第4話 白き花の剣

 その妹が今、奇病で床に伏している。

 苦しんでいる。父も、母も。


 なのに自分は大根の一本すら売ってきてやれない。

 薬代の一銭も出せない。


 熱に効くという草の根を掘ってきたところで効きやしない。

 父や母に変なものを飲ませるな、と殴られる始末。

 水一杯飲ませてやることも、汗を拭いてやることも、自分の出る幕ではない。


 あまりにも、無力だった。


「人間じゃ、ないくせに! どうして、なにもできないの!?」

『おねえちゃんは、人間だよ。だって、あったかくてー、やさしいもん』

「でも、あなたを助けられない! 雪梅、あなたは、わたしを救ってくれたのに!」


 水珠スイジュは廃寺の軒下から飛び出し、振り返った。

「お願いします、仏さま! なんでもします! いつか……いつか必ず! このお寺を綺麗にします! だから、だから……っ!」


 涙をぽろぽろ流して月夜に叫ぶ。

「だから……! 雪梅シュエメイを、助けて! 助けてよぉっ!」

『いつかね、またね、みんなで仲良くなれるよ。あたしも、がんばるからね、おねえちゃん』

「雪梅が死んじゃったら……わたし……! どうして、わたしはぁっ!」


 産まれが普通じゃないのに。

 こんなにも無力なのだろう。


「化け物なら、せめて! 今をどうにかできる化け物に産まれたかった!」


 ついには石畳に蹲り、拳を叩きつける水珠。

「へそがないとか、それだけなんて、なんっなんだよぉっ!」


 その慟哭に答える者が、この廃寺にいるはずもなし。

 もしも、いるとしたら――それがどうして、普通の人間であろう。


「あなたにすべを授けましょう」


 声は頭上から降ってきた。

 遠くにまでよく通る、若い男の声だった。


 水珠は顔を伏せたまま、ぎょっとした。

 誰かのいる気配などなかった。近づいてくる様子も。

 突然、現れたとしか思えない。


 喉を鳴らし、恐る恐る、顔を上げてみる。


 目の前に、男が浮かんでいた。逆さまだった。

 二十代だろうか。町では見ない美形の上に、銀色の髪が眩い。

 その長めの髪は、地に垂れ下がることなく空に向かっていた。

 袖と裾が長い上衣――長袍チャンパオは質の良い純白の絹製で、腰帯もまた白なのに対して、下衣と靴は黒色である。

 右胸の辺りに、黒と白、二匹のおたまじゃくしめいた円模様が描かれている。

 それが太極図と呼ばれるものであることを、水珠は知らなかったのだ。


「ほ、仏さま……?」

 尋常ならざる逆さ男を、そう勘違いした彼女は、はっと我に返ると地べたに額を擦りつけた。

「お、お願いしますっ! 仏さま、妹をお助けください!」


 男が抑揚なく答える。

「まずは、お立ちなさい。服が汚れてしまいます」


 さして立派なものではないが、水珠は言われた通りにした。


「仏さま、どうか……」

「一つ、私は仏ではありません。仙人です」


 山奥に暮らしていて、不思議な術を使う、とても長生きな老人。

 水珠が仙人について知っているのは、そのくらいだった。


「二つ、妹君を助けるのは私ではありません。あなたです」

「わたし……? わたしに、なにができるって言うんですか……?」

「なにも。ゆえに、主なき寺で懇願しているのでしょう? 私は仏ではありませんが……先に言った通り、あなたに、その願いを叶えるすべを授けましょう」


 本来なら、得体の知れない、胡散臭い相手だ。

 常なら一目散に逃げたかもしれない。

 しかし、どんな神仏よりも、目の前の魔性こそ頼れる存在だった。

 妹のためならば、この命を捧げても惜しくはない。


「お願いします、仙人さま!」


 水珠は、深く、深く頭を下げる。

 その視線の先に、彼の爪先が現れた。それは、ゆっくり石畳に降り立った。


「手を」


 言われた通りに両手を差し出す。

 そこに、ぽん、と置かれたのは、一輪の白い花だった。

 小さくて可愛らしい、杏花だ。


 これはなんだろう。

 水珠が目で問えば、


「霊剣の一種。杏の花びらを、陽光、月影、春雷、夏草、秋水、冬風で鍛えたものです」

「剣、ですか?」


 首を傾げたときだ。

 杏花がほのかな光を発したかと思えば、ぱっと花びら舞い上がり、たちどころにその姿を変じていた。

 右手に握られたそれは、まさしく、一振りの剣であった。

 柄も刃も真っ白。神秘的な美しさを携えている。

 重さは、羽根のように、ほとんど感じられない。


 その霊験あらたかな様子に見惚れる水珠だったが、すぐに、仙人へ怪訝な視線を送った。


「で、でも、これでどうやって雪梅を……?」

 病を治したいのだから、てっきり霊薬でもくれるのかと思っていた。


 彼は淀みなく答えた。


「元を断ちます」

「というと……?」

「村人の奇病も、作物や虫たちの異常も、全ては」


 そこまで聞けば、水珠にも察せられた。


「やっぱり天狗テンコウの仕業なんですね!」

 そうとわかれば話は早い。

「退治してきます!」


 水珠は一目散に山道を駆け下りていく。

 気ばかり急いて足空回り。あわや転びそうになってしまう。

 坂の終わりで良かった。

 深呼吸。森から街道へ。

 そして村へ。急げ急げ急げ。


 流石に村まで持つはずもなく、少しだけ休んで、今度は早歩き。

 水珠の足元を蛇ほどに大きな百足が横切っていく。

 村の近くまで来た証拠だ。速度をあげる。


「な、なに、これ……」


 村の入口まで、本当に後少しだけ山道を駆け上がれば良いというところ。

 極彩色に薄く輝く帯が、幾つも、地を這うようにして、ゆらりゆらり漂っている。

 よく見れば、かすみもやのよう。それが淀み、帯になっているのだ。


 色彩は、水に張った油膜の如く、揺らめくほどに色模様を変えていく。

 見ていると、肌が粟立ち「うっ」と、えずきそうになる、不快感ある光だった。

 こんなものを見るのは初めてだし、噂に聞いたこともない。


「霊剣のおかげ、なのかな?」


 とにかく極彩色のもやには触れぬように、村へと入っていく。

 村内にも靄はよく見られ、色はなお濃い。

 上へ上へと行くにつれて、靄は濃く、多くなっているようだった。


 思えば、奇病の始まりは、村の最も高き家からだった。

 そして更に視線を上げていけば、山頂付近の、木々が密に生い茂って、瘤か団子のようになったそれが、煌々と極彩色に輝いているではないか。


「天狗め、よくも!」


 水珠はしかし、まずは妹の元へ向かった。段々になっている村の、およそ中腹辺りの右側に、彼女の暮らす土壁の平屋はある。

 戸口の隙間から、やはり帯が這入っていた。


 水珠は意を決し、その帯に剣を突き立てる。

 白い花びらが一片、ひらり、舞って空に溶けた。

 断ち切れた帯には、くっつく様子なし。


「す、すごい! 本当に霊剣なんだ」


 喜んだのも束の間、不安に陰る目元。

 今ので、雪梅は治ったのだろうか。楽になったのだろうか。


 確かめずにはいられない。水珠は、寝室がある家の右側に回り込む。

 格子の窓あり。内から布が吊り下げられており、中は見えない。

 いつも雪梅は、その真下で寝ている。


 格子窓は癖があり、軽く揺すると容易に外れた。

 物音を立てぬよう、慎重に家の中へと足を踏み入れた。


 両親もここで寝ている。

 もう少し奥、部屋の戸口の辺りから、ふたりの寝息が聞こえる。


 月影に浮かぶ妹の体には、なおも極彩色のもやがまとわりついていた。

 額に汗が玉になって、いくつも。寝息は荒く、未だ苦しそう。

 その吐息と共に、微かに寝言が漏れた。


「……おね……ちゃ……」


 思わず涙ぐむ水珠。

 この子がいなければ、あのとき、餓死する道を選んでいた。

 この子がいなければ、また家族と笑い合う未来なんて、望むことはできなかった。


 目元を袖で拭い、靄を睨みつける。

(――許さない!)


 一太刀、二太刀、三太刀。白き花びら舞う。

 極彩色の靄は散り散りになってくうに溶けていく。


 心なし、雪梅の顔が和らいだように見えた。

 これで良し。


 水珠が胸を撫で下ろした次の瞬間、髪の毛を勢いよく引っ張られた。

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