第十二話 初めての本(二)

「じゃあ、話を戻すよ。この本は子ども向けで、文字より絵が多いから、絵だけでだいたいどんな物語かわかると思う」


「そうだったんですね。でも、こんなことまでしていただくわけには……」


「何を言うんだい。むしろこんなことでは……」


 鮫の王はそこではっとして口をつぐんだ。


「……?」


 凪が目をしばたたいていると、


「そ、そう……君はお客さんなんだから、遠慮は要らないんだ」


 鮫の王はまだ少しうろたえながら、洋子と同じようなことを言った。気にはなったが、気になったことを追及することなど思いも寄らない凪は、


「ありがとうございます……」


 ただ素直に礼を言う。鮫の王は再び安堵の色を浮かべ、


「どういたしまして。――よっこらしょ」


 本を抱えて立ち上がった。


「あっ……わたしが運びます」


 凪もあとに続いたが、


「だめだめ。怪我人に力仕事なんてさせられないよ」


 鮫の王はかぶりを振った。


「わっ、わっ、わっ!」


 その拍子にまた本が落ちそうになったので、凪は思わず片手で本を押さえ、片手で鮫の王の手首をつかんでしまう。とたんに頬がかっと熱くなり、


「ごめんなさい……!」


 あわてて手を離した。鮫の王は淋しげに微苦笑する。


「どうして謝るの? 君は私を助けてくれたのに」


 条件反射的に謝る癖のついている凪は、どうしてと尋ねられて戸惑ったが、


「その……わたしなんかに触れられてもご不快かもしれないと思って……。それに助けたなんて大袈裟です」


 納得できる理由をひねり出した。鮫の王はますます淋しげな顔になったが、すぐに何かを決意したような顔になる。


「あんな家にいたんじゃそんなふうに考えるようになるのも無理はないし、ここの鮫人だって誰もが聖人君子というわけではないけれど、私は君が少しでも気持ちよく過ごせるように力を尽くすつもりだ。だからどうか……あまり萎縮しないでほしい」


 ああ、この方も、わたしが銛田家でどんな扱いを受けてきたか知っていらっしゃるんだ――。


 昨日真帆に傷のことに言及されたときと同様、居たたまれない気持ちにもなったが、それ以上に鮫の王の真摯な様子に胸を打たれていた。


「はい、すみませ……いえ、ありがとうございます」


 凪の返事に鮫の王は微笑を――今度は心から嬉しげな微笑を浮かべ、布団のそばまで本を運んでくれた。凪は一歩後ろをついていく。


「楽しんでもらえるといいのだけれど。じゃあ、また……」


 鮫の王は片手を上げ、


「重ね重ね、ありがとうございます」


 凪は再び礼を言っておじぎをした。


 鮫の王が部屋を出ると、凪は座布団に座っていちばん上の本を手に取った。表紙には、夜の庭で見つめ合う豪奢な衣装の若い男性と、対照的に粗末な格好の若い女性が――むろん二人とも鮫人なのだろう――描かれている。庭も二人の衣装も西洋のもののようだ。


 本を開くと、一ページ目には幸せそうな夫婦と赤ん坊が描かれていた。たちまち目を奪われ、すみずみまでじっくり眺めてから頁をめくる。


 身分の高い家に生まれ、何不自由なく幸せに暮らしていた少女が、母親を喪って継母に家を追い出され、行き倒れてしまう。少女は龍宮で炊事係をしている女性に救われ、彼女の下で働くことになり、王子に見初められて恋仲になる。それを知った王妃はあの手この手で二人の仲を裂こうとするが、どの企みも少女の知恵と勇気のおかげで失敗に終わる。王妃はとうとう少女を殺そうとするが、少女は絶体絶命の危機を切り抜け、王妃の企みは全て露見する。王妃は龍宮を追い出され、少女と王子はめでたく結婚する――それが本の筋書きのようだ。


 凪は何度も何度も読み返し、読み終えるたびに本を抱きしめてため息を漏らした。

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