小さく見えた少年は、小学五年生らしい。それから名前は誠也せいやという。今日知ったことだ。


 何てことはない。昨日来たときには付けていなかった名札が、左胸にくっついていたからわかったのだ。

 少年は今日もまた、当たり前のように店にやって来た。まさかこんなに早く再会できるとは思わなかったので、柄にもなく面食らってしまったくらいだ。


「もう運命の人に会ったのかい? さすがに早いんじゃ」


 誠也は「そんなわけないでしょ」と呆れたように返しながら、昨日と同じ席に座った。爪先が床を掠めるくらいの高さで、腰かけるにも一苦労の椅子がやけに様になっている。


「友達だから会いに来たんだよ」


 前に抱えたランドセルからビニール袋を取り出す。ガサガサと音を立てて結び目をほどけば、五〇〇mlのペットボトルを机の上にドンと乗せた。黄色のラベルとオレンジ色の液体は、我が家の照明と違って不自然なまでに鮮やかだ。


「友達は、放課後に一緒にジュースを飲んで遊ぶんだよ」


 だからやって来たのだと言う。コップを出してと急かす誠也に促されるまま、グラスを二つ用意する。その間にも、私の中の疑問が鎮まることはなかった。


「どうやってここに来たんだい?」

「何言ってるの。昨日も来たんだから忘れないよ」


 両手でグラスを受け取った誠也が、物覚えの悪い子どもに対するみたいに答える。子どもはそちらの方だというのに。

 向かいに腰かけると、大人らしく真面目に問いかける。


「そういうことじゃない。ここはそんな気軽に立ち寄れる場所じゃないんだよ。来るべき人が、運とタイミングと心の強さで訪れることができるんだ。情報で世間を渡り歩いているような人でも、そう容易く再訪することはできない」

「どうして来れないの? 迷子になっちゃうの?」

「そうじゃなくて。そういう風になってるんだよ」

「そういう風?」

「だから、その、不思議な力が働いて」

「不思議な力って何?」

「つまり……空間ごと切り取っているというか、店はずっと世界のどこかにあるんだけど、必要としてる人の前にしか見えなくなっていて。仕組みとかは、私もよくわからないんだけれども。とにかく、そういうものなんだよ」

「ふぅん」


 ジュースを一口飲んで、誠也はつまらなさそうに言う。


「よくわかんない」


 私の反応が期待通りではなかったのか、誠也は昨日より不機嫌に見える。

 私は悩み、考え、言いたいこともたくさんあったが、昨日ぶりの友人との再会を素直に喜ぶことにした。どうせ考えたところで、誠也の言う通りわからないことなのだから。


「それもそうだ。世の中にはわからないことがたくさんあるからね」


 そう言って、まだ半分も減っていないペッドボトルを指で弾く。


「例えば、どうやってバレずにジュースを学校に持って行ったのか、とか」


 次いで、床に置かれた黒いランドセルに目を落とす。所々細かな傷があるものの、この年頃の男の子にしてはよほど綺麗に使っているようだ。

 誠也は私の言葉を聞くと、呆れたように肩をすくめた。わざとらしい仕草さえ様になるには、もう少し時間が必要らしい。


「一回家に帰ったに決まってるでしょ」


 なるほど、確かに友人のもとに遊びに行く際は、一度家に帰るのが定石だ。ランドセルを背負ったままというのは否めないが、他に手頃な入れ物がなかったのだろうと納得できる。

 だが、とちらりと胸元を見た。


「名札は外し忘れたみたいだね」


 そのときの誠也の慌てようと言えば。慌てて名札を隠そうとするその姿があんまりに子供らしかったので、私はけらけらと笑ってしまった。



 さて、それから半年経って、一年経って五年経っても、誠也はここに来ていた。他にもお客さんは何人も訪れたが、二度と訪れた者は誠也を除いて誰もいない。

 この店は、そういう風にできているからだ。なぜ誠也だけが例外なのか、未だにわからなかった。


 誠也はもう高校生になっていた。十六歳だ。背もうんと伸びて、私を追い越してしまった。デフォルトが平熱気味であることに変わりはないが、最近は歯を見せて悪戯っ子のように笑うことも多い。黒い学ランは、誠也が着ると品のある貴族の衣服のように見えた。


 その日誠也が店に訪れたとき、店内には先客がいた。初恋の人と再会し、どうしても諦めきれないと訴える男性だ。誠也に負けず劣らずの美男だった。

 ヤマイダレに頼らずとも成就するだろうとは思ったが、お客様相手に個人的な意見を言う資格はない。

 ヤマイダレを渡すと、男性は喜んで去っていった。通り過ぎる際、誠也はその男性を目で追いかけた後、何か物言いたげにこちらを見た。


「何だい、誠也」


 誠也は私の問いかけにも答えず、いつもの定位置に座った。友人の杯をかわした二人席だ。ジュースを注いでその向かいに座るのが、私の日課となっている。


「不機嫌そうだな。また告白でもされたかい」


 グラスを差し出すと、不機嫌ながらも小さくお礼を言って受け取る。律儀なものだ。懲りずに告白をしてくる女の子達にも、律儀にお断りしているのだろう。

 味の薄いオレンジジュースに口をつける。少し待てば、自慢ともとれない愚痴が始まるはずだ。

 しかし今日は違った。そんなんじゃないと首を振り、グラスにも口をつけずこちらを見据える。


「さっきの人、誰」

「お客様だけど」


 何をわかりきったことを。

しかし誠也は、私の答えに納得できなかったのか、不満げに唇を噛んでいた。


「こら、血が出てしまうよ」

「またそうやって子供扱いして。もう十六だよ」

「子供じゃないか」


 誠也はますます顔を苦くする。


「未だにこんなの出してきて」

「オレンジジュースは飽きたかい? いつも別のものを用意しようと思うんだが、子どもの好きな飲み物がどうにもわからなくて」

「子供じゃない!」


 声を荒らげるとは珍しい。目を丸めていると、私よりよほどバツの悪そうな顔をした誠也が肩を丸めていた。子どもじみていると自覚してしまったらしい。

 なんだか気まずくなってしまった。誠也は私の唯一の友人だ。楽しい時間を過ごしたい。


「まぁ、なんだ。そうかもしれないな。以前より背が伸びた気がする。顔つきも凛々しくなった。同年代よりはよほど大人びている」


 これは初めて会ったときから思っていたことだった。一見すればミステリアスで、落ち着いた物腰の誠也は、同年代から見ればよほど大人びて見える。誠也がモテるのは、きっと外見だけが理由ではない。


「もしかしたら、ヤマイダレなど一生必要ないかもしれないな」


 いや、それはどうだろうか。先程のお客様も随分整った顔をしていたが、ヤマイダレを必要としていた。

 訂正すべきか悩んでいたところで、突然グラスが机の上から消えた。私の分ではない。誠也の分だ。

 逆さにする勢いで一気に飲み干すと、口元を拭いこちらをじっと見つめてくる。頬の赤みが、寄せられた眉が、彼の緊張を表していた。


「ヤマイダレが、欲しい」


 私は目を見開いた。こんなにも驚いたことは初めてだったかもしれない。

 そうかそうかと、喜びの声をあげた。ついに誠也にも春が訪れたのだ。果たしてこの気難しい少年の心を射止めたのはどんな人物なのか。

 いつもと同じように、しかしいつもよりよほど興奮して問いかけた。一体誰に飲んでほしいのかと。


 すると誠也は目を瞑って、ますます顔を赤くして、深く深く息を吐き出し、最後に指をまっすぐこちらに向けた。

 後ろを見る。誰もいない。


「あんただけど」


 頬を赤くしたまま、誠也が言う。呆れより焦りが勝っている声だった。私か、なるほど。それは驚いた。


「恋と愛の違いはわかったのかい?」


 誠也はこくりと頷いた。


「恋をして、本当に好きになって、好きになってもらいたい人ができたら渡すって、そう言ったろ」


 初めて会ったときの言葉を復唱する。確かにそんなことを言ったなぁと、私は彼の記憶力に感心していた。

 誠也はカチコチになっている。耳まで赤くして、呼吸がきちんとできているか不安なほどに。


 誠也は確かに成長したようだ。恋と愛の違いがわかるほど。だけどやはりまだまだ子どもだ。私のことをちっともわかっていない。


 頬杖をつく。グラスをつついた。あの日ペットボトルを弾いたように。


「なるほど。ちなみに私の好みは、道具に頼らず自分の力で相手を惚れさせようと努力する男性だよ」


 できれば健気で、一途な成人男性。


 誠也はその日ショックで涙目になり、一ヶ月は店を訪れなかった。

 その後再び訪れたときには、薔薇の花束と「二年後にまた告白するから」という口約束をしてきたものだから、私はおかしくて愛しくて、いつかのようにケラケラと笑ってしまった。

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ヤマイダレ 島丘 @AmAiKarAi

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