第二十七話 選択

 広海に海を案内してもらった数日後の朝、凪が厨房を出ようとすると、


「凪さん、ちょっとお願いがあるんだけど」


 航に手招きされた。さりげなく聞こえるが、どこか真剣みを帯びた口調だ。


 航さんからお願い……?


 怪訝に思いながらも、凪は背筋を伸ばした。


「今日は九時の鐘が鳴るころ、陛下が凪さんの部屋に行かれてあるお話をされるはずなんだ。だから、悪いけどそれまで部屋にいてもらってもいいかい?」


 つまり、実際には航ではなく広海からのお願いということだ。


 心臓が早鐘のように鳴りはじめた。航はできるかぎり凪を気負わせまいとしてくれているようだが、「あるお話」というのが重大な話であることは明らかだ。


 もしかして、あの日お別れするとき、広海様がどこか憂わしげでいらっしゃったことと関係があるのかも……。


 いずれにせよ断るわけにはいかない。凪が承知すると、航は励ますように力強くうなずいた。


 九時の鐘が鳴って間もなく、


「凪……いいかい?」


 緊張をはらんだ広海の声がした。


「は、はい……!」


 負けず劣らず緊張して返事をし、ふすまを開ける。現れた広海の表情は、声と同様に硬い。


「お邪魔するよ」


 心持ち肩をすぼめて入ってきた広海に、凪は座布団をすすめたが、


「大丈夫、君が使っておくれ」


 ぎこちない笑顔で断られてしまった。内心がっかりして座布団を置き、おずおずと腰を下ろす。たっぷりと綿の詰まった座布団も、いまは針のむしろのように感じられた。


 広海は凪の前に腰を下ろし、


「航に聞いたと思うけれど、今日は君に話があるんだ……大事な話が」


 再び硬い表情になって切り出した。


「はい……」


 凪はうなずいて思わず生唾を飲みこむ。


「実は……龍宮に来てもらうことになった人間にはみんな、ある薬を飲んでもらっているんだ。君は気を失っていたから、無理やり飲ませてしまったわけだけれど……。その薬を飲むと、海のなかの環境にも適応できるようになる」


「あっ……」


 龍宮や街では鮫人も人間の姿をしているから気づかなかったが、本当はどちらも人間が生存できる環境ではなかったらしい。


「ただ……その薬はふた月程度しか効かないんだ。しかも、二度以上飲むことはできない。副作用で体に障害が表れたり、ともすれば命を落としたりするおそれがあるから……」


 苦渋に満ちた広海のことばに、まず頭のなかが真っ白になり、次に目の前が真っ暗になった。


 龍宮に来てからひと月以上経っている……。じゃあ、長くてもあとひと月くらいしか、わたしはここにいられないということなの?


 そんな疑問――いや、確認のことばを口にしようとしても、喉が干上がったように乾いていて声が出ない。


「あっ、でも……!」


 広海はあわてて片手を振った。


「特殊な手術を受ければ、ずっと海のなかで暮らすことができる。ただそれは裏を返せば、もう陸では暮らせなくなってしまうということだ。鮫人や手術を受けた人間が、陸の環境にも適応できるようになる薬もあるにはあるのだけれど、それもやっぱりふた月程度しか効かないし、二度以上飲むことはできないんだよ」


 陸で暮らせなくなってもかまいません――喉元まで出かかったことばをはっと飲みこんだ。そうさせたのは、父ルイスの存在だ。


 銛田家にいるあいだ、生きていればルイスに再会できるかもしれないという希望にすがっていた。その希望がついえてしまうのを、おいそれと受け入れることはできない。


「もちろん、手術を受けずに陸に戻ることを選ぶとしても、絶対に銛田家には戻さない」


 広海はきっぱりと言った。


「狼人たちに頼んでいい働き口を見つけてもらうし、十分なお金も渡す。働きたい場所や就きたい仕事があったら言ってほしい」


 広海の気遣いはむろん嬉しくありがたかったが、かえって凪を悩ませもした。陸に戻ることが銛田家に戻ることを意味していたなら、凪は龍宮に残ると即断することができただろうから。


 何も言えないままの凪に、


「いますぐに決めてくれなんて言わない。念のため、薬を飲んでから五十五日後までには決めてもらうことにしているけれど、それでもまだ二十日以上あるんだ。そのあいだ、じっくり考えればいい」


 広海は春の日差しを思わせる口調で言った。


「はい……」


 凪もようやくほんの少し落ち着きを取り戻し、かぼそい声で答える。


 広海が部屋を出ていくと、凪はふすまを閉めてふらふらと座布団に戻ろうとした。だが、たどり着かないうちにぺたりと座りこんでしまう。


 あと二十日と少しで、龍宮に残るか陸に戻るか決めなくちゃいけないなんて……。広海様は「二十日以上ある」という言い方をしてくださったけれど、きっとあっという間に過ぎてしまう。


 もちろんわたしはここが好き。ここの鮫人さんたちが好き。広海様のおそばにいたい。でも、生きてお父さんと会えなくなってしまってもいいの? お父さんだってわたしに会いたいと思ってくれているにちがいないのに……。


 今日もまた食事のしたくをしていても心ここにあらずで、沙織をはじめとする厨房の鮫人たちに心配をかけてしまった。図書館に行く気も本を開く気も起こらず、布団に入ってもなかなか寝つけない。ようやくまどろみはじめたところで、夢を見た。


 凪は再び広海と一緒に、あの活気に満ちた街を歩いていた。広海は楽しげにあちこちの店をひやかしている。その横顔を見て、やっぱり龍宮に残ろう、海がわたしの居場所なんだと思う。


 だがそのとき、


「凪……」


 後ろで名を呼ばれて振り向くと、青い目に悲しみの色をたたえた金髪の青年が立っていた。


「お父さん……!」


 ルイスの声も顔も覚えていないと思っていたが、どこかには記憶が残っていたのだろうか、凪はためらいなくそう叫んでいた。


「凪……おまえはぼくではなく、彼を選ぶんだね……」


 その口調は目の色をしのぐほど悲しげだ。


「ちがう、ちがうの……!」


 必死に否定する凪の胸を、


「何がちがうんだい? ああ、親不孝な娘だね。おまえたちのために家を出たぼくの気持ちなんて考えてもくれない……」


 嘆かわしげで恨めしげなことばがえぐった。歯を食い縛ってうつむくと、ルイスはあきれたようなあきらめたような顔でかぶりを振る。その姿は次第に煙のように薄れはじめた。


「お父さん……!」


 再び叫んだ自分の声で目が覚めた。全身に心音が鳴り響き脂汗がにじみ、頬が生暖かいもので濡れている。


 大丈夫、ただの夢だ。わたしの罪悪感がお父さんの姿を借りて現れただけだ。本当のお父さんがあんなこと言うはずない。思ってるはずない……!


 手の甲で目と頬をぬぐって自分に言い聞かせたが、胸の痛みは和らがず、新たな涙があふれ出した。

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