抜くな

えんがわなすび

 友達の背中から毛が出ていた。

 正確に言えば、友達の上着の裾から一本、毛が垂れ下がっていた。


 いつからそこにあったのか。一日中一緒に過ごしていたのに、私はその毛に気づかなかった。

 そもそも細い、一本の毛だ。注意して見なければ気づかない。けれど一度気づいてしまうと、もうそれが気になって仕方ない。

 黒々とした裁縫用の糸よりも細い毛は、遠くの山裾から降りてくる微かな風と友達の歩調に合わせて揺れる体の調子とで、左にうねったり右に弾んだりと忙しい。

 まるで生えた尻尾みたいだ。


 取ってあげた方がいいんだろうな、と私はその垂れ下がる一本の毛を見ながら思う。

 学校も終わって後はこの道を真っ直ぐ進んで家に帰るだけだけど、帰ったところで友達がこの毛に気づかない場合もある。そうなれば友達は何の変りもなく上着を脱いでそれをハンガーに掛けるだろうし、きっと毛は朝までそこに付いているだろうし、そしたら明日の朝一緒に登校するときもこの毛は何食わぬ顔で私たちと一緒に仲間みたいに登校するんだ。

 で、きっと私だけがそれにもやもやする。毛に気づいちゃったんだから。

 それはなんだか嫌だなと思った。綺麗に整列されていたところに一箇所だけひょこっとズレたみたいな、そんな嫌な気分だった。


 そうだね、と誰かに肯定されたように目の前の信号が赤に変わって私たちは横断歩道の前で足を止める。

 友達はさっきから変わらず今日の授業の愚痴で口が忙しい。担任の禿げの話も聞き飽きている。

 私は今だ! と思った。さっきまでぴょんぴょん跳ね回っていた毛も、足を止めたことで今は大人しくなって直線を描くように伸びている。

 私はなるべく不自然にならないように、友達に気づかれないように毛に手を伸ばして。


 引っ張る。

 途端、指先にピンと抵抗する感触が伝わった。

 毛が、抜かれることをいやいやと言うように張りつめている。

 あれ? 上着の中で引っ掛かってるのかな?

 おかしいなと思って私はそれに抵抗するように指に力を入れて強めに引っ張った。


 力に負けた一本の黒々とした裁縫用の糸よりも細い毛がずるりと抜けて、抜けた先から決壊したダムのように大量の毛束がごそっと付いてきて、え? と思って引っ張る指の力が緩むよりも早くずるずると上着の裾から抜けた毛髪の先に、土気色した友達の顔が逆さまになって出てきた。


 乳白色に濁った死んだ目と合う。

 無表情に乾いた土のような顔と目が合う。

 それが何であるか、悲鳴が喉から生成される前に、さっきまで隣で授業の愚痴を吐き出していたはずの友達の死んだ逆さまの顔が口を開く。


「抜くな」


 喉を潰された蛙のような男とも女ともつかない声で、そう言った。


 はっとして顔を上げれば隣に立って一緒に信号待ちをしていた友達が、ぐるりと首を捻ってこちらを見ていた。最初に思ったのは、(顔あるじゃん)という場違いな感想だった。

 それが引き攣る恐怖にじわじわ染められたのは、隣に立つ友達も、上着の裾からずるりと出てきたあの土気色の顔のように無表情だったからだ。

 声が出ない。視界の端でどこかの信号がチカチカと点滅している。


 そうして上着の裾から尻尾のように大量の毛と土気色した自分の顔を生やした生身であるはずの無表情の友達は、口の端をきゅーっと持ち上げて耳まで裂けたような笑顔を私に向けて、くるりと身を翻して元来た道を走り去っていった。


 それが、彼女を見た最後だった。

 翌日、彼女は真昼間の大通りに飛び出して、車に轢かれて死んだ。

 結局私は彼女の上着の裾から出てきた土気色の顔のことも、一本の黒々とした裁縫用の糸よりも細い毛のことも、あの歪んだ笑顔のことも誰にも言わなかった。

 誰かに言ったら、私の上着の裾からも毛が生えてきそうだったからだ。

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抜くな えんがわなすび @engawanasubi

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