アラビアータの夢

ポテトマト

本文

砂時計の赤い砂が、じっくりと。

ゆったりと時を刻む様子を眺めながら、紅茶が蒸れるのをずっと待っている。容器の底へと流れ落ちる、香辛料のような色の粒々。

ぱらぱらと。

上側の瓶から零れ落ちた真っ赤な砂は、まるで銀河を流れる小さな星々のようで。ちらちらと、澄み切ったガラスの中で光を放った。

金色に輝く透明な光。

ほんの微かに光を浴びた石英せきえいの瞬きは、普段であれば見落としている所で。こんな暇な時間でもなければ、まじまじと観察することはなかっただろう。

腕時計の指し示す時刻が、淡々と、彼氏の大幅な遅刻を物語っている。

初めに予定していた時間から、とうに30分以上が経過している。彼氏の仕事終わりに駅前で落ち合う筈だったが、直前になって、仕事が長引くとの連絡が入ったのである。今は行きつけの喫茶店で、読みかけの本を手にしている。

鼻の奥をくすぐる、煙にも似た古い本の匂い。

私は、誰かを待つのは嫌いではない。

だらりと間延びしたような、緩やかな時間。

空白の時間を静かに過ごしていると、ほんの少しだけ、日々の忙しない流れから解き放たれたような気がするのだ。

さらりと瓶の底に落ちる、砂の粒の細やかさ。

しんと、雪の降り積もる夜のように。些細な物音のどれもがしみじみと感じられる。遠くの席から聞こえる話し声に、持ち上げられたティーカップのカチャリとした音、店の中に流れる知らないジャズ。

暖かい。

空調の加減の丁度良さも、吊り電球のセピアな色調も。ほんのりと、身体が優しく包み込まれているような感じがするのだ。

ステンドグラスに覆われた、仄暗い灯り。

あれは、塔の絵画なのだろうか。

円筒状の電灯の表面に描かれた、白い塔のようなモザイク模様。

細々と、聳え立っている。

薄く光を浴びたガラスの影が、ぼんやりと。私の視界の中で色を持った画像として立ち現れる。

本が、投げ捨てられている。

天まで伸びた塔の窓から、ぞろぞろぞろと。まるで、棲家を放り出された鳥の群れのように。

紙を散らしながら、燃え上がっている。

地へと落ちてゆく書物にはどれも、誰かの手によって火がつけられていて。なんだか、不吉な印象を抱いてしまう。

どうして、今まで気がつかなかったのだろう。

吊るされた電灯の錆びた模様に、組み合わされたガラスが放つ色彩。

白い炎。

残された風景は、不明瞭な夢のようで……。


* 〜 * 〜


予定の時刻から、一時間半が経過した。

喫茶店の中で、私は彼の事を待っている。

ぼんやりと、昔の事を思い浮かべながら。

語り明かした夜にほのかに見えた、彼の横顔の艶やかさ。初めて会った時の、どこか儚なそうな雰囲気。やっと彼が自分の詩を見せてくれた瞬間の、いじらしげな表情。

全てが、スマホのカメラロールには残らない。

トマトのパスタを、さっき頼んでしまった。

彼と一緒に食べる筈だった、夕食の代わりに。

私は、ずっと本を読んでいた筈なのに。

暗い店内に残された、薄明かりの影の中。

本の匂いがする。

古本屋で何となく買った、古い小説。

煙草の煙のような、甘くこもった匂い。

少し、埃っぽい感じもする。

退屈だ。

ここに来るまでが、少し遅すぎる。

一体、彼の身に何があったのだろうか。

通知欄には何の反応もない。

天井に付いた、ランプの薄い灯り。

じっとりと、心の奥を覗く催眠術師のような。

手にした古本に描かれた情景が、ふと浮かぶ。

催眠術に、エーテル、アストラル界……。

何とも、曰く付きの単語ばかりが立ち並ぶ。

それでも、何故だか目の中に焼き付くのである。


* 〜 * 〜 


パスタの舌触りが、妙にざらりと感じられる。

不埒な文章を、読んでしまったからだろうか。

正常な筈の味覚が、歪んでいるのが分かる。

舌の上が、粗い砂で覆われているかのように。

瑞々しいトマトの、べちゃりとした触感。

温かい。

腕時計に付けられた、秒針の事を考えていた。

刻々と働き続ける、小さな時間の管理者たち。

彼らには一体、いつになったら休みが与えられるのだろう。

私の彼氏は、本当にこの場にやって来るのだろうか。

陰鬱で薄暗い喫茶店の中。

照明の塔の模様が、目に残っている。

赤茶けた色合いの、どこか示唆的な情景。

沢山の本が、窓から投げ捨てられていた。

私も、何かを壊してみたい。

機械のように、黙々と。

淡々と、会社の仕事に多くの時間を奪われるだけの人生なんて。

一度でいいから、この世に存在する時計の全てを、燃やしたくて仕方がない。

全てはきっと、こいつのせいなのだから……。


* 〜 * 〜 


今という時代は、特別に機械的なのだと。

舌の上に残ったアラビアータの辛さを感じていると、そう思えてくる。

熱のように痺れた風味の、名残おしさ。

気持ちが滅入っていたからか、触感が鈍く感じられるのが残念である。

鬱陶しい。

手にしたスマホが勝手に告げてくる時刻も、今見ているブログに張られた広告も。

何もかもが、やかましくて仕方がない。

私の彼氏は、未だに来ない。

ずっと、もう二時間以上は待っている。

私は、何かを間違えたのだろうか。

連絡を何度送っても、既読すら付かない。

このままでは、私……。

——失礼ですが、お嬢さん。

目の前に、いつの間にか誰かが座っていた。


* 〜 * 〜 


——とんだ、災難でしたな。


私が尋ねる間もなく、その男は話を始めた。顔は、部屋が暗くてよく見えない。


——彼氏クンは、今日は徹夜みたいです。


もぞもぞと。もずくのように粘りついた声で、私に話しかけてくる。どうして、こんなにも私の事を知っているのだろう。


——彼も、無念だと言っておりました……。


私だって、知らない事の筈なのに。どう考えても、彼氏と面識なんてある訳がないし。


——まさしく「今は、時計が恨めしい」と。


ましてや、この喫茶店に入ってから、私は一言も喋っていない。今の私の頭の中が、この人に伝わる筈は無い……。


——ひとりでに、呟いておりましたな。


なのに、どうして。こんなにも鮮明に、彼の狼狽えている姿が浮かび上がるのだろう。まるで、子供の頃の楽しみだった、本の読み聞かせの時間のように。


——どうして、彼は時計屋になったのですか?


打ちひしがれた彼の様子が、まざまざと目に浮かぶ。薄暗いランプの灯りの中。微かな光の透き通った、私の瞼の裏側に。


——彼は、詩を作るのがお好きだと聞いておりましたが。


針が、堂々と時計の中から外れている。秒針も分針も時針もない腕時計。デジタル時計の文字列が失せたスマートフォン。


——暗闇のほんのりとした艶やかさに、もう飽きてしまったのでしょうか。


そういった世界の中に、茫然と私が立っているような夢。そんな光景が、部屋の中にたっぷりと満ち溢れた暗闇に焼き付いてゆく。


——それとも、やはり現世の輝きに目が眩んだのでしょうか。


そんな、まじめ腐った顔をしなくてもいいのに。私の彼氏は、ずっと。


——まあ、今更……。


ずうっと、私の写真を悲しそうに眺めているのである。


——何を言ったところで、仕方がないですな。


ここは、一体どこなのだろう。現在でなければ、過去でもない。未来であるようで、それでいてアラビアータの味がする。


——あなたには、見えているのですから。


辛さが、舌の中から消えてゆく。

もちもちの触感、小麦の粉々はそのままに。トマトの瑞々しさが、香辛料に混ざってゆく様子が見える。

赤い砂は、じっくりと落ちてゆく。

紅茶を待つ為の制限時間。ぱらぱらとした砂に区切られた、気品のある香り。


——たった今とは、違うのです。


何もかもが、懐かしい。

子供の頃に嗅いだ光景に、本が燃え上がった時に生じる複雑な匂い。

インクの混じった炭の匂い。

私の身体は燃え上がっている。

指先からお腹の中にかけて、痺れるように。


——機械の中に囚われた、哀れな鳥かご。


声の響きに、自然と呼応をしてしまう。ゆるりと、目の前を飛んでいる黄色い蜂の群れ。きゅうと萎み、自由に浮かぶ赤い風船の行き先。青い空。


——青い空、青い空……。


青い空は、机に置かれた砂時計の如く。とくとくと、時計の外の世界に満ちてゆく。真っ赤な色を失ってゆく、私の視界。青い時間の流れが、血管の内側にじわりと伝わってゆく。ちろちろと。白い文字の羅列に満たされてゆく視界。赤い星々、針の抜けた銀色の腕時計、青い空、青い空……。


——白い塔は、燃えた絵本……。


青い空、青い空、砂の時計、青い空、青い空、石の星々、青い空、青い空、青い空……。


* 〜 * 〜 


夢の中から、ようやく私の目が覚めてくれた時。私は砂時計の赤い砂が瓶の中を落ちてゆく様を、じっくりと、ぼんやりと眺めているのであった。

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