きぬこさんの話

由希

きぬこさんの話

 きぬこさん、と呼ばれるモノが、僕の街には居る。

 いわゆる地方の都市伝説の一つだ。街の小さい子はみんな、「悪い事をするときぬこさんが攫いに来る」とそう脅かされて育つ。

 そこまでなら実によくある話だ。けれどきぬこさんが、他と少し違うところが一つ。

 それは実際にきぬこさんを呼び出す為の方法が、いくつも伝えられているという事である。


 きぬこさんは場所によって呼び出す方法が変わり、現れるきぬこさんも別々なのだという。

 学校で呼び出せば、学校のきぬこさん。神社で呼び出せば、神社のきぬこさん。

 そして——今から僕が呼び出そうとしている、病院のきぬこさん。

 大人はきぬこさんが悪い子を攫いに来るなんて言うけれど、実際のきぬこさんはそう言った事はしない。場所によって呼び出し方が違うそれぞれのきぬこさんだけど、一つだけ共通してる事がある。


 曰く、呼び出した者は必ず死ぬ。


 もちろん、明確にそう伝えられている訳ではない。一番近い危機を知らせるだとか、一番大切なものを捧げなければならないとか、伝わっているのはそう言った濁した言い回しだ。

 それでも、全部突き詰めれば。呼び出した者は死ぬ、そういう事になると僕は解釈している。


 何故ならこの街は、不審死がとても多い。


 神社に首なし死体が転がってただとか、夜遅くまで校内に残ってた女子高生の集団が皆殺しにされたとか。この街では、そんな話に事欠かない。

 それでいて犯人が捕まったという、そんな話はほとんど聞かない。どれも普通に見れば凶悪な事件なのに、警察が真面目に捜査してる素振りもない。

 その度に、まことしやかに囁かれる噂。——『死んだ奴は、きぬこさんに殺された』。

 もちろんほとんどの人は、本気でそう思ってる訳ではない……と思う。けれどそのうち何人かは、きっと本当に知っているんだ。


 きぬこさんは本当にいて、好奇心で自分を呼び出した者の命を残さず奪っているのだと。


「……着いた」


 そんな風に考え事をしているうちに、目的地に着いた。とっくに鍵が壊れて半開きになっているドアを押せば、悲鳴のような金切り声が上がった。


「……さっむ……」


 外に出ると、身を切るような冷たい風が体を包む。ここまでも決して暖かい訳ではなかったけれど、四方を壁に囲まれていただけマシだったのだと思い知った。


 僕は今、廃病院の屋上にいる。


 今夜僕がこんな場所にたった一人で来たのは、もちろんきぬこさんを呼び出す為だ。呼べば死ぬという、その確信をもってなお。

 病院のきぬこさんは唯一、命を奪う事が言い伝えで明言されているきぬこさん。それ故か他の場所と比べ、不審死の噂は極めて少ない。


 曰く、病院のきぬこさんは、最も大切な人の命と引き替えにありとあらゆる病を治す。


 これを聞けば最初は、酷い話だと思うだろう。大切な人とは言え、他人の命と引き替えに生き長らえるなんてと。

 そこが盲点だ。この言い伝えには、「大切な人」に自分自身は含まれないとは書いてない。

 では、と今度はこう思うかもしれない。せっかく病が治っても、死んでしまったら何も意味がないと。

 そこで二つ目の盲点。言い伝えの中では、「誰の」病を治すかという指定はされていない。

 ……そうだ。僕の目的は僕の命と引き替えに、妹の病を治す事。

 妹は生まれつき、心臓に重い疾患があった。何度も手術を繰り返して、何とか十四の年まで生き延びる事が出来た。

 けれどこれ以上は、心臓移植しか道がないと言われ。藁にも縋る思いでドナーを探したけれど、今日まで見つからない状態だ。

 ……正直、もう限界なんだ。例えドナーが見つかっても、うちには度重なる心臓手術のせいでお金がない。

 クラウドファウンディングも募ってみたけれど、集まったお金は多くない。妹より幼い歳で同じ境遇にある子の方に、お金が流れていってしまっているのだ。

 だから僕も手術代の為に高校進学を諦め、中卒で働かなければならなかった。全部妹の為。妹の、せい。

 そう、これは復讐なんだ。僕の人生をメチャクチャにした、妹への。

 僕の命と引き替えに妹を病から解放し、代わりに心に刻んでやるんだ。お前の為に僕は死んだ、お前が僕を殺したのだと。

 こんなのは八つ当たりでしかないと、本当は解っている。妹はいい子だし、自分が家族を犠牲にしている事にいつも心を痛めている。

 それでも。人間には、理屈ではどうにも出来ない事というのがあるのだ。


「……準備するか」


 誰に言うでもなく呟いて、背負っていたリュックを下ろしてしゃがみ込む。中から取り出したのは、ハンカチくらいの大きさの白い布切れと新品のカッターナイフ。

 この布切れに、呼び出す人間の血で鳥居のマークを描く。その後、「きぬこさん、きぬこさん、おいで下さい」と三回唱えればいいらしい。

 キチキチと適当な長さまでカッターナイフの刃を出し、深呼吸。冬の夜の冷たい空気が肺の中を満たし、思考が程良く冷えていくのを感じる。


「……よし」


 覚悟を決めて左手の手袋を外し、刃の先端を人差し指の先に沈ませる。しばらく柔らかい肉の弾力が返ってきていたが、やがて強くなった痛みと共に、避けた皮膚から血がじわりと滲み始めた。


「……もうちょっと……」


 血が出るには出たがこれではすぐ止まるかもしれないと、痛みをこらえて更に深く刃を肉に押し込む。最初小さかった血の珠はみるみるうちに大きくなって、やがて鳥居のマークくらいは描けそうなくらいの量になった。


「こう……で、いいんだよな」


 ズキズキと痛み血を流す人差し指を布切れに押し当て、血で大きな鳥居のマークを描く。普段は特に気にも留めない、とても簡単なマークなのに、こういう時になると本当にこれでいいのか妙に不安になってしまう。


「後は三回唱えればいいんだな。……きぬこさん、きぬこさん、おいで下さい」


 口に出してきっちり三回、言い伝え通りにそう唱える。……これできぬこさんが呼べる、はず……。


 ——ぺたり。


 突然背後から、湿った足音がした。濡れた床を裸足で歩くような、そんな足音。

 念の為下を見るが、床は乾き切って砂埃が舞っている。なら、この足音は?


「き、きぬこさん……なのか?」


 足音の主は僕の問いには答えず、ただ黙ってその距離を詰めてくる。覚悟はしていたはずなのに、いざ本当にきぬこさんらしきものが現れた今、体が震えて止まらない。

 怖い。死ぬのが? きぬこさんが? それとも両方?

 でも。それでも僕は。僕は!


「……僕の命をやる。だから、妹の病気を治してくれ」


 やっとの事で口にしたその声は、みっともないほど震えていた。けれど背後の足音は止まる事なく、やがて僕の真後ろに立った。

 つんと鼻を突く、鉄錆の臭い。それは僕の流したものなのか、それとも背後のナニカのものなのか。

 「きぬこさん」は、僕の後ろに立ったまま何もしてこない。すぐにでも命を奪われるものと思っていただけに、ここからどうすればいいのかがさっぱり解らない。

 振り返るべきか。振り返って後ろを見れば、僕は死ぬのか。

 怖い。怖くない。見たくない。見たい。

 真逆の考えが混ざり合って、ごちゃごちゃになって、どっちがどっちなのか解らなくなって。


 気が付けば、僕の体は勝手に振り返って



 ……スマホの着信音が、繰り返し鳴り響くのが聞こえる。

 重い瞼をゆっくりと開ける。途端、目の眩むほどに遠い遠い朝焼けの空が飛び込んできて、僕は開けたばかりの瞼を反射的に閉じた。


(……生きて、る)


 真っ先に頭に浮かんできたのはそれで。でもそれがどうしてなのかは、全く解らない。


(電話、出なきゃ)


 考えが纏まらないまま、上着のポケットで震え続けるスマホを手に取る。そして相手を確認しないまま出ると、直後、脳天を突き抜けるような大声が飛び出してきた。


まもる!? アンタ今どこにいるの!』

「……母さん?」

『「母さん?」じゃないわよ! いつの間にか家からいなくなってて……こんな、こんな時に……!』


 そこで、母さんが言葉を詰まらせる。瞬間、急激に、嫌な予感が膨れ上がった。


「母さん、まさか……恵美めぐみに何かあったの?」


 息を飲み、震える声でその問いを口にする。ドクドクと激しさを増す心臓の音が、今は酷く煩わしかった。

 そして、返ってきた答えは。


『今、病院から連絡があって……恵美が、息を引き取ったって……!』


 それを聞いた瞬間。僕の手からするりとスマホが滑り落ち、乾いた音を立てた。



 妹の葬儀はひっそりと、しめやかに取り行われた。

 小さい頃から入院している事の方が多かった妹には、友達と呼べる相手がいない。僕達と、医者と、看護師。それだけが妹の世界だったのだと、改めて思い知った。

 医者は言っていた。死んだ妹の心臓は普通の人と同じ、全く健康なものになっていたと。

 それはつまり、きぬこさんは本当にいて願いを叶えてくれたという事で。それなのに、僕が死ななかったという事は。


(……僕にとって一番大切な人が、妹、だったから)


 きっとそうだった。自分では復讐の為だと思い込んでいたけれど、本当はただ、妹にこれからもずっと生きていて欲しいだけだった。

 だからきぬこさんは妹の心臓を治し、その上で、その命を奪ったんだ。


(僕が、殺した)


 僕が、きぬこさんを呼び出したりしなければ。もしかしたら妹は、これからもずっと生きていられたかもしれないのに。

 妹の為に死ぬつもりで、僕は——。


(ごめん。ごめん、恵美……)


 泣きながら遺影を握り締める、包帯の巻かれた左手の人差し指が、叫ぶようにズキリと痛んだ。





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