第二十話 海案内(一)
「凪ちゃん? じゃがいもはみじん切りじゃなくて乱切りだよ!」
沙織のことばに、凪ははっとして切り刻まれたじゃがいもを見つめた。
「す、すみません……!」
航があわてたそぶりもなく近づいてきて、
「味に変わりはないからいいよ。次からは気をつけてね」
ひらひらと手を振り、凪を見てにやりとした。――何もかもお見通しのようだ。
「凪ちゃん、今日は何だか上の空だね。何かあったの?」
「な、何でもないんです……!」
沙織の心配そうな様子に、申し訳なさが募った。お弁当の献立に悩んで朝餉のしたくで失敗するのでは、本末転倒だ。かぶりを振って気を引きしめる。
朝餉が始まると再びお弁当の献立を考えはじめ、終わるころにようやく心を決めた。――というよりも、もう決めざるをえなかったのだが。
朝餉の後片づけが終わってひとりになると、まず米を炊いた。炊き上がった米を蒸らしているあいだに鯖に塩を振り、鶏の挽き肉を菜種油で、椎茸としめじを
鯖の塩焼き、南瓜のそぼろ煮、茸の
後片づけをして風呂敷に弁当を包み、二ノ城の入口へ向かった。間もなく広海が現れ、つややかな青い着物に銀鼠色の帯の男性二人が車を牽いてくる。車には、屋根と一対の大きな車輪と二本の棒がついていた。本の挿絵で、こういう車が牛に牽かれているのを見たことがある。
お忍びの外出だからだろう、広海は薄墨色の着物に黒い帯という目立たない格好で、頭巾をかぶって白い髪を隠していた。
「お待たせ、凪」
「い、いえ……ちっとも待っていません」
凪の答えに広海はくすりと笑い、
「じゃあ、さっそく出発しようか」
先に車に乗って凪に手を差し伸べた。どきどきしてその手を取った凪を、思いがけない力で引き上げてくれる。車には畳が敷かれて座布団まで置かれていた。
二人の男性が車を牽きはじめた。庭を抜けて龍宮の門をくぐったとたん、二人は金属光沢のある青い鮫に変身してゆるやかに上昇していく。
「うわぁ……!」
凪は歓声を上げた。まるで空を飛んでいるような気分だ。空と異なるのは青色が深いこと、雲がないこと、青魚、
鮫人たちは次第に速度を上げていき、
「彼らは
広海は我が事のように得意げに言った。
やがて、眼下に大きな街が見えてきた。まわりには多くの車が停まっている。青鮫人たちが降下し、広海の車も仲間入りをした。
再び広海に手を取られて車を降りると、
「君たちも……」
広海は青鮫人たちに目配せし、二人は嬉しそうに近づいてきた。門をくぐると、
「時計塔の鐘が一時を告げたら、ここに戻ってきてほしい。それまでは自由に過ごしておくれ」
広海は人間のことばで青鮫人たちに言い、二人は礼を言って街のなかへ消えていった。
「彼らだけ置いてけぼりではあんまりだし、かといって私と一緒では気づまりだろうからね」
「あ……」
本当に王らしくない気遣いをするひとだと思いながらも、その理由のひとつが「私と一緒では気づまりだろうから」というもので、「凪と二人きりになりたいから」というものではないことに、ほんの少しだけがっかりしてしまった。
だがすぐに、広海が自分と二人きりになりたいなどと思うはずがない、うぬ惚れにもほどがあると自分を戒めた。
そう、二人きりになりたいなんて思っているのは、わたしだけなんだから……。
そう思ったところで、自分で自分の気持ちに驚いてしまう。
わたしは広海様にお会いしたい、広海様とつながっていたいと思っているだけじゃなく、二人きりになりたいとまで思っているの……?
「大丈夫?」
広海の問いで我に返った。
「は、はい……! え、ええと……こんな大きな街に入るのは初めてなので、気おくれしてしまって……」
「気おくれなんてしなくていいよと言いたいところだけれど、気持ちはわかるつもりだよ。私も初めてここに来たときにはそうだったから……」
「えっ……でも、龍宮だってあんなに綺麗なところではありませんか」
広さではかなわないが美しさでは負けない――いや、龍宮のほうがはるかに勝っているだろう。
「ああ……実は、私は龍宮で生まれたけれど、物心ついたころには田舎の小さな町に引っ越していたんだ」
「えっ……?」
むろん理由が気になったが、広海がどこか気まずそうなので、尋ねるのは憚られた。だが、
「別に理由は内緒っていうわけじゃない。それどころか、この国のほとんどの鮫人が知っていることだよ」
次の瞬間には、広海は屈託のない微笑を浮かべる。
「私の父……先代の王は、歳をとってから龍宮の洗濯係の女性に恋をして、まぁその……私が生まれたんだ」
凪はもちろん、広海まで赤くなっていた。
「でも、父の妻……つまり王妃が私の母に嫉妬して、母と私に何かと意地悪をしたらしいんだ」
一瞬、物語のようだと思ってかすかに胸をときめかせてしまったが、意地悪をされた広海と広海の母はただつらいだけだっただろう。
「母はとうとう耐えかねて、私を連れて行方をくらましてしまった。父は必死に私たちを捜してくれたらしいけれど、結局見つけられないまま世を去ってしまった。そのときには王妃も世を去っていて、父には私のほかに子どもがいなかったから、母はようやく私を連れて龍宮に戻ったんだ。母はいまでは龍宮の一ノ城の一室で穏やかに暮らしているよ」
「そうだったのですね……」
広海が気さくで、臣下や使用人と友人同士のような関係を築いているのは、その生い立ちによるところも大きいのだろう。
「おっと、こんな話をしている場合じゃなかったね」
広海は苦笑して歩き出したが、凪は「こんな話」だなどとは思っていなかった。広海にまつわることなら何でも知りたかったのだ。暗いことでも重いことでも――。
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