第8話夜の散歩
寒さもまだ厳しいある日の夜だった。
Kさんが仕事を終えて家に帰ってくると、ボクサーがKさんの側へとピタリと吸い付く様にまとわってきた。
「ん?なんだ…どうした?」
どうやら、今から散歩に連れて行けと言っているらしい。
「ええっ…今から行くのかよ……
俺、今帰って来たばかりだぜ……」
こんな事は珍しかった。
Kさんの家では、散歩といえば朝行くものだと決まっていた様なものだからだ。
しかし、ボクサーは譲らなかった。
…Kさんの作業服の袖を口にくわえては、表に向かって引っ張ろうとしていた。
「わかった!わかった!…行けばいいんだろ、行けば!」
Kさんは、観念して玄関先からリードを持ってきてボクサーの首輪へとくくりつけた。
「ほらっ!行くぞ!」
Kさんがそう言うと同時に、ボクサーは待ちきれないといった勢いでリードを引っ張って庭の外に向かって行った。
夜の散歩は久しぶりだ。
二月では、夜は寒いだろうと思うかもしれないが、いつもだったら散歩する時間は早朝の五時位なので、むしろ気温は高いといえる。
寒さなどお構いなしで、ボクサーは散歩コースの電柱や住宅の壁などの匂いを熱心に嗅いでいた。
…少し歩いては立ち止まり、匂いを嗅いでまた歩く……
まるで何か大事な事を確認している様な感じだ。
「今日はやけに熱心なんだな……」
いつもだったら、海の方へまっしぐらに向かうのに、Kさんはその仕草を不思議に思った。
…しかし、Kさんも仕事を終えたばかりで疲れていた。
ゆっくり歩いてくれた方が都合が良かった。
やがてKさんとボクサーは、海岸へと辿り着いた。
今日は釣竿を持っていない。
Kさんは浜辺に腰を降ろすと、月明かりを反射してキラキラと細かい光を放つ海を見ていた。
ゆっくりとした周期で、波の寄せる音が耳に心地良い。
暫く浜辺をあちこちと歩いていたボクサーも、Kさんの隣に寄って来てそこにちょこんと座った。
そうすると、ボクサーの顔とKさんの頭が同じ位の高さになる。
主人と飼い犬という関係が、まるで長い間の友人の様に見えてしまうから不思議だ。
その間には言葉は要らない
……ただ、側にいるだけで心地良いのだ。
ボクサーも暫く海を眺めていた。
キラキラと輝き、寄せてはかえす波の様子を……
ただ…黙って眺めていた。
「そろそろ冷えてきたな……もう帰るか。」
Kさんが立ち上がると、ボクサーも一緒に立ち上がった。
海から家までは立ち止まる事なく、Kさんとボクサーは夜の散歩を終えた。
出かける迄は落ち着きのなかったボクサーだったが、散歩から家に帰ってくると満足したのだろう…おとなしく犬小屋の中へと戻って行った。
翌日の日曜日……
仕事が休みだったKさんは、いつもより少し遅く起床した。
八時過ぎに庭へと出てきたKさんは、玄関先で寝そべっているボクサーに気が付いた。
「なんだよ…まだ寝てるのか?もう八時だぞ!」
いつもはうつ伏せに寝ているくせに、今日は無防備に腹を横向きにして寝ている…Kさんは、そのだらしない格好に笑いながらボクサーの背中に手を伸ばした。
「おい♪いつまで寝てるんだよ♪」
ボクサーは動かなかった。
そして……
その背中は、すでに体温の感じられない冷たいものに変わっていた。
Kさんは、玄関先で息絶えているボクサーの背中を触ったまま、暫く動けなかった。
16年連れ添った愛犬の突然の“死”に、言葉を失ってしまった。
ゆうべまで、あれ程元気に跳び回っていたのに……
「バカが……死んじまいやがって……」
そうやって、憎まれ口を叩くのが精一杯だった。
やがて、Kさんは立ち上がり…隣町にある動物を専門に火葬してくれる施設へと電話を掛けた。
「はい…犬です……今日、お願い出来ますか?」
火葬場に予約を入れると、毛布を持って来てボクサーの体を丁寧に包んだ。
そして、車の荷台に乗せる為に両手で抱え上げた。
「まったく…重くなったよな……」
それは、16年間のKさんとボクサーの思い出がぎっしりと詰まった重さだった。
民間のこの施設は、有料で様々なペットの火葬と供養をしてくれる施設だった。
大抵は犬か猫が多く、その大きさによって金額が変わってくる。
大型犬なら4万円、中型犬なら3万円…という具合だ。
「ああ…電話下さったKさんですね…これがその犬ですか?」
「そう、中型犬だよね?これは?」
毛布を開いてボクサーを見た火葬場のオヤジは、苦笑いしながら言った。
「いやぁ、これはどう見ても大型犬ですよ!」
「ええ~っ!大型犬ってのは、小錦みたい犬じゃないの?」
「そんな犬はいませんから!これは間違いなく大型犬ですよ!」
そんなやり取りがあって、実際にボクサーの重さを計ったら35キロあった。
「35キロかぁ……
餌ばっかり食ってたからなぁ……」
Kさんと初めて出会った頃は、掌に乗る程小さかったのに…16年かかってこれほどまでに大きくなったのだ。
顔の周りに目立ってきた白い毛が、その年月の長さを物語っていた。
やがて、ボクサーの火葬が始まった。
釜の扉の前では、施設と契約しているお寺の僧侶が読経をしていた。
その後ろに立って、Kさんは思った。
(お経なんて、あのバカ犬に解る訳ねぇだろ……)
読経が終わると、Kさんは待合室に行って煙草を吸いながら、昨晩のボクサーの行動を思い出していた。
もしかしたらボクサーは、自分の死期を感じ取っていたのだろうか……
だから、あの夜どうしても散歩に連れて行けとせがんだのかもしれない。
そして最後の散歩コースの隅々を頭に刻み込む為に、あんなに懸命に匂いを嗅いでいたのだろう……
今となってはKさんには、ボクサーの取っていた行動がそんな風に思えて仕方がなかった。
煙草を吸い終わると、Kさんは待合室の外に出た。
空を見上げると、晴れ渡った青い空に白い雲の塊が、ふんわりと幾つか浮かんでいた…見ようによっては、その形は何だか犬の形をしている様にも見えた。
Kさんはその空に向かって、まさに今…天国へと昇る途中であろうボクサーへと笑顔で話しかけた。
「お前バカなんだから、途中で道間違えないで~ちゃんと天国に逝くんだぞ~!」
終わり
††この作品を、16年の生涯を閉じた一匹の愛すべきボクサー犬に捧ぐ。††
~ばかいぬ~ 夏目 漱一郎 @minoru_3930
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