平安桜宮昔語り【橘恋歌】昔の人の袖の香ぞする

弥生

御息所


 立春を過ぎれば春とはいえ、桜京みやこに吹く風はまだ冷たい。

 いつもより早くに目を覚ました真紀まきは、キリッとした早朝の寒気に思わず身体を震わせた。


 去年こぞよりも寒いと言われている今年の春だが、さすがに積もっていた雪はほとんど溶けてしまっている。

 遣水やりみずの滝に伸びたつららが箸のように細くなって、先から雫のしたたる音が、辺りに清らかに響いていた。


 修理職すりしょくによって美しく整えられた庭では、早春の花々が競うように美しく咲いている。中でも迎春花の異名を持つ黄梅おうばいがなだれるように花開き、まるで黄色い蝶が一斉に停まっているかのように色鮮やかだ。


 かすみのようなおぼろ雲の合間から、柔らかな朝日が殿舎を照らしているのが何とも清々しい。まるで庭全体が、淡い春めいた光に包まれているようだった。


御息所みやすどころさま。そんなところにいては、風邪をひいてしまいますわ」


 聞こえてきた声に振り返ると、そこに居たのは真紀の産み落とした若宮の乳母めのとを務める宣旨せんじの君。

 

 彼女は、もとは桜宮おうきゅう内侍司ないしのつかさに務めていた真紀の同僚であった。

 真紀がただの女官から若宮の母となり、御息所と呼ばれる身分になった際、後ろ盾もないままに妃となってしまった真紀に仕えたいと自ら望んだのだった。


 その恩があるので、真紀も彼女を一段と重用している。

 今では真紀の住まいとなった淑景舎しげいしゃの御殿の女房頭として、帝の信頼もあって重々しく扱われており、三児の母となっても相変わらずの美貌と活気は、同性の真紀の目から見ても眩しいほどだ。


「ええ。すぐ戻ります。だけどあと少しだけ、この景色を見させてください……ほら、もう春が来たの。なんて綺麗なんでしょう。」


 二月。百人の僧に大般若経だいはんにゃきょうを転読させる春の御読経みどきょうが、藤内大臣とうのないだいじんの采配により宮中にて盛大に行われた次の日のことである。

 まだまだ寒いとはいえ、春の気配はあちらこちらに顔を覗かせている。


「景色を眺めるのも良いですが、このように寒い日は程々になさいませ。若宮も主上おかみも心配なさいますわ」

「えぇ、そうね」


 真紀は袿の裾を翻し、宣旨の君のもとへにじり寄る。

 女性が立って歩くのははしたないとされるため、 この寒い中に膝立ちである。


「まったく、それにしても若宮はどこにおいでなのかしら。もう七歳におなりあそばせなのに、ちっとも大人しくしてらっしゃらない」


 連れ立って御殿の中へと進む中、宣旨の君が愚痴をこぼす。

 それも無理もない。若宮は誰に似たのか奔放な性格で、利発で素直なところは良いのだが、ちっともじっとしていなかった。


 現に今も、まだ早朝だと言うのにもう起き出して、どこかへ行ってしまったらしい。

 宣旨の君の苦労を思うともう少し大人しくさせなければという気持ちもあるものの、この宮中において伸び伸びと育っている若宮の成長は、真紀にとって何よりの喜びなのである。


「母上!」


 噂をすれば、なんとやら。

 柱から飛び出してきたのは、主上が真紀に産ませた第二皇子の若宮だ。

 幼いながらすっきりと整った顔立ちで、白に藍を重ねた装束もよく似合っている。


「まったく、どこへ行ってらしたのですか。ほら、帰りますよ」


 ため息をついて若宮に詰め寄る宣旨の君だが、若宮はそれに臆することなく堂々と答える。


「うん。でもあと少しだけ! いまね、夏君なつきと隠れんぼをしているの」


 夏君とは、若宮の幼馴染の少女であり、清涼殿に仕える女官の女童めのわらわである。

 彼女はあと何年かが経って裳着を済ませれば、男装して桜宮や神器を守護する東豎子あずまわらわとなることが決まっている。

 容姿も美しく、しかも利発で聡明とあって、若宮のお気に入りの遊び相手になっているのだ。


「まあ!なりませんよ。今日は書の先生がいらっしゃるのですからね。まだ朝餉もお食べになっていないのに、遅れてはまた叱られますよ」

「でも……もしも僕がみつけてあげなかったら、あの子はずっと隠れていることになるでしょう?それじゃあ可哀想だよ」


 宣旨の君に訴える瞳はあどけない。しかし、その言葉からは若宮が生来持っている優しさが伺える。

 真紀はそっと宣旨の君の肩をたたき、そして口を開いた。


「それでは、なるべく早く戻ってきてね。学問の時間に遅れることは決してなりませんよ」

「御息所さま!」


 宣旨の君が止めようとするが、若宮は「はい」と元気な返事をして、颯爽と駆けて行ってしまった。

 とはいえ彼女も本気で怒っているわけではない。全く……というように首を振って、しょうがないとばかりに肩をすくめる。


「行きましょうか、御息所さま。もう御膳の準備は出来ているでしょうから」

「えぇ」


 こうしてまた、日常が始まる。

 城和元年じょうわがんねんに宮仕えを始めてより八年。

 改めて、想像もしていなかった未来だと思う。


 一女官、それも逆賊の娘から主上に見初められ、果ては若宮を身ごもって妃にまでなった真紀を、この世でもっとも幸ある人のように世の人は言う。

 それもそうなのだろう。しかし、若宮を授かってからの日々は、幸せなことばかりではなかった。


 後見うしろみがないことから虐められ、早くに亡くなった父母を恨んだこともあった。

 若宮を授かってからも出産の世話や仕送りをしてくれる親類縁者はなく、孤独だった。

 けれど、両親がいまも健在だったなら、真紀は宮仕えもしていないだろうし、主上と出会うこともなかっただろう。

 

 真紀は自分の宿世を知っている。自分が主上と巡り会うために生まれてきたのだと。


 優れた容姿ではない。長い黒髪が美人とされる世の中で、異端とされる薄茶の髪。

 その割に人並外れた才もなく、凡庸で、褒められることといえば生来の真面目さだけ。

 

 それでも、主上は真紀を愛してくれる。

 一体何故か?

 他の人には分かるはずもない。


 その秘密は、桜国を揺るがすものである。



 


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