逆賊の娘
1話
庭先からふわりと薫る花橘に、思わず足を止めた。
「もう、こんな季節でしたのね」
慌ただしい日々の中で庭を眺めることも久しぶりだが、思い起こせばもう
視線を香りの先に向けた。
かつて不老不死の国である
花だけではない。堂々と実った
背筋を伸ばし、よくよく目を凝らしてみると、生い茂る青々とした下草やよもぎの葉に、例年よりも長く続いていた梅雨の雫がきらりと光っていた。
今はもう夏の盛りである。
「
ふと思いつき、その名を呼んだ。
首を振って辺りを見回すと、その女房……春野はすぐに飛んできた。
「はい、はい。姫さま。こちらに」
もうそろそろ四十路にもさしかかろうという年齢なのに、相変わらずそれを感じさせない身のこなしだ。長い
「今年の花は特別きれいな色をしているわ。取ってきてくれる?」
「かしこまりました」
春野は頷くと、長い衣の裾を見事にからげ、下駄を履いて庭に降り立つと、手ずから橘の枝を折った。
「ありがとう。嗚呼、きれいだわ。この花の香りだけは、昔と変わらないわね」
「ええ、本当に。殿が筑紫に下向されるより前は、この花を見るためだけに客人が訪れたものでした」
遠い昔を思い出し、目を細める二人。
ここは
主人は遠い昔に逆賊の汚名を着せられ、左遷された
真紀は父親の記憶が薄い。というより、ほぼないと言ってよい。信実が遠い
以来、北の方は女手一つで再婚もせずに真紀を育ててきたのである。
この時代に女だけで屋敷を維持していくのは大変なことで、橘花邸はひどく貧しかった。北の方が屋敷を相続できたのは信実に嫡子がなく、親類たちも流罪となってからは絶縁状態になっていたのが理由だが、人に関してはどうしようもなく、仕えていた者達は次々と辞めていった。
物心ついた時から家が傾いていた真紀の一番古い記憶は、かつての
最初は母に頼まれてわざわざ出してきたのかと思ったが、やけに人目を気にする素振りを見せたかと思えば、こっそりと自分の詰所に持ち込もうとしていたので、これはおかしいと気がついた。
彼は琴を売り、その金を自分のものにしようとしていたのである。
それが真紀によって発覚するやいなや、彼は開き直った。
曰く、
楽器の維持には金がかかる。
そもそも弾く人もいないのだし、せっかく値のつく宝物なのだから売り払ってしまった方がいい。
などと言っていたが、北の方はそれを許さず、結局彼は辞めていった。
あとから春野が調べたところによると、彼は他にも仕舞い込まれていた
とはいえそれらを買い戻すことなどできるはずもなく、それどころか、かつて信実の趣向により集められた品々は、それからもぽつぽつと姿を消していった。
生活がどうしても立ち行かず、そうすることでしか、金の工面ができなかったのだ。
今ではこの屋敷に置かれているものは、必要最低限の調度だけ。
それも、売ろうにも値のつかない質素な品々である。
ただ、この橘の木だけが、変わりゆく屋敷の中で不変であった。
それこそが北の方がこの屋敷を手放さなかった理由であろうと、真紀は知っている。
「はやくおたあさまに見せてあげなくては」
手のひらの花を見つめてぽつりと呟き、北の方のいる母屋までの道を急いだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます