逆賊の娘

1話

 


 庭先からふわりと薫る花橘に、思わず足を止めた。


「もう、こんな季節でしたのね」


 慌ただしい日々の中で庭を眺めることも久しぶりだが、思い起こせばもう五月さつきも半ばを過ぎようかという時期である。

 軒庇のきひさしを降りた先の前庭に、眩し過ぎるほどの陽光が差している。もう梅雨は明けたのだろう。


 視線を香りの先に向けた。

 かつて不老不死の国である常世とこよからもたらされたとされる橘が、枝振りも見事に白く清廉な花を開かせている。

 花だけではない。堂々と実った非時香果ときじくのかぐのこのみと称される黄金の果実がもたらす香りは清々しく、思わず伸びをしたくなる爽やかさだ。


 背筋を伸ばし、よくよく目を凝らしてみると、生い茂る青々とした下草やよもぎの葉に、例年よりも長く続いていた梅雨の雫がきらりと光っていた。

 今はもう夏の盛りである。


春野はるのはどこにいて?」


 ふと思いつき、その名を呼んだ。

 首を振って辺りを見回すと、その女房……春野はすぐに飛んできた。


「はい、はい。姫さま。こちらに」


 もうそろそろ四十路にもさしかかろうという年齢なのに、相変わらずそれを感じさせない身のこなしだ。長いころもの裾さばきも軽快で、さすがは御所務めの経験を持つ古顔である。


「今年の花は特別きれいな色をしているわ。取ってきてくれる?」

「かしこまりました」


 春野は頷くと、長い衣の裾を見事にからげ、下駄を履いて庭に降り立つと、手ずから橘の枝を折った。


「ありがとう。嗚呼、きれいだわ。この花の香りだけは、昔と変わらないわね」

「ええ、本当に。殿が筑紫に下向されるより前は、この花を見るためだけに客人が訪れたものでした」


 遠い昔を思い出し、目を細める二人。


 ここは橘花邸きっかてい。千年の歴史を持つ桜国おうこくの都、平安桜京へいあんおうきょう高辻たかつき公路と堀川ほりかわ小路の交わるところにある、小さな貴族の屋敷である。名の由来は勿論、庭に植えられたこの香りも枝振りも見事な橘だ。


 主人は遠い昔に逆賊の汚名を着せられ、左遷された三位中将さんみのちゅうじょう信実のぶざね……とはいえその人はもうこの世にはいない。今この屋敷で暮らしているのは、その北の方(正妻)と一人娘・真紀まきという二人の女君であった。


 真紀は父親の記憶が薄い。というより、ほぼないと言ってよい。信実が遠い筑紫つくしの土地に流罪の憂き目にあったのは祥来しょうらい十一年のことで、真紀はまだ三歳だった。それから間もなくして、彼は貿易商たちの間で流行していた疱瘡ほうそうに罹り、帰京することなく亡くなった。

 以来、北の方は女手一つで再婚もせずに真紀を育ててきたのである。


 この時代に女だけで屋敷を維持していくのは大変なことで、橘花邸はひどく貧しかった。北の方が屋敷を相続できたのは信実に嫡子がなく、親類たちも流罪となってからは絶縁状態になっていたのが理由だが、人に関してはどうしようもなく、仕えていた者達は次々と辞めていった。


 物心ついた時から家が傾いていた真紀の一番古い記憶は、かつての家司けいしが蔵にあった琴を盗み出そうとしていた光景である。

 最初は母に頼まれてわざわざ出してきたのかと思ったが、やけに人目を気にする素振りを見せたかと思えば、こっそりと自分の詰所に持ち込もうとしていたので、これはおかしいと気がついた。


 彼は琴を売り、その金を自分のものにしようとしていたのである。

 それが真紀によって発覚するやいなや、彼は開き直った。

 曰く、

 

 楽器の維持には金がかかる。

 そもそも弾く人もいないのだし、せっかく値のつく宝物なのだから売り払ってしまった方がいい。


 などと言っていたが、北の方はそれを許さず、結局彼は辞めていった。

 あとから春野が調べたところによると、彼は他にも仕舞い込まれていたひつ御衣箱おんぞばこなどの細々とした調度品を市で売ってしまっていたらしい。


 とはいえそれらを買い戻すことなどできるはずもなく、それどころか、かつて信実の趣向により集められた品々は、それからもぽつぽつと姿を消していった。

 生活がどうしても立ち行かず、そうすることでしか、金の工面ができなかったのだ。

 

 今ではこの屋敷に置かれているものは、必要最低限の調度だけ。

 それも、売ろうにも値のつかない質素な品々である。


 ただ、この橘の木だけが、変わりゆく屋敷の中で不変であった。

 それこそが北の方がこの屋敷を手放さなかった理由であろうと、真紀は知っている。


「はやくおたあさまに見せてあげなくては」


 手のひらの花を見つめてぽつりと呟き、北の方のいる母屋までの道を急いだ。


 



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