2話

 真紀は春野に頼んでひと枝貰ったその花を、朝餉と共に母屋へと運んだ。昨年の冬から長く病床に着いている、母の橘夫人たちばなふじんのためである。


「おたあさま。今日はお加減もよろしげですのね」


 母屋に着いた真紀は、久しぶりに起き上がって髪を整えている母の姿に、思わず顔をほころばせた。


 夫を亡くした独り身の母が病に倒れて、もう、半年以上の月日が経つ。ここ最近は特に酷くてずっと起き上がることすらできない様子だったが、今日はだいぶ良くなったらしい。


「ええ。信賢のぶかたの薬が効いたようでね。何だか気分がいいの」


 穏やかなほほ笑みを浮かべて、夫人は答えた。その顔色は青白さはあるものの、熱に浮かされていた昨日よりもずっと健やかだ。


 信賢は典薬寮てんやくりょうの官僚で、薬や医学に精通した、夫人の弟だ。真紀にとっては叔父にあたり、母が倒れてから、度々見舞いにきては薬や看病のための布などをくれていた。


 昨日も彼が煎じたという薬を飲ませたのだが、そのおかげで幾分か具合が良くなったらしい。


「表の庭に、橘の花が咲いていたのです。ほら、綺麗でしょう」


 真紀は納戸で見つけた古い青磁の壺に、その枝を挿して飾った。


「あら、ありがとう」


 夫人は柔らかに微笑むと真紀の手をとって、その顔を見あげる。


「あなた。このところ、ちゃんと眠れていないのですってね。もう自分の部屋に下がっておやすみなさい。春野も心配しているのですよ」

「そんな、わたくしは大丈夫です」


 気丈にもそう答えた真紀だったが、目元にはここ幾日かの睡眠不足による青隈がはっきりと浮かんでおり、誤魔化すには無理があった。


「まったく強気なのだから。誰に似たのかしらねぇ……ほら、おいでなさい」


 夫人はそう言って、信賢の置いていった軽くて暖かな中綿の衣を真紀に羽織らせた。


「おたあさま、わたくしは大丈夫ですわ」

「まぁ、そんなことを言って。ずっとあなたに看病をしてもらっていたのだから、私にも少しくらいはお世話をさせてくださいな」


 そうして傍らに誘い、脇息にもたれかからせ、あやす様にその小さな背中を叩く。


 とんとん、とんとん──。


 心地の良い韻律に、真紀の瞼が段々と降りていく。眠気に抗おうとしても、乳飲み子の頃からそうやって寝かしつけてくれていた母には適うはずもない。


「……どうか、幸せになってね。あなたのことを、ずっと見守っていますよ」


 枕元で倒れるように眠ってしまった真紀の頭を、夫人は優しく撫で続けた。

 愛娘の寝顔を見つめながら、ゆっくりと目を閉じた夫人。その息が絶えたのは、それから二刻半ほど経った、昼のさなかのことだった。




 母の葬儀はしめやかに行われた。親しかった寺の僧を呼び、ごく僅かな身内だけを集めて遺体を荼毘に付した。

 それらが一段落ついてからも、真紀は魂の抜けたような生活をしていた。


(もう、おもうさまもおたあさまもいない。わたくしは独りなのだわ)


 限りなく黒に近い喪服の袖で、こぼれ落ちる涙をぬぐった。

 この先はもう、自分ひとりで生きていくしかないのだ。両親を亡くした女、ましてや逆賊を父に持つ娘がのうのうと生きていけるほど、この時代は甘くはない。


「姫さま」


 聞こえてきた声に、真紀は慌てて振り向いた。気遣わしげにこちらを覗いていたのは、春野の娘であり真紀にとっては乳姉妹にあたる、萬葉まよという少女である。



「心配しないで」

「でも、姫さま」

「わたくしは大丈夫。大丈夫よ」


 それは萬葉に向けての言葉ではなく、自分自身に言い聞かせていたのかもしれない。

 萬葉はしばらく狼狽えていたが、やがて、意を決したように口を開いた。


「あたしは姫さまの味方です。この先なにがあっても。だから姫さま、絶対に姫さまはひとりじゃないんです」


 その言葉に、真紀はようやく顔を上げた。そして堪えようともせずに大粒の涙を流し、萬葉に抱きついた。


「よーしよし。姫さま、喪服を脱げる季節になったら、二人でたくさん遊びましょうね。物見遊山にも参りましょう、美味しいものも沢山食べましょう。だから今は、泣きたいだけ泣いてください。我慢しなくてもいいんですよ。あたしがいます。あたしがそばに居ますから」


 それは拠るべくところを失ったばかりの少女にとって、どれほど心強い言葉だっただろう。

 それからは、母の菩提を弔うべく、心穏やかに勤行に励むようになった。


 けれどそんな日々も、長くは続かなかった。それから三ヶ月も経たぬうちに、春野が暇をとってしまったのである。

 真紀にとってはとても寂しいことだったが、止められるものでもなかった。地方に赴任している春野の父が危篤だとの報せが来たからだ。


 彼女の祖父は遠く離れた相模にいる。このまま死に別れたりなどしたら、彼女はどれほど後悔するだろうか。幾度なく辛い目にあってきたとはいえ、真紀は肉親の死に目には合うことが出来た。それなのに彼女を引き留めるなど、許されることではない。


「……姫さま。本当に申し訳ありません、絶対に戻ってまいります」


 涙ながらに頭をさげて、春野は迎えの牛車へと乗り込んだ。

 遠ざかっていくその姿を、真紀は邸の外の堀川小路まで出て、いつまでも見送っていた。

 

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平安桜宮昔語り【橘恋歌】昔の人の袖の香ぞする 弥生 @kn321

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