食べ放題

圭琴子

食べ放題

 マリッジブルーってやつは、本当に厄介だ。

 泰介はそう思いながら、婚約者の咲子のマンションに勝手知ったる風に合い鍵で上がり込む。

 待ち構えていたように、玄関先で咲子の飼い猫のビリーに出迎えられた。だがそれは歓迎の意志ではない。

 いつものように、ビリーはこれでもかと歯をむき出して威嚇した。


「シッシッ……ただいま」


 もう慣れっこの泰介は、如何にも面倒臭そうにビリーを追い払うと、薄暗いリビングに向かって声をかける。

 咲子とは社内恋愛の末の寿退社で、今は泰介だけが働いている為、咲子はマンションでただ泰介の帰りを待っていた。

 そんな暇な時間が、いけないのかもしれない。泰介は考える。

 時刻はとうに七時過ぎ、カーテンを閉め切った部屋は暗いのに、仄明るいテレビの灯りだけがチカチカと瞬いている。


「咲子」


 泰介は、リビングの電灯のスイッチを押した。LEDが場違いなほど明るく、こたつの中に入ってぼうっとテレビを観ている咲子を照らし出す。


「咲子、言っただろう。夜になったら電気をつけろって」


「……」


「咲子?」


「あたしたち……本当に結婚して良いのかな……」


 ああ、まただ。泰介は密かに溜め息をつく。

 プロポーズした時はあんなに喜んでいた筈なのに、結婚式や入籍の日取りを話し合う為に咲子のマンションで一緒に暮らし始めると、態度は急に一変した。


「咲子は、俺と結婚したくないのか?」


「……分かんない……」


 視線は朝からつきっぱなしのテレビのバラエティ番組に向いているのに、瞳には何も映っていない。画面の中の観覧客の笑い声が、二人の間に虚しく木霊した。


「でも……ビリーがあんなに誰かを嫌うなんて、初めてなの。泰介、本当にあたしに隠し事してない?」


 これも、何度目か分からぬ質問だった。

 泰介は、コートを脱いでハンガーに通しながら、力なく笑う。


「だから、言ってるだろ。俺、子どもの頃から動物に嫌われるんだ。野良犬に噛まれた事もあるし、恐がってるのが分かるからビリーも俺を嫌うんだろ」


「本当に……?」


「本当だよ。考えすぎるから良くないんだ。明日は久しぶりに、二人で外食に行こう。駅前に、焼き肉屋が出来ただろう? 食べ放題だから、好きなだけ食べられるぞ」


「……うん……」


    *    *    *


 婚約してから、デートもせずにいつも一緒に居たから、それが良くないのかもしれない。そう思った泰介は、敢えて咲子のマンションに帰らずに、駅前で待ち合わせをした。


「泰介! こっち!」


 改札を出るか出ないかの内に、聞き慣れた咲子の声がかかる。

 最近はラフな部屋着ばかり見ていた咲子は、スモーキーピンクのニットワンピースに身を包み、メイクもしっかりして嬉しそうに駆け寄ってきた。

 ずっと暗かった表情が、華やかに笑っている。大きな変化だった。


「咲子。見違えたな。美容院に行った?」


「うん。久しぶりの泰介とのデートだもん。おめかししちゃった」


 そう言って、泰介のスーツの腕にニットの腕を絡ませる。

 外食作戦は成功し、二人はつきあい始めの頃の初々しさを取り戻して仲良く会話を弾ませた。

 気が済むまで食べ放題の焼き肉を食べて、咲子のマンションに帰って愛し合って、身も心も満たされた。


    *    *    *


 二人の結婚の障害になるものは、何もなくなったと思われた。ビリーでさえ。

 昨日からまた一変し、咲子は泣いていた。ヒステリックに声を上げて。


「だから、玄関が開いてたからそこから出ていったんだろう。雄の猫は縄張りを広げたり雌を探したりする為に、時々家出するって聞いた事があるから、その内戻ってくるって」


「そんな筈ないわ! 昨日はちゃんと鍵をかけたのを覚えてるし、ビリーは去勢してるもの!」


「落ち着けよ、咲子。ビリーが気を利かせたかもしれないだろ? 自分のことで飼い主が、結婚を迷ってるんだから」


 泣き濡れた瞳がキッと、何処か脳天気な泰介の顔を捉えた。鬼の形相だった。


「そんな訳ないじゃない! 泰介とは二年の付き合いだけど、ビリーとは仔猫の時から十年の付き合いなのよ! こんなの変よ! ビリーが帰ってくるまで、あたし結婚しない!」


「咲子……分かった。取り敢えず、仕事、行ってくるな」


 泰介は今度は隠さず大仰に溜め息をついて、鞄を持ってマンションを出た。エレベーターの扉が閉まる直前、部屋を出てビリーを呼ぶ咲子の叫びが、悲壮に細く聞こえていた。


    *    *    *


 その一ヶ月後。泰介は、咲子といつか来た焼き肉屋で、違う女性と炭火を囲んでいた。

 婚約者に蒸発された悲劇の男として、泰介は社内でちょっとした有名人になっていた。

 弱みにつけ込む人間というのは、男女問わず何処にでも居るものだ。

 それなりにルックスも稼ぎも良い泰介は、沢山の女性に食事に誘われ、その内の一人、先輩の凪沙と食べ放題に来たのだった。

 この店にしたのは、幾つか理由があった。駅前ということや、割引券を持っていることや、敢えて大衆的な店にすることですぐに交際に発展しないこと。


「泰介くん、元気出してね」


「凪沙さんのお陰で、少し元気が出ましたよ。咲子のことは、もう諦めます」


「あら、悪い男ね」


 真っ赤な唇で、凪沙はふふと意味深に笑った。

 泰介は話を逸らすように、焼けた肉を凪沙の小皿に取り分ける。


「そんなことよりほら、どんどん食べてくださいよ。食べ放題ですから」


「ここって随分安いわよね。ねえ……知ってる? 噂」


「噂、ですか?」


「この店が飛び抜けて安いのは、犬や猫……保健所から肉を仕入れてるからだって」


「恐いこと言わないでくださいよ。食べられなくなる」


 そんな会話を交わしながらも、二人はこれっぽっちも信じてない風に朗らかに笑い合った。

 そしてまたひとつ、真っ赤な唇に焼けた白い肉が吸い込まれる。


「あら」


「どうしました?」


「嫌だ、お肉の中に何か硬いものが入ってる」


 凪沙は小皿にそれを吐き出した。それは、銀色に光る小さな丸い円形だった。


「ああ、僕が会計の時に店に話しますよ。異物混入だから、無料になるか、割引券が沢山貰えるかもしれない」


「そうしたら、また誘ってくれる?」


「ええ。是非」


「ふふ。やっぱり、悪い男ね」


「よしてくださいよ」


 苦笑しながら、泰介は異物をスラックスのポケットにしまった。チラと確認する。

 プラチナのリングの内側には、『Taisuke & Sakiko』と、見慣れたイニシャルと婚約記念日が刻印されていた。

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食べ放題 圭琴子 @nijiiro365

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