第三十話 晩餐会、三者三様

 晩餐会の前日に厨房へ向かうと、すでに誰もが独楽鼠こまねずみのように立ち働いていた。鮫人を鼠にたとえるのはおかしいかもしれないが、考えてみれば人間を鼠にたとえるのも同じくらいおかしいだろう。


「凪さんはいつもと同じように、食事が終わったら部屋に戻っていいよ」


 航はそう言ってくれたが、


「いえ……ご迷惑でなければ、今日と明日は私も一日中働かせてください」


 凪はそう申し出た。航は凪の心中を察したらしく、


「迷惑どころか大助かりさ。じゃあ、お願いするよ」


 あっさりと受け入れてくれた。


 独楽鼠仲間に加わって夜まで働き、布団に入るやいなや夢も見ない眠りに落ち、翌日も朝から息つく間もなく働く。あの日から大好きな本にも集中できず、毎夜のようにルイスに責められる悪夢を見ていた凪にとって、思ったとおりこの忙しさは救いとなってくれた。鹿肉の炙り焼きや甘鯛の素揚げ、松茸の土瓶蒸しなど、見たこともない豪華な料理を作るのも、それらをふだんのものより上等であろう、秋の風物の描かれた皿や、吸いこまれそうな瑠璃色や藍色の鉢に盛りつけるのも楽しい。


 狼人たちは三時ごろ到着し、六時から始まる晩餐会までは龍宮を見学していたらしい。厨房の鮫人の一部は給仕もおこなうことになり、凪もその役目を任されたため、くだんの狼人の国の王を近くで見ることができた。外見上の年齢は四十代半ばというところだろうか、顔立ちも体つきも精悍で、髪は銀灰色で男性にしては長く、黄金色の目には鋭い光が宿っている。美丈夫という評判が立つのもうなずけた。凪と同様に給仕に選ばれた沙織の心境を想像すると、唇がほころびそうになる。


 だが、凪自身はやはり、狼人の国の王の隣で、やや緊張した様子で談笑している広海が気になってならないのだった。


 器を下げていた少年が転んで足を挫いてしまうという小さな事故はあったが、晩餐会はおおむねつつがなく終わった。凪たちは後片づけをしながら交替で夕食をとる。後片づけも終わって湯を使い、部屋に戻ってきたときには、もう深夜だった。洋子が敷いてくれていた布団に倒れこみ、そのまま意識を手放す。


 ――むろん、凪は知る由もなかった。


 晩餐会のあいだ、凪に狂熱的な視線を注いでいる者がいたことを。


     ***


 狼人の国の王の護衛である武雄は、宴会場に向かってきたひとりの少女の姿に、心臓を射貫かれたような気がした。


 何て可憐な子なんだ……!


 ゆるやかに波打つ亜麻色の髪、光の加減で色を変える神秘的なはしばみ色の瞳、抱きしめたら折れそうな華奢な体。一瞬たりとも気をゆるめない訓練を積んでいるこの自分が、彼女が通るたびに目を奪われてしまう。抱きしめ、口づけ、その体を思う存分貪りたいという欲望が、胸のなかで手負いの獣のように荒れ狂う。


 ああ、あの子を妻として娶ることができたら……!


 だが、それは叶わぬ夢だ。彼女は鮫人――陸では生きられないさだめなのだから。


 武雄は晩餐会ができるかぎり長く続くよう、誰にともなく祈りつづけ、とうとうお開きになったときにはこの世の終わりが訪れたように思った。明日と明後日も王たちは龍宮に泊まるが、夕食は明日はレストラン、明後日は料亭でとることになっている。あの少女が給仕をする可能性はなきに等しいし、会える機会すらもうないかもしれない。


 次の番の護衛と交代し、武雄も夕食をとった。王たちにはむろん及ばぬものの、いつもよりはずっと豪華な食事だというのに、砂を噛んでいるような気がして飲みこむのも難儀だ。


 あきらめるのだ、忘れるのだ。こんなざまではお役目にも差し支えるぞ。代々王の護衛を務めてきた山之上やまのうえ家の男が、女にうつつを抜かして失態をおかすようなことがあったら、末代までの恥だ。


 自分を叱咤しても、あの少女の面影は武雄の脳裏から消えるどころかますます鮮明になり、眠りすら与えてくれなかった。


     ***


 厨房の鮫人のひとりが足を怪我したと聞き、宴会場の出入口へ向かった真帆は、ちょうど宴会場から凪が出てきたのに気づいた。


 自然に、平常心で、自然に、平常心で……。


 心のなかで唱えながら会釈を交わしてすれ違ったあと、今度は、とりわけ背の高い護衛の狼人が凪を見つめているのに気づいた。その橙色の目で燃えているのは、まぎれもなく恋と情欲の炎だ。


 一目惚れ、っていうやつね……。


 広海と凪が惹かれ合っていなかったら、あるいは真帆が広海を想っていなかったら、ただ微笑ましく思うだけだっただろう。だが実際の真帆は、微笑ましく思うどころかある計略を思いついていた。


 あたしはまたこんなひどいことを……!


 真帆はたちまち自分を恥じ、その計略を頭から追い出して少年の怪我を診た。挫いただけで骨は折れていないことにほっとして、一緒に来た看護人に少年を運ぶように指示する。


 その場を去ろうとして再び護衛の狼人に目をやり、真帆は胸を衝かれた。狼人の目が、あまりにも沈痛で悲愴だったからだ。


 無理もないわ。あのひとは凪さんのことを鮫人だって……陸じゃ生きられないって思ってるにちがいないもの。


 広海のことを想っているときの自分もあんな目をしているのだろうか――そう思うと、ふいに狼人に親近感が湧いた。狼人の思いこみを正してあげたい、恋を叶えてあげたいという気になった。


 実直そうなひとだもの、きっと凪さんを大切にしてくれる。大切にされたら、凪さんの心だって動くかもしれない。陛下はもちろん悲しまれるでしょうけど、ご自身と結ばれなくても、結果的に凪さんが幸せになればそれでいいと思われる方だわ……。


 いつの間にか、真帆の心の天秤は、一度はひどいことだと思った計略を実行するほうへと傾いていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る