ヤマイダレ

島丘

 ツボの中から一掬いして瓶に詰める。受け取った女性は喜んで帰っていった。


 山井家には一族代々受け継ぐ秘伝のタレがある。それはヤマイダレと言って、飲んだ相手を不治の病にかける効能があった。病といっても身体そのものを害するのではない。心に作用するのだ。恋という病を。いわゆる惚れ薬である。


 ヤマイダレは年々継ぎ足していき、情欲や嫉妬や憎悪や未練やらで黒々としている。

 味は人によって変わるので、黒蜜のようにねっとりと甘いと言う者もいれば、砂糖醤油のように甘じょっぱいと言う者もいる。コーヒーのように苦いと感じる者も、まったくの無味だと言う者もいた。


 山井の人間は、惚れ薬を仕掛けられた彼ら彼女らの感じ方を全て記録している。仕事、というより使命だからだ。

 羊皮紙の表紙でできた記録帳は、今年で八十九冊目となる。先ほどの客の記録を描き加えれば、その記録帳も終わりを迎えてしまった。


 奥の倉庫から新しい記録帳を取る必要がある。店内には人影もない。少し早いがこのまま店仕舞いしようと、私は立ち上がった。


 ぎいっと音を立てた濃い茶色の木製椅子から、赤いクッションが落ちる。先日買ったばかりの、無地でこわごわとした生地のクッションだ。

 拾い上げようと身を屈めるとほとんど同時に、椅子を引きずったような扉の音が聞こえてきた。入り口の扉も、そろそろ手を加えなければならない。


「いらっしゃい」


 扉から顔を出したのは、ドアノブよりほんの少し背がある少年だった。人がいるとわかり安心したのか、少年は中へと入ってきた。


 ここからではいまいち顔がわからないが、小学校の中学年くらいだろうか。背負った黒のランドセルに、背中を潰されてしまいそうな子だった。


「ここに、惚れ薬があるって聞いたんですけど。その、ありますか?」


 たどたどしい口調になんとも言えない気持ちになる。私はカウンターから出て少年へと近付いた。

 薄暗い室内を灯すものは弱々しいオレンジの光だけだ。頼りない照明にさらされた少年は、子ども特有の愛らしさと似つかわしくないもの悲しげな空気を纏っている。


「あるよ。正確には薬じゃない。ヤマイダレという秘伝のタレだ」

「タレ? 焼肉のタレとか、そういうの?」

「焼肉のタレではないが、まぁそういうやつ」


 タレと聞いて一番に思い浮かぶものがそれだったのだろう。不思議そうに尋ねるその表情は、年相応に見える。


「しかし君は運がいい。そろそろ店仕舞いをしようと思っていたんだ」

「ほんと? よかった。僕、ここに来るまですごく迷って」

「そりゃそうさ。地図なんてないんだからね。ここに辿り着けるのはよっぽどの情報通か強運の持ち主、または人一倍執着が強いやつだけだよ。さて、君はどれかな?」


 上から見下ろすと、見上げてくる少年の黒目が大きいことに気が付いた。子どもだからって膝を折って目線を合わせるつもりはない。彼はただのお客様なのだ。


「誰を惚れさせたいんだい?」


 少年はすうっと息を吸った。その姿は、意を決して、さぁ話すぞと意気込んでいるように見える。


「お母さんに、飲ませたいんだ」


 大きい黒目は、薄暗い室内でさえ他の色に紛れることなく、黒々と輝いている。


「僕のことを好きになってほしい」


 私は久方ぶりに、本当に久方ぶりに困り果ててしまった。

 色恋とそれ以外の判別がついていない子どもに、何と説明すればいいのかいまいちわからない。

 私はうんと悩んだけれど、子ども相手に恰好悪いところも見せられないと、考えがまとまらないまま口を開いた。


「それはできない。君の求めるそれは恋ではなく愛だ。似て非なるものだよ」

「どう違うの?」

「そうだなぁ。例えば君は、お母さんと手を繋いだり頬にキスをするのはできるだろうけれど、唇同士をくっつけるのは抵抗があるだろう?」

「わからない」

「まぁ個人差はあるから一概には言えないか……。子ども相手にこういう話をしていいかわからないんだけど、要するに、情欲を向けられるかどうかって話さ」

「情欲?」

「いやでもこれもどうなんだろ。最近は多様性の社会だから、性的欲求に重きを置くのは間違っているかもしれない」


 私はほとほと困り果ててしまった。明確に違うと断言できるつもりだったのだが、上手い説明が浮かばないのだ。


「今の君にとっては、母親が世界のすべてのように思うだろう?」


 少年は少し考えた素振りを見せたあと、控えめに「わからない」と答えた。


「君はお母さんに愛されたくてここまで来たんだろう? 友達や好きな女の子ではなく、お母さんに」

「友達も好きな子もいない」

「ああそう」


 見た目も可愛らしいし、いじめられているというわけではないだろうが、確かにクラスでは浮いてそうだ。


「まぁつまり、君はお母さんが一番大切だということだ。だけどその内そうじゃなくなることがある。順番が入れ替わったり、他の人と同率一位になったり。世界には、他にも好きになれる人がいるんだとわかるときがくる」

「こなかったら?」

「そのときはそのとき考えよう。とにかくだ。恋と愛との違いもわからない君に、うちの秘伝のタレはあげられないんだよ」


 少年は目に見えて落ち込んでいる。肩を落とし、こちらにつむじを向けて床板とにらめっこしていた。

 かわいそうな気もするが、こればっかりはどうしようもない。私は少年の頭のてっぺんを人差し指で押しながら続けた。


「だけど君はこの場所に辿り着いたからね。恋をして、本当に好きになって、好きになってもらいたい人ができたときに渡そう」


 それまでは我慢しなさいとてっぺんをぐりぐり押していると、手を振り払われた。


「やめて」

「いらないの?」

「違う。いる。ぐりぐりするのやめて。痛い」

「君がこれでもかと見せてくるから触ってほしいのかと」


 凄く気味悪いものを見るような目を向けられた。元気が出たようで何よりである。


「何か飲むかい? 水かお茶ならあるよ」

「いらない。変な人に食べものもらったら駄目だから」

「変な人から変なタレもらおうとしてたのに?」


 そう言うと少年は苦い顔をして唇を噛んだ。大人げないとでも言うがいい。

 私は奥に引っ込むと、冷蔵庫から五〇〇mlのペットボトルを二本持ってきた。天然水というラベルが張ってあるが、中身は水道水である。


 動かずにその場でじっと立っていた少年を手招きする。警戒しつつも近付いた少年に近くの椅子を勧め、自分も向かいの席に座った。


「乾杯しよう、この出会いに」

「水じゃん」

「ジュースはなかったもので」

「ジュースないとか意味わかんない」


 家にジュースが常備されていないことは意味がわらないらしい。少年の家にもあるのだろうか。存外、心配してやるほど苦い家庭環境ではないのかもしれない。

 そう思っていたのだが、世間話をしている内に、食べ物だけ大量に買い置きされた家で放置されているらしいことがわかった。


「警察とか児童相談所……は難しくとも、親戚や近所の人には頼れないのかい?」

「なんで? そんなことしてお母さんと離ればなれにされたら、どうするの?」


 自分の母親がまともでない自覚はあるようだ。

 これは何を言っても無駄だと悟ったので、私は少年と他愛ない話をすることに専念した。

 馴染めない学校のことや、あまり帰ってこないお母さんのこと、何年も帰ってこないお父さんのことまで。他愛ない話というやつが、どうにもうまくいかない。

 ラベルの上まで減った水を左右に揺らしていれば、少年が初めて話を振ってきた。


「お姉さんは友達いないの?」

「どう思う?」

「いないと思う」

「正解だよ。君とお揃いだね」


 ここでとある案が浮かんだ。名案とも呼べる。私はペットボトルをワイングラスのように高く掲げて、少年にこう告げた。


「よし、じゃあ友達になろう」

「えっ?」

「君にはいずれヤマイダレを渡さなければならないだろう? つまりもう一度会うってことだ。二回以上会うっていうのは私にとってはあり得ないことなんだよ。次回に会う約束がある。これはもう友達と言っても差し支えない。親友かもしれない」


 少年があっけに取られている間に、彼が手に持つペットボトルに自分のものをとんっとぶつける。乾杯の意味だ。そして友情成立の意味。


「気分がいいね、友達というものは。こうなるともう、母親だけが大切だなんて思えないだろう?」


 少年は迷惑そうな顔でペットボトルを引っ込めた。そのまま帰るかと思いきや、足をぶらぶらと揺らして机の脚を蹴り始める。


「こらこら、行儀が悪いよ」


 やんわりと嗜めれば、驚くほど素直に従った。足を揺らすことすらせず、独り言のようにポツリと呟く。


「怒られたの初めて」

「親にも怒られたことがないのかい?」

「お父さんもお母さんも怒らないし笑わないよ。僕のこと好きじゃないから」


 だから好きになってほしかったのに。そう言った少年の顔は、伏せられたせいで見えなかった。


「約束は守るさ。また会おうね」

「いい。もう来ない」


 少年は勢いよく椅子から降りると、乱暴にランドセルを背負って出口へと向かった。飲みさしのペットボトルがそのままだ。扉へ向かう後ろ姿に教えてやったが、少年は振り向きもせず「いらない!」とだけ返事をした。

 閉まる扉にランドセルが引っかかり、少年の体が後ろへと引っ張られている。負けじと前に進んで、少年はついに、この奇妙な店から脱出することに成功した。


 さて、次に会うのは何年後だろうか。

 あのランドセルが背負えなくなるほど大きくなった頃だろうなと、私は一人予想を立てた。

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