或る命の終わり

由希

或る命の終わり

 妻が死んだのは、盆が少し過ぎた夏の終わりの事だった。

 いつもと同じはずの朝だった。それがいつもと違うと気付いたのは、朝食を作り終わる時間になっても妻が起きて来なかったからだった。

 どうしたのだろうと寝室に戻り、布団で眠ったままの妻の体を揺らす。そこで気が付いた。手のひらから、ひとつの熱も伝わってこない事に。

 恐る恐る頬に触れると、あんなに柔らかかったはずの白い頬は、既に固くなり始めていて。これ以上もないほど残酷に伝えられる現実に、けれども脳は、いつまでも理解を拒んでいた。

 パジャマの襟元から除く、小麦色と白とに分かれた鎖骨。それは昨日までと同じ、瑞々しい生の証。だった、はずなのに。


「にゃあ」


 台所でご飯を食べ終わった飼い猫のミルクが、どうしたのかと聞くように鳴きながらやってくる。そして妻に近寄ると、手のひらをぺろりと舐めた。

 それでも妻は動かない。いつものように優しく微笑んで、ミルクの頭を撫で返したりしない。

 表情は穏やかで、いつもの寝顔と同じで、今にも目覚めそうなのに。その瞼は開かず、肺もぴくりとも動かなかった。


「ねえ……朝だよ。起きてよ」


 やっと出て来たその声は、みっともないくらい掠れて震えていた。そこから涙腺が少しずつ緩んで、目の奥が熱くなっていく。


「声を聞かせてよ。おはようって言ってよ。ねえ……」


 どんなにそう縋っても返ってくるのは、猫の鳴き声と、窓辺に吊るしたガラスの風鈴の音色だけだった。





 了

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或る命の終わり 由希 @yukikairi

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