平安桜宮昔語り【橘恋歌】昔の人の袖の香ぞする
弥生
御息所
立春を過ぎれば春とはいえ、
いつもより早くに目を覚ました
かすみのようなおぼろ雲の合間から、柔らかな朝日が殿舎を照らしているのが何とも清々しい。まるで庭全体が、淡い春めいた光に包まれているようだった。
「
聞こえてきた声に振り返ると、そこに居たのは真紀の産み落とした若宮の
彼女は、もとは
真紀がただの女官から若宮の母となり、御息所と呼ばれる身分になった際、後ろ盾もないままに妃となってしまった真紀に仕えたいと自ら望んだのだった。
その恩があるので、真紀も彼女を一段と重用している。
今では真紀の住まいとなった
「ええ。すぐ戻ります。だけどあと少しだけ、この景色を見させてください……ほら、もう春が来たの。なんて綺麗なんでしょう。」
二月。百人の僧に
まだまだ寒いとはいえ、春の気配はあちらこちらに顔を覗かせている。
「景色を眺めるのも良いですが、このように寒い日は程々になさいませ。若宮も
「えぇ、そうね」
真紀は袿の裾を翻し、宣旨の君のもとへにじり寄る。
女性が立って歩くのははしたないとされるため、 この寒い中に膝立ちである。
「まったく、それにしても若宮はどこにおいでなのかしら。もう七歳におなりあそばせなのに、ちっとも大人しくしてらっしゃらない」
連れ立って御殿の中へと進む中、宣旨の君が愚痴をこぼす。
それも無理もない。若宮は誰に似たのか奔放な性格で、利発で素直なところは良いのだが、ちっともじっとしていなかった。
現に今も、まだ早朝だと言うのにもう起き出して、どこかへ行ってしまったらしい。
宣旨の君の苦労を思うともう少し大人しくさせなければという気持ちもあるものの、この宮中において伸び伸びと育っている若宮の成長は、真紀にとって何よりの喜びなのである。
「母上!」
噂をすれば、なんとやら。
柱から飛び出してきたのは、主上が真紀に産ませた第二皇子の若宮だ。
幼いながらすっきりと整った顔立ちで、白に藍を重ねた装束もよく似合っている。
「まったく、どこへ行ってらしたのですか。ほら、帰りますよ」
ため息をついて若宮に詰め寄る宣旨の君だが、若宮はそれに臆することなく堂々と答える。
「うん。でもあと少しだけ! いまね、
夏君とは、若宮の幼馴染の少女であり、清涼殿に仕える女官の
彼女はあと何年かが経って裳着を済ませれば、男装して桜宮や神器を守護する
容姿も美しく、しかも利発で聡明とあって、若宮のお気に入りの遊び相手になっているのだ。
「まあ!なりませんよ。今日は書の先生がいらっしゃるのですからね。まだ朝餉もお食べになっていないのに、遅れてはまた叱られますよ」
「でも……もしも僕がみつけてあげなかったら、あの子はずっと隠れていることになるでしょう?それじゃあ可哀想だよ」
宣旨の君に訴える瞳はあどけない。しかし、その言葉からは若宮が生来持っている優しさが伺える。
真紀はそっと宣旨の君の肩をたたき、そして口を開いた。
「それでは、なるべく早く戻ってきてね。学問の時間に遅れることは決してなりませんよ」
「御息所さま!」
宣旨の君が止めようとするが、若宮は「はい」と元気な返事をして、颯爽と駆けて行ってしまった。
とはいえ彼女も本気で怒っているわけではない。全く……というように首を振って、しょうがないとばかりに肩をすくめる。
「行きましょうか、御息所さま。もう御膳の準備は出来ているでしょうから」
「えぇ」
こうしてまた、日常が始まる。
改めて、想像もしていなかった未来だと思う。
一女官、それも逆賊の娘から主上に見初められ、果ては若宮を身ごもって妃にまでなった真紀を、この世でもっとも幸ある人のように世の人は言う。
それもそうなのだろう。しかし、若宮を授かってからの日々は、幸せなことばかりではなかった。
若宮を授かってからも出産の世話や仕送りをしてくれる親類縁者はなく、孤独だった。
けれど、両親がいまも健在だったなら、真紀は宮仕えもしていないだろうし、主上と出会うこともなかっただろう。
真紀は自分の
優れた容姿ではない。長い黒髪が美人とされる世の中で、異端とされる薄茶の髪。
その割に人並外れた才もなく、凡庸で、褒められることといえば生来の真面目さだけ。
それでも、主上は真紀を愛してくれる。
一体何故か?
他の人には分かるはずもない。
その秘密は、桜国を揺るがすものである。
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