壱
蓋を持ち上げた瞬間,古い本を開いた時のように,少し錆びた匂いがふわりと漂った。僕は,その匂いに一瞬顔を背け,鼻を塞ぐが,彼女見たさにその匂いを堪え,箱の中に視線を戻した。
僕は創作物として美しいドールを作り,それを作品として売り出すこともあれば,自分用として部屋に飾ることもあった。しかし,今までに作った人形はどれも動くことはないものばかりだった。それはそう,人形なのだから,と考える人もいるだろう。その中で,「百合」は,私が作った動くことのできる人形であった。
「百合,おはよう。」
私が彼女に声をかけると,百合は目を開き,上半身を起こした。彼女が閉まわれている箱は,百合の花の造花を敷き詰め,まるで棺桶のように純白の木箱である。彼女の肌は白く,長く黒い髪で,すらりとした長身の体がその木箱にピッタリと入っていた。彼女の手を取り,立ち上がらせると,彼女は私に抱きついた。
「おはよう。」
彼女は私をぎゅっと抱きしめ,耳元でそう呟いた。四つの音の一つ一つに,記憶から消えることがない,忘れられない響きがあるように感じた。彼女の話した言葉は呪いのように私の頭にこびりつくように作られている。
彼女のはだけた服の隙間からは,女性を象徴とする「それ」も,男性を象徴とする「あれ」も見当たらなかった。それもそうであり,私がそうなるように作ったからだった。彼女の手を取り,更衣室へ案内する。
「さあ,トワイライト。着替えて仕事に入ってくれ。」
僕らが住むこの館は,ただ衣食住をするための場所ではない。ここは「トレンチコート」と僕が名付けた風俗店だ。単なる人間が従業員のほとんどだが,ここではトワイライトという名前で働かせているが,百合は人間ではない。しかし,そのことにお客の誰も気づく様子はない。百合は人間が喜ぶように尽くし,体は男にも女にもなれる。どちらの趣味の客にも合うように,どんな客のプレイにも耐えられるように,シリコン製の体で全てを受け入れて接客する。
百合は勤務時間になると,専用の更衣室に入り,露出の少ないフリルのついたゴシックスタイルに着替える。他の嬢にも一人に一部屋を用意しており,そこで客の相手をしてもらっている。トレンチコートに所属している従業員は,今の所トワイライトを含めて二十九名。しかし,生身の人間を抑えて売上ナンバーワンの成績を出しているのはトワイライトだ。
そんなの理由は簡単だ。トワイライトは乱暴な行為も残虐な行為も拒否しない,感情がないのだ。だからこそ,どの客にも対応できる完璧な嬢となる。
けれど,私は百合を愛している。そんなことをさせてしまうことに罪悪感が湧かないわけではない。しかし,この物語は僕と百合の恋愛模様を描いたラブストーリーなどではない。私が彼女に抱いている感情は,とても複雑である。過去の彼女は愛していたが,変わり果てた彼女のことはとても妬ましく感じている。彼女が僕にしたことによって,彼女の中の僕は,とても小さく意味のない存在だと思い知らされた。僕の中ではずっと前から肥大化し切ってしまっていたのに。
百合,君を信じていたんだよ。でも今の君には興味がない。死ねばいいと思っている。消えてしまえと毎日,そう毎日願っているよ。ああ,百合は静かな方が美しくて可憐だよ。その小さな唇を,僕のこの腕で絞め殺してしまいたい。君の形をしたドールを殴ったとしても,君が最悪な落ち方をしたことには変わりないのに,また今日も僕は,あのドールの背中を蹴落としてしまうんだ。
トレンチコートの営業時間が終了し,従業員が出ていった後,彼女だけが自分の部屋から出てこない。僕はいつものようにドアをノックする。
「どうぞ。」
彼女から返事が来ると,僕は部屋に入った。
その瞬間,彼女の腕を乱暴に掴み上げ,近くの壁に叩きつけ,こう言った。
「なあ,百合。いや,トワイライト。君は良い仕事をしてくれる。客からの評判も良い。完璧だ,完璧な夜のお嬢様だよ。」
ハルオミさんは,怒りを交えた声で苦しそうに言葉をこぼした。馬鹿だとか,阿呆だとか,最初はその程度の言葉だった。少しずつその言葉は,もっと具体的な,棘のある暴言に変わっていった。そして,ハルオミさんは私の腕を掴む手の握力を強めた。
「百合はとても綺麗な女の子だったんだよ。ふんわり香るあの匂い,優しくなびく髪,それから淡く色づいた頬。全部大切で,大好きだったんだ。君にはそんな美しい百合の象徴を,全て詰め込んだつもりだった。それなのに見てみろ!あの頬の優しい匂いもぴんと跳ねるようなら潤いも,お前にはない。お前とはセックスしたいとも思わない!」
私の頬を両手で挟んだかと思えば,その手をやるせなさそうに振り落とし,ベッドに倒れ込んだ。
「百合は,変わってしまった。君のモデルは,もういない。僕にはトワイライトを本物にするしか道はない。」
ハルオミさんは,いつも私自身を見てくれない。私に重ねた誰か,百合さんを通して私を見ている。私がどうであるかなんて気にしていない。そもそも私は人形で,心なんてないから,それに寂しさだって感じない。
ハルオミさんは,窓のないこの部屋のどこかをしばらく見つめていた。何を見ているのかは分からなかったが,まるでそこに何かがいるかのように,じっと見つめていた。おそらく彼女,百合さんだろう。
初めの頃,ハルオミさんは,私で体を満たそうとしていた。いわば,私をラブドールにしようとしていた。
「百合,ついに完成させられたよ,百合。」
私の体を抱きしめ,ハルオミさんは嬉しそうに笑っていた。
「僕は君がいないとだめなんだよ。捨てないでくれよ。大好きなんだ。」
そう言うと,ハルオミさんが私を抱きしめる力は強くなった。一層辛そうに,だけども何かを強く願うように私を抱きしめた。
そして,体から私を引き離すと,私の唇に,ハルオミさんの唇を近付けた。
しかし。
「百合が僕を理解して,また戻ってきてくれる日なんてない。僕はずっと一人なんだ。」
そう言って,ハルオミさんは部屋を出ていった。寂しく感じてもこれは毎回のことだし,仕事もしなくてはならない。これは全てハルオミさんのためだから。私は立ち上がり,次の指名客が来るまでに,いそいそと準備を始めた。
あぶくたった、にえたった 和 @masumi_inochi
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