花を見た。
真っ白な、小さな花に秘められた神秘の力には、確かに底知れなさがあるように思えた。
「貴女がいずれ使いこなせるようになったとき、それがどんな花になるのかは、私にも検討がつきません」
「仙人さまのものなのに?」
「ええ。そういう霊剣なのです。心を斬れることすら、知りませんでした。ですから、斬ったものを元に戻す力だって、もしかしたら……」
その言葉に水珠は目を見開いた。
「ああ、誤解がないように言っておきますが、全く関係のない力の場合もあります。ですが、物を直す仙術はあります。生憎と私の知見にはありませんが、記憶や心に関係するものもあるかもしれません。ないようなら研究すれば良い」
「……で、でも、戻ったら」
「貴女が妹君のため、ご両親のため、頑張ったことは私からも説明させていただきます。今日、そうしようとしたように。もちろん、それでわだかまりがすっかりなくなるものではないとは思いますが……私の出来る限りのことはします」
「どうして、そこまで」
仙人はやはり、相も変わらず平静そのものといった顔で、
「貴女が私の弟子だからです」
そう、淀みなく答えるのだった。
水珠は改めて胸の花を見下ろし、それから己の頬を両手でパンと叩いた。
「わたしは水珠って言います! これから、よろしくお願いしますっ!」
「私は
「ですねー。なんかもう、いっぱいありましたから!」
「では、参りましょうか」
と、白銀君が差し出した手を取り、水珠は首を傾げる。
「どこへですか?」
「我ら仙人の修行場が一つ――
当然、空を行く。
ゆえに間もなく水珠の絶叫が雲間に響き渡った。
「むっ、無理無理無理! これ高すぎぃぃぃっ!」
「慣れてください。少し速度をあげますよ」
「うぇえぇぇっ!?」
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