第9話 澄泥

 澄泥チャンニィ清風セイフウというところの名士――町守の家に産まれた三番目の子で、長女である。

 幼き頃より父の画道を嗜む姿に慣れ親しみ、自身もその真似事なんぞをしているうちに、いつしか、それを生業とすることを志すようになっていった。


 澄泥、十歳。春のある日のことである。

 庭のあずまやにて紙と墨とを広げる彼女の視線の先には、蓮の花が浮かぶ池がある。

 その池面いけものきらめき、瑞々しく大きな葉、花の淡い桃色さえも墨の濃淡でもって紙面に描こうというのは、そう容易いことではない。


 古人いわく、墨に五彩あり、と。


 その五彩を充分に引きだせているかと問われれば、澄泥は否と答えるほかないというのが現状であった。

 とは言え、この歳では当然のこと。

 周囲からは歳の割りに上手なものだと評判だった。


「あら?」

 いつの間にやら蓮華の中に、一輪の黒牡丹が咲いている。


 もう牡丹は散りきっている頃だし、最後の最後まで粘ったものが風で飛ばされてきたのだとしても、そもそも、庭には牡丹がないのだから不思議なことだ。

 よっぽど高く舞い上がって、遠くまで運ばれてきたのだろうか。

 だとしたら、あまりにも偶然が過ぎるだろう。


 黒みがかった紫色の奇花を、もっとよく見ようと、屋根の下から出てみたときだった。


 空から一人の男が、宙吊りのような格好で、降りてきた。

 黒牡丹を拾わんと手を伸ばして。


 そのがたいの良い男を吊るせる縄はおろか、縄を括りつける先だって当然、天には存在しない。男は宙を浮いているのだった。

 まといし長袍チャンパオ――袖と裾が長い上衣は、質の良い純白の生地。腰帯、下衣と靴は黒色である。


 右胸の辺りには太極図が描かれているし、その霊妙さから澄泥はすぐに、

「仙人さま!」

 だとわかった。


「うおっ!?」

 彼は、その声でようやく少女の存在に気付き、一度は拾った花をまた落とした。


「仙人さま! ちょっと、描かせていただきますわね!」

「え、お? おう、決定事項なのな……。せめて格好良く頼むぜ?」

「それは仙人さま次第ですわ!」

「産まれ持ったものには、自信がないわけでもねえが」


 それはさておき、と彼は言う。


「俺も、ちょっと話をさせてもらってもいいか?」

「構いませんわ。わたくし、お喋りしながらでも描けますもの」

「花剣道士になってみねえか?」

「なんですの? それ」

「あー……ま、戦士みてえなもんだな。悪しき妖怪や術者を相手取って、世の乱れを抑える」

「妖怪とやらには興味ありありですわ! でも、わたくしは見ての通り、絵を嗜むお嬢さま。池に垂らした一滴の墨汁を掬うくらい難しいんじゃありませんの?」

「そのままじゃあな。だから俺が鍛えるのさ」


 町守の娘としては、政治や軍力では叶わぬ人助けというのは素敵なことに思えたし、画家を志す者としては、まだ見ぬ世界には好奇心が疼いた。

 そして、この後に見せてもらった仙術と、なにより、漆黒の花剣の美しさに見惚れ、澄泥はその日のうちに花剣道士となることを家族に伝えたのだった。


 家族も、黒鉄君が本物とわかれば、むしろ喜んで送り出した。


「ところで、お師匠さまはどうして、うちの池に花剣を?」

「そりゃもう、あれよ。……そう! あれだよ、澄泥。お前の興味を引くためさ」

「あら! では、まんまと乗せられてしまったわけですわね」



     ◇



 食後の雰囲気は、湿っぽいものとなっていた。


 初めて出会った道士ふたりが、互いの経緯を明かすのは、自然な流れと言えよう。

 そして水珠のそれが、自らの出生を伏せたとしても、夕食時には、揚げ物よりも重いことは言うまでもない。


 はじめこそ興味津々だった澄泥も最後には鼻をすすらずにはいられなかった。

「妹さんが無事で、本当に良かったですわねぇ!」


 水珠もまた、妹のことを思い出して目尻に涙を浮かべていた。

「うんっ! 白銀君さまのおかげだよ、ほんと」


「それで、ご両親のほうは……なにか良い術は見つかりまして?」


 静かに首を横に振る水珠。

「白銀君さまにも手伝ってもらって、色々な書物にもあたってるけど」


「そうですの……。もしも、わたくしの香が使えそうなものだったら、必ず教えますわ」


 香――花剣の秘めたる霊力を引き出して、特殊な能力を発揮させられるようになった段階。それは使い手によって異なるという。

 現状、水珠が大いに期待を寄せているものであり、己が現状を見つめれば見つめるほど、不安になるものでもあった。


「ところで、水珠?」


 次に出てくる言葉は、彼女にはおよその予想がついた。


「貴女の花は?」


 それは無論、剣の元となった花の種類ではなく、花剣の二つ目の段階を問うているのだ。

 花を直剣に変じる、という誰にでもできる段階――蕾の先にあるのは、使い手にとって最も使いやすい姿に変じられるというものだ。


「わたしは……まだ」

「あ、あら? そうなの?」


 その質問が出てきた辺りで水珠は予感していたが、やはり彼女はもう花に至っているらしい。

 少し困った顔で己が師、黒鉄君を窺った。


「そら、個人差はあらぁ。言っておくが、お前が特別に優秀なわけでも、水珠が特別にあれなわけでもねえぞ。なあ、白銀君ハク?」

「ええ。四人の花剣道士のうち、花が二、蕾が二です。なにも問題はありません」

「師が違えば弟子も違うっつー、当たり前のことだ。水珠、四六時中、花剣だけやってはねえだろ?」


「それは……はい」

 水珠はようやく、ここしばらくの焦燥感がいくらか、和らいだ気がした。


「でも」

 と澄泥。

「島外学習には早いのではなくって? わたくしたちだけ、なんて……」


「心配すんな。青錫君ショウの占いで、ちょうど良さげな地域を選出してある」


 澄泥は余計に心配そうな顔をして、

「占いって、本当に当たるんですの?」


「俺ぁ無理。けど、あいつは専攻だけあって八割は当たるぜ」


 なんにせよ、と彼は続けて、

「大事な弟子を、こんなところで死地に送り込むわけねえだろう?」


 それから白銀君は言った。

「花剣に仙術、知識に技術。この三年間で血肉としたものを感じる、良い機会となるでしょう」


 水珠と澄泥は互いに顔を見合わせ、それぞれの師に向かって頷く。


「がんばります!」

「万事つつがなく、やってみせますわ」


 その様子に黒鉄君は満足そうな顔を見せ、白銀君はやはり顔色をまるで変えなかった。


「それでは、ふたりとも。今日は早く休むように」

「明朝には発ってもらうからな」


 水珠たちは「はーい」と元気に返事するや否や、目を丸くする


「え、明日!?」

「そんなすぐの話だったんですの!?」

「聞いてないですよ!」

「聞いてませんわ!」


 仙人たちは図らずとも口を揃えて、答えた。


「そりゃそうだろ」

「今、言いましたから」

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