第三十一話 拉致

 翌日の夜も、翌々日の夜も、武雄はほとんど眠れなかった。もっとも、三夜くらいの睡眠不足で集中力が落ちるほどやわではない。いつものように四方八方に怠りなく気を配っていると、向こうから鮫人の少女が歩いてくるのが目に留まった。縮れた髪に巴旦杏アーモンド型の目、小さな体躯――昨日皿を下げていて転んだ少年を診ていた、医師と思しき少女だ。


 むろん、廊下を行き来する鮫人はほかにも大勢いる。彼女のことが気になったのは、表情にも歩き方にも緊張感がにじみ出ていたからだ。仕事柄、そういうものには過敏といってもよいほど敏感な武雄である。


 武雄の前を通るとき、少女は足をゆるめて何かを差し出してきた。はっと身構えてまなじりを吊り上げると、少女は一瞬足を止め、懇願するように武雄を見つめる。


 毒気を抜かれて目を落とすと、細く折られて結ばれた紙が見えた。紙というよりふみと呼びたいような――。危険なものにも、危険なものが隠されているようにも見えない。


 受け取って目を上げると、少女はなぜか取り返しのつかないことをしてしまったような顔をしていた。だがすぐにきゅっと唇を引き結んで前を向き、足早に去ってしまう。


 夜、部屋に戻って床に就くと、同室の狼人たちはものの数分で健康的な寝息を立てはじめた。結び目をほどく間ももどかしく紙を開き、癖はあるが丁寧に書かれたことのわかる、小さな文字に目を走らせる。狼人は狼に負けず劣らず夜目が利くのだ。



 突然お手紙を差し上げるご無礼をお許しください。わたくしは龍宮の医師で真帆と申します。


 一昨日、あなたが、亜麻色の髪に榛色の目をした給仕の少女を熱心に見つめていらっしゃったのに、わたくしは気づいていました。


 実は、折り入ってあなたにお願いがあるのです。


 彼女は凪といって、鮫人ではなく人間です。わたくしたちの王に生贄として捧げられて(ご存じのとおり、人間は、不漁のときは子どもを生贄に捧げれば豊漁になるという迷信を信じています)大怪我をしていたのを王が連れ帰り、わたくしたち医師が治療したのです。


 ですが、治療にあたった医師のひとりが、凪に恋をしてしまいました。君がいなければ生きていけない、君はぼくの想いを受け入れてくれないのか、命の恩人を殺すつもりなのかと、半ば脅すように凪に言い寄っています。わたくしがいくら注意しても耳を貸しません。


 好きでもない相手に毎日言い寄られて、凪はすっかり憔悴しています。かといって、自分を生贄に捧げた村人たちのもとに戻りたいはずもありません。


 どうか、今夜のうちに凪を陸に連れていってくださいませんか? そして、あなたがたの国の住人にして、あなたの手で幸せにしてくださいませんか?


 凪の部屋は二ノ城にあり、場所は下の図のとおりです。凪には眠り薬を飲ませるので、ちょっとやそっとのことでは目を覚まさないでしょう。


 もしお願いを聞いてくださるのでしたら、午前零時の鐘が鳴るころ、凪を連れて北門のそばにいらっしゃってください。



 読み終えたとき、武雄は自分がいつの間にか眠りに落ちていて夢を見ているのではないかと思った。それほどの驚きと喜びが、彼の厚く硬い胸に広がっていたのだ。


 あの子は鮫人ではなく人間……! おれと一緒に陸で生きられるのだ。しかも生まれ育った村には戻れず、この龍宮でも辛い思いをしている。人間の世界にも鮫人の世界にも居場所がないのだ……。


 いままでは思いこみに過ぎないと決めつけていた運命というものの存在を、生まれて初めて信じられると思った。


 目が覚めて見知らぬ場所にいたら、あの子は……凪は驚きおびえるだろう。事情を話しても、しばらくは心を開いてくれないかもしれない。だが、誠実に接していれば距離は次第に縮まり、ついにはおれを愛してくれるようになるはずだ。女とはそういうものだし、ましておれには運命とやらが味方してくれている。


 これまで色恋沙汰と無縁だった武雄は、恋心というものがまるでわかっておらず、どこかに女性を軽んじているところもあるのだった。


 武雄は凪の部屋の場所を頭に叩きこみ、手紙をたもとに入れた。目は冴えわたっていたが、万が一にも眠ってしまわないように身を起こしておく。


 時は蝸牛かたつむりのようにじりじりと進み、ようやく零時の鐘が鳴った。武雄は布団から滑り出し、忍び足でふすまへ向かって暗い廊下に出る。狼というよりは猫科の動物のようにひそやかに。


     ***


 凪を抱いた武雄の姿を見たとき、真帆が真っ先に感じたのは落胆と後悔だった。


 北門のそばで隠れているあいだ、いっそ武雄が現れなければよいと――いや、現れないでほしいとさえ思っていたのだ。


 だが、武雄は凪を連れてきてしまった。


 歳よりも幼く見える凪の寝顔を見ていると、真帆の心はますます沈んだ。良心の声が、おまえはもう「いやな鮫人」どころではなく最低の鮫人だ、愛するひとを悲しませ、こんなに気立ての好い少女を再び苦しめようとしていると責め立ててくる。


 だが、もう後戻りはできない。凪が医師のひとりに言い寄られて困っているなんて真っ赤な嘘だと打ち明けたら、国と国の関係さえ悪化しかねないのだ。


 真帆はこぶしを作って自分を奮い立たせ、まず武雄に頭を下げた。武雄が律儀に頭を下げ返してくれたことで、ほんの少しだけ気が楽になる。彼が実直そうだと思った自分の見立てに間違いはなかったようだ。


 次に、麻酔薬を沁みこませた布と注射器を懐から取り出し、武雄に布を渡した。門に目をやってから手で口を押さえてみせると、武雄は真帆の意を察したらしくうなずいてくれる。


 真帆は中背の、武雄はやや背の高い門番に忍び寄った。注射器の針が中背の門番の腕に突き刺さり、布がやや背の高い門番の口をふさぐ。二人はすぐにくずおれて動かなくなった。真帆の薬はこういうものでも効果絶大なのだ。


 真帆は一度門の内側に戻り、地面に置いておいた風呂敷包みをほどいて、海豹あざらしの後ろ足のようなかたちの道具を一対取り出した。それを抱えていって武雄に渡し、自分の足を叩いてみせる。武雄は今度もすぐに真帆の意を酌み、足に道具を装着してくれた。


 それを見届けた真帆は目を閉じ、自分の姿が変貌していく様子を思い描いた。髪や着物は消え、鼻は渦巻のような曲線を描き、体は流線形になって焦茶色の縦縞が現れ、手は胸鰭に足は尾鰭になり、背中には背鰭が、腹部には腹鰭と尻鰭が生え――。


 一分も経ったころには、真帆は全長三丈あまりの猫鮫になっていた。もっとも、彼自身も狼の姿になれる武雄に驚きの色はない。


 武雄に目配せして左右に体をくねらせると、武雄もしっかりと凪を抱え直して力強く水底を蹴った。

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