Right

 初めて百合ちゃんを抱き締めた時にふわりと香った匂いは何の匂いだっただろうか。

 南の風は熱く,激しく,私の頬を殴るように吹いていた。二年前,彼女の住む街に赴いた。文通友達であった百合ちゃんと初めて会うことができて,やっと百合ちゃんの目を見て話すことができた。百合ちゃんからは,その名前に似合うような百合の花の甘い香りがした。

 それだけではない。文章だけでやり取りをしているだけでは感じなかった,抱擁で伝わる柔い肌と,体温。百合ちゃんの長い髪が,駅のホームを吹き抜ける風に煽られて揺れていた。人混みも気にならないくらい,彼女と会えたことが本当に嬉しかった。

 百合ちゃんと会った一瞬の記憶の中で,特に印象に残っていたことがある。百合ちゃんからの手紙で何度か聞いてはいたが,私が想像していたよりもずっと彼女は長身だった。それに想像以上に可愛いかった。お茶目で,大人っぽくて,優しい子だ。もしかしたら受け入れてもらえないかも,という不安は,百合ちゃんと出会ってすぐに柔らかく溶けていった。

 あの頃はあれほど幸せだったのに,今では百合ちゃんを憎み,私自身が感じている罪を百合ちゃんに擦り付けることで私の心が壊れないように保っている。

 あの時の喜びはどこへ出てしまったんだろう。

「百合ちゃん!」

 初めは,駅の改札の前に立って待っている百合ちゃんを見て,私はすぐに百合ちゃんだと分からなかった。しかし,ゆっくり近付いてくる百合ちゃんを見て,「ああ,この人が百合ちゃんだ」と理解し,彼女に駆け寄った。百合ちゃんは,私の言葉に少し戸惑いを溢しながらも「やっと会えたね」と優しく抱き締め返してくれた。

 百合ちゃんとは数年前から文通友達で,彼女とはそれ以前まで一度も会ったことはなかった。学校でも,家に帰ってもひとりぼっちの私にとって,彼女との手紙のやり取りは唯一の友達ごっこだった。その時の私にとっては手紙を読んでいる時間,書いている時間が何よりも楽しかった。

 しかし,今となって思い返してみると,百合ちゃんは本当に抱き締め返してくれてただろうと考える。私の方から彼女に飛びついた記憶はある。

 彼女のことを思い出す度,楽しかった思い出がまるで悪いものだったかのように改悪され,百合ちゃんをどんどん悪い人へと変えてしまう。しかし,彼女が私を捨てたのも事実,揺るがない事実だ。彼女は私が大事だったわけではない,彼女も私も一人になりたくなかった。彼女は,話して欲しい時に話してくれる都合の良い友達が欲しかった,と小さく呟いた。

 彼女の大好きは,私をすり抜けて,私の背後にいた「承認欲求」に向いていた気さえする。彼女が私を愛する振りをすることで,私は彼女に愛されていると勘違いして,彼女に優しくして,彼女の話を真摯に聞くのだから。彼女はきっとそういう性格だった。

 だから,手紙に残したあの最後の文は,私への謝罪ではなく,私に離れてほしくないという彼女のわがままから生まれた言葉である。

『急に突き放してしまってごめんね。きっと私の話なんて聞きたくないだろうけど,お手紙にしました。もう私のことなんて嫌いだろうけど,聞いてほしくて。私ね,すごく羨ましかったんだ。最近,私を放って楽しそうだったから。そういうのを見て,すごくイライラしてた。だから,辛くて,見たくなくて…』

 私は,そこから先の文を読むことができなかった。

 今ではこう思う。私たちには,文通という距離が程良かったのかも知れない。私と彼女とでは,親友にはなれない。

 彼女と私が最後に会った日のことは今でも覚えている。

 ある日,私は手紙で最近仲良くなった男性の友達の話をした。すると,百合ちゃんは「私もその人とやり取りをしてみたい」と言うようになり,私が仲介をして,百合ちゃんと彼もやり取りをするようになっていた。その友達は社会人で,私は佐伯さんと呼んでいた。

 ある日,ついに佐伯さんと私は彼女に会いに遠方まで出向き,三人で遊んだ。しかし,仕事の事情で二日目の昼間に彼が帰った。しかし,私はその日の夜に帰る予定で,まだまだ彼女といるつもりだった。その日は暑い夏だったこともあり,休憩がてら喫茶店に入って色々話をした。喫茶店では,先に帰ってしまった佐伯さんの話を楽しくしていた。まだ午後三時くらいだったし,この後も楽しい時間が待っているものだと,私は信じていた。

 私たちは喫茶店を出て,これからどこに行こうかなと話題を振ろうとした途端,彼女は耳にイヤホンを挿し,じゃあね,と駅の改札へ消えて行った。一瞬のことすぎて,私はそのまま彼女を見送ることしかできなかった。止めるタイミングすら見失って,固まっていた。

 彼女は年下だったし,遅くまで一緒にいさせられないとは思っていたが,旅行に来たわけではなく,彼女に会いに来たのに。見知らぬ土地に放置され,私も何をしたらいいか分からなかった。更に,私は結局天候の都合でその日に家まで帰ることができなかった。カラオケボックスで時間を潰して,一人になっている間に,何だか自分が虚しく思えた。

 後から冷静になってその時の彼女について考えるたびに,ただ佐伯さんといたかっただけか,と悲しくなった。私はいらなった。

 その後,佐伯さんと百合ちゃんだけで会うこともあったようだ。少し寂しくなって,「私も会いに行きたい」と百合ちゃんに伝えたが,「お金がないから難しい…」と断られてしまった。お金がないなら仕方ない,とも思ったが,私と会いたくないだけなのかもと一度考えてしまうと,溢れて止まらなかった。


 からんからん,という店のベルが鳴る音で,ふと頭を上げた。手元にはカクテルの入ったグラスがあった。どうやらバーで飲んでいる間にすっかり酔っ払ってしまったらしい。私の横には例の佐伯さんが座り,ぼうっとしていた私の顔を覗き込んでいた。

「やずね,大丈夫?酔っ払った?」

 二十歳を迎えてお酒を嗜めることができる年齢になっても,アルコール耐性のない私では,ほんの少し飲んだだけですぐにぐったりとしてしまう。

 お酒に酔い,ぐったりとした私を佐伯くんは心配そうに見つめ,私の手を上からそっと握った。佐伯さん,いや,さくらくんは,私が手に持っていたグラスを取り,代わりに水の入ったグラスを渡してきた。

「時間も遅いし,やずねのことも心配だから,もう帰ろう。」

 さくらくんは私の手を引きながら店を出て,駅まで歩き,二人の家まで私を連れて帰ってくれた。家に帰って着替えを済ませ,ベッドに寝っ転がると,私は泥のように眠ってしまっていた。寝る支度を済ませたさくらくんも同じくベッドに入って,私の隣に横たわった。彼は私の頭を撫でながら,静かに眠りに落ちた。

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