第一話 薄幸の少女

なぎ!」


 この屋敷で凪の名が呼ばれるのは、二つの場合だけだ。


 命令されるときと、怒られるとき。


 決して、「𠮟られる」ときではない。「叱る」というのは根本的には相手のための行為だ。


 対して、「怒る」というのは自分のための行為。凪の名を呼ぶ者に、彼女の成長を願う気持ちなど微塵もないことは明らかだ。


 さらに正確にいえば、彼らの行為は「怒る」ということばではおとなしすぎるものだ。そこには必ずといってよいほど暴力が含まれているから。


 いまの呼ばれ方は、間違いなく怒られるときのものだ。凪は一度大きく震え、その後は小さく震えながら、膝を突いたまま声のしたほうを向いてひれ伏した。


 どすどすという足音が近づいてきたかと思うと、


「今日おれの部屋を掃除したのはおまえだそうだな!? また埃が残っていたぞ!」


 肩を踏みつけられ、脇腹を蹴りつけられた。


 この屋敷の主人である正彦や、跡取り息子である義彦の――目の前で鬼のような形相をしているこの男だ――部屋は、いつも病的なほど念入りに掃除している。義彦が嘘をついているか、凪をことのほか嫌っている珠代や菊乃といった使用人が、掃除のあとに埃を置いたかのどちらかだ。


 だが凪にとっては、反論することはおろか、怒りを抱くことすら贅沢すぎる行為だ。


「うぐっ!」


 呻き声を上げて広縁に転がった凪を、義彦は蹴りつづけた。顔だろうと腹だろうと容赦なく。頭を抱え体を丸めても、ほとんど役には立たない。義彦もさすがに手加減はしているようだが、それは万一凪が死んでしまったら、もういたぶることができないからに過ぎないだろう。


「も、もうしわけ……ありません……。もう、おゆるしください……」


 蹴りがやんだ一瞬の隙にことばを絞り出したが、


「お許しください? それは命令か? おまえはおれに命令するのか!?」


 義彦はむちゃくちゃな言いがかりをつけ、凪の亜麻色の髪をむんずとつかんで引きずっていった。頭皮が剥がれそうな痛みに、再び許しを請いそうになるが、もっとひどい目に遭わされるにちがいないので歯を食い縛って耐える。


 広縁の端まで来ると、義彦は凪の髪から手を離し、庭に向かって蹴り飛ばした。転がり落ちた拍子に石で頭を打ち、一瞬気が遠くなる。


「この程度の罰で済むと思ったら大間違いだぞ。今日の夕餉と明日の食事は抜きだ! わかったな!?」


「…………は、い……」


 凪の返事が終わらないうちに足音が響きはじめた。それが遠ざかっていくのを聞き、心の底から安堵する。だがそれもほんのひとときのこと、明日は丸一日激しい飢えに苛まれるのだと思うと、胸に鉛を詰められたような気がした。むろん、蹴られた部分も石に打ちつけた頭もずきずきと痛む。


 それでも、これ以上倒れているわけにはいかない。義彦が戻ってこないともかぎらないし、珠代か菊乃に見つかればやはり暴力を振るわれるか、でなくとも罵詈雑言を浴びせられるだろう。


 凪は身を起こして頭の傷に触れた。指先にべっとりと血がついたが、この程度の出血など日常茶飯事だ。着物で指をぬぐい、今度はその着物についた土を払う。よろよろと立ち上がって広縁に這い上がり、もといた場所に戻って再び雑巾をかけはじめた。

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