第3話 姉と妹

 水珠スイジュは静かに、家を出ていった。

 真っ赤な夕焼けが目に刺さる。燃えるように、熱かった。


 頬を伝う、その熱を吹き飛ばすためには、走るほかない。

 村の斜面を脇目も振らずに駆け降り、どこへ向かうでもなく、その足は自然に、森の中の廃寺を目指した。


 そこは、少し前に、木の実や野草の探索に夢中になっているうちに見つけたものだった。

 村からは程よく遠く、今ではきっと、知る者はごくわずか。

 もしも、お年寄りでさえ知らないとしたら、ふたりだけ。


 その本堂の正面階段に、水珠は蹲るように座り込む。

 ここに来て、ようやく、嗚咽をあげて泣くことができた。


 心のどこかで、自分は家族と血が繋がらないのではないか、と思っていた。

 雪梅が産まれてから段々と、両親との間に溝が深まりつつあったのは、きっと、そういうことなのだと思っていた。

 おへそのないことは、ずっと『なくしちゃったんだよ』なんて誤魔化されてきたけれど、もちろん、この年になってまで、それを信じてはいなかったけれど、だけど――まさか!


「ば、化け物だったなんて……っ! だから、だったんだ!」


 父と母が自分を見る目の奥に、いつの頃からか、影が見えるようになった。

 その正体が、今、わかった。

 あれは、恐れと嫌悪だったのだ。


「そりゃそうだよ! だ、だって、わたし……自分を娘だと思い込んでる化け物だもん!」


 母の言うことには一々納得しかない。

 本当に、よく、追い出さずにいてくれたものだ。

 その寛大さに、笑みさえ零れてしまう。


 なんて心優しい両親なのだろう。


 このとき、水珠の脳裏に浮かんだ父と母は、笑顔だった。

 かつては、そうして頭を撫でてくれたものだし、誕生日にはいつもより手の込んだ料理を作ってくれた。

 春には野山に花見に行き、夏には川で魚を獲った。

 秋には凧を揚げたし、冬には抱き締められて眠ったものだった。


 雨粒に入っていた得体の知れない人間もどきを、ふたりは確かに、我が子として愛してくれていた。


 水珠は鼻をすすりながら、幸せな思い出を噛み締める。

 刻一刻と日が傾き続け、地平線の彼方に消えていく。

 辺りが闇に包まれると鳥やら虫やらの鳴き声が、とてもよく聞こえてくる。


 世界に、独りになってしまったようだった。今はそれが心地よかった。

 誰も邪魔しない。父に舌打ちされるでもなく、母に嫌味を言われることもない。

 ここでなら、思い出に抱かれたまま、死んでいける。

 父と母の笑顔を見ながら死んでいける。


 水珠が動かなくなってから、何時間が経っただろう。

 ふと――足音が聞こえた。


 真夜中と言って良い時間だ。

 こんなときに、こんな森の中に用のある人間などおるまい。

 となれば、獣の類だろう。犬か、猪か。そこそこの大きさある動物に思えるから、猪だろうか。


 その足音は水珠のほうに近づいてくるようだった。

 もしかしたら、廃寺を巣の代わりにでもしているのかもしれない。


(わたしのことは、ほっといて……どっか、その辺で寝てください!)

 と、それが間近に来ても微動だにせずいたら、


「――おねえちゃん!」


 そんな可愛らしい声で肩を叩かれたものだから、びっくり仰天。

「ひゃあ!?」

 その声の主を見て、またびっくり。お団子頭の可愛い子。

「しゅ、雪梅シュエメイ!? どうして、ここに!?」


「だって、おねえちゃんが帰って来ないから。でも、やっぱり、ここにいた」

「今、何時だと!」

「おねえちゃんが言うー? この時間だから抜け出せたんだよう」


 唇を尖らせながら、雪梅は隣に腰を下ろした。

「泣いてたの? おねえちゃん」


 おねえちゃん――それを聞くたび、なんだか、胸を掻き毟りたくなるようだった。

 その言葉の影に、実は、化け物が潜んでいるのではないか。

 もしも、そうだとしたら、耐えられない。


「だれかに、いじめられた?」

「どうして……」幸せな思い出から引きずり出したのか。

「えっ? 前に教えてくれたよ? この辺にあるって。月が出ててよかった。じゃなかったら、ぜったい迷ってたもん」


 笑って、彼女は懐から包みを取り出す。

「おなか空いたよねえ。焼き餅をね、持ってきたよ。一緒に食べよ、おね」


 差し出されたそれを払い除け、立ちあがる水珠。

「わたしは! あなたの、お姉ちゃんじゃない! お姉ちゃんじゃ、ないんだよ!」


 あっ、と思ったときには、餅が階段を転がり落ちていく。

 雪梅は慌てて、それを追い掛けていったけれど、その直前に一瞬、驚きの顔を見せた。

 餅が飛んでいったことにか。それとも、水珠が出生の秘密を知っていたことにか。


 水珠は、とてつもない恐怖に襲われた。

 餅を拾った彼女は、次に、自分に対してどんな顔をするだろう。

 どんな目で見てくるだろう。


 妹に背を向け、蹲る。そして深く後悔した。

 今こうして、これまで通りに妹でいてくれたのだから、黙っていれば、表面上は、なにもなかったのではないか。

 ああ、でも、これから先、ふとした瞬間、その瞳の奥に、両親のと同じ影が見えたら。姉だと思い込んでいる哀れな化け物を見る目をされたら。


 なんにせよ、耐えられない。


 どうして、このまま、独りで死なせてくれなかったのか。

 恨めしい気持ちさえ浮かんできた。


 涙が出て、震えが止まらない。


 足音が――近づいてくる。


 水珠は耳を塞いだ。聞きたくなかった。

 妹にまで化け物と罵られたら、もはや、この場で頭をかち割って死ぬしかない。

 幸せな思い出なんて、全部、吹っ飛んでしまう。


 それだけは嫌だ。


 水珠の震えが、ひときわ大きく跳ねた。

 雪梅が隣にまた座ったのだ。

 そして、次の瞬間――温かなものに包まれた。

 抱きしめられたのだとわかったのは、思わず、顔をあげたときだった。


「おねえちゃんは、おねえちゃんだよ」


 そう言う彼女の顔は、今にも、泣きそうだった。

 いや、まさに今、ぽろぽろと涙は零れ落ちていった。


「おっ、おねえちゃんはっ! おねえちゃんだもん! おねえちゃんだもぉぉんっ!」


 わあわあと声をあげて泣き始めた妹を、水珠は優しく抱き返す。

「ご、ごめんね、ごめんね、雪梅!」


 なんて自分は愚かだったのだろう。

 本心では化け物だと思っている相手を、わざわざ、こんな夜更けに探しにくる者がいようか。

 勝気なところのある妹とはいえ、まだまだ幼い。

 月の出ているとはいえ、この暗い道をたった一人で来るなんて、どれほどの勇気がいったことだろう。

 どれほどの愛情があったことだろう。


 それでも来てくれたのは、ひとえに姉を心配してのことではないか。

 それも、血の繋がらない姉を。

 化け物の姉を!


 だというのに、自分はどうだ。

(どこまでも、自分のことしか、考えてなかった!)


 恥ずかしさが込み上げてくる。

 それから、愛おしさも。

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