第14話 死に際演技

 目の前に、ナイフを構えた男が立っている。

 血走った目で刃先を私に向け、こちらに真っ直ぐに走りこんできた。

 どすん、と男の身体が私の身体に激しくぶつかる。私は腹部を抑え、ゆっくりと崩れ落ちた。

「そんな……私が、こんなところで、死ぬなんて……」

 しばしの静寂の後、舞台の外から「カーット!」という大きな声が飛んだ。

「いやー、完璧な演技ですよ、西原加奈子さん! さすがは実力派人気女優だ」

「お疲れ様です、ありがとうございます」

 演出の加藤が舞台にあがってくると、ご機嫌をとるようにヘラヘラと笑みを浮かべていった。総監督の島田も舞台近くの席で何度も頷いている。

 演者たちも私の死に際の演技を口々に褒めたたえる。

 しかし、私には不満があった。

 本当に、腹部を刺され死に瀕する人間はあのように振る舞うのであろうか。

 私の演技はまだまだ『本当の死』に迫れていないのではないだろうか。

 今度の舞台『或る女の死』で私は主人公の女性の役を任されている。連続テレビドラマでも、何本もの映画でも成功を収めた私は本格派女優として名を高めてきた。

 そして今回の舞台こそが、最後の関門だと自分自身で位置付けている。

 舞台演技では当然撮り直しも出来ないし、音響や照明・メイクはあれど演技に特殊効果を入れることも出来ない。文字通り、体当たりの勝負なのである。

 ここで成功すれば、私はきっとこれからもずっと演技派女優としての地位を確立できるであろう。しかし逆に、ここでつまずけば私の人気は流行に乗ったいっときのものとして消えてしまう可能性が高い。

 私はそういった俳優を今まで何度も見てきたのだ。

 必ず舞台を成功させて、私は成功への道を駆け登ってやる。そう決意して臨んだのが今回の舞台稽古であった。

 しかし何度練習を繰り返しても、私は自分の死に際の演技に納得がいかなかった。

「ねぇ、監督。さっきの舞台、私の最後のシーンどうでした?」

「ん? どうしたの加奈子ちゃん。すごい良かったよ、あふれ出す血が見えてくるようだったよ、完璧だよ」

「そう、ですか。自分ではどうにも自信がなくて」

「なぁに言ってるんですか加奈子さん! 監督の言う通り、もうパーフェクトですよ! パーペキ!」

 どんなに意見交換をしようとしても、今人気絶頂の私の演技を非難するものなど誰もいなかった。それが、私にとってはとても孤独であった。

 どうすればいいのか。

 まだまだ足りない。

 本当の死に際演技を、私は出来ていない。

 そのことだけは、直感的にわかる。

 けれど、私には相談できる相手もいなく、どうしようもなく孤独だった。部屋にある練習スペースでひとり何度練習を繰り返しても、なんの答えも見えてこない。

 私には、本当の死の演技など出来やしないのだろうか?

 私はひとり、何度も死に際に瀕した人間のことを考えては絶望を感じていた。

 太陽がビル群に沈み始めた夕暮れ、私は自宅のマンションへ向かっていると、不意に後ろから声をかけられた。

「あの、西原加奈子さん、ですよね?」

 落ち着いた、女性の声だ。

 私は聞こえないように小さくため息をついた。

 サングラスとマスクをして顔をしっかりと隠しているが、それでもこうしてファンに見つかることはよくある。

 振り返ると、そこにはモデル顔負けの美しい少女が立っていた。

 肩まで伸ばした銀髪が、夕日を受けて美しく輝いている。白い肌に小さな顔、それでいてつぶらで大きな瞳とうすい唇。黒のジャケットに黒のシャツ、黒いパンツにわざとはずした黒いスニーカーを履いている。

 これで髪でもひっつめれば、男装の麗人の出来上がりだろう。

 もしかして、この子はどこかのアイドルグループの子か何かだろうか。

 どこかで私と共演した――?

 記憶を手繰るが、思い出すことは出来ない。

 そうしている間に、銀髪の少女は私のすぐそばまで歩み寄り、深々と一礼した。

「わたくし、ある会社でイベントスタッフをしております。脇坂未明と申します」

 自然な仕草で差し出された名刺を、私はなぜか受け取ってしまった。そこにはシンプルに『脇坂未明』とだけ記されている。

 所属も連絡先さえも書いていない。

「さきほどの舞台稽古の折、飲料の手配や出入り口のチェックを担当していた者のひとりです。あの、私、西原加奈子さんの大ファンで、つい」

 はにかむように少女が笑った。

 やはりこの子は、そこらの量産されたアイドルたちよりもよほど美しい。

「そう、ありがとう。それで、ここまでついてきた理由は?」

「さきほどの舞台の練習、西原さんは納得がいっていなかったと感じまして」

「それはどういうことかしら?」

「ラストシーンのお話です。最後に西原さんは男にナイフで腹部を刺されて死ぬ、という筋書きですよね。でも、西原さんは刺されて死んでいくまでの演技に納得されていないのかなと感じて」

 図星であった。

 もしも舞台袖で見ていたとしても、よくそこまで見て取ったものである。

 本当に、この子は私のことをよく見ているファンなのかもしれない。

「……ええ、そうね。あなたがずいぶんよく見ていてくれたみたいだから話すけど。正直言って、満足いっていないわ。ひとが刺されて死ぬときに、あれが本当に正解なのか、何度も迷っているの」

「はい、そう感じました。ですから、こうしてついてきたんです」

 言うと、少女は今までの清らかさが消え去るような不敵な笑みを浮かべた。

 口角が不自然にあがり、いったいこんな表情を作るにはどう訓練しているのかと聞きたくなる顔だ。

「だからついてきたっていうのは、どういう意味?」

 私は人目を避けるために、一本狭い通りに彼女を誘って問いただす。

 暗がりで見ると彼女の不気味さは増していくようであった。

「こんなことは、大好きな西原さんだからこそお話することです。決して、他言無用ですよ」

 そういって焦らした少女が小さな左手をまっすぐに伸ばし、そこに自身の右手の人差し指を突き立てた。

「ひとが本当に刺されて死ぬところ、見てみたくありませんか?」

「それは、どういう意味よ。新しいアトラクションでもあるわけ?」

「違います。本当に、ひとが刺されて死ぬ瞬間です。それを西原さんが最初から最後まで見れば、今回の舞台のフィナーレである死をきっと完璧にしあげることができるのではないですか?」

 ひとが刺されて死ぬところを見る――。

 どうしようもなく不謹慎でまごうことなき犯罪行為の見学であるが、確かに今の私に必要なのはそのリアルさかもしれなかった。

 それさえ知れば、私はその姿を演じ切ることが出来るかもしれないのだ。

「でも、だけど……そんなもの、見れるはずがないでしょう」

 かすかに、自分の声が震えていることに気が付いた。

 噂に聞いたことがある。

 スナッフフィルムと言ったか。

 そういった嗜好の人間のために、実際にひとを殺していく様を録画した映像作品が存在することを、知識でだけは知っていた。

「見れますよ、簡単に。私がすぐにご用意してみせます。大好きな大好きな、西原加奈子さんの演技のためですもの」

「ひとが刺されて死ぬ場面を、見ることが出来る……」

 ゴクリと、生唾を飲み込んだ。今回の舞台の死ぬ演技さえ大成することが出来れば、きっと私は長い間芸能界で演技派女優として生き残れる。

 なにより、演じることを生きがいにしている私の演技の幅が大きく広がるのだ。

「興味があるわ」

 気が付いたときには、私は口に出して言っていた。

 脇坂と名乗った少女は、私の返答に嬉しそうにうなずいた。

「ええ、そうでしょう。そうでしょうとも。あの『西原加奈子』さんが完璧な死に際の演技を手にすれば、もう演劇界に向かうところ敵なしです。私の大好きな西原さんが、芸能界の頂点に君臨する……こんなに嬉しいことはありませんわ」

 嫣然と微笑む少女に気圧されるように、私はもう一度生唾を飲み込んだ。

「それで、その……いつ、それを見せてくれるの?」

「少し準備が要りますので、そうですね。次回の舞台の練習が終わった後はいかがでしょうか。確か明後日、もう一度全体練習があるんですよね。私も、そこにまたスタッフとして出勤いたしますので」

「そう、それじゃあ明後日、また会いましょう」

 ひとが死ぬところを見る。

 自分にとって、大きな岐路であった。私は脇坂に背を向けて、再び家路についた。

 ひとが刺されて死ぬ瞬間とは、いったいどんなものなのだろう。私は次回の舞台練習まで、どんな仕事をこなしていてもそのことが頭の片隅から離れなかった。


 二日後、彼女との約束の日。

 私は今ひとつ身の入らない稽古を終えようとしていた。

 そして舞台練習のラストシーン。

「そんな……私が、こんなところで! こんなところで、死ぬなんて……」

 私のフィナーレの演技が終わると、稽古場は拍手に包まれた。

 私は起き上がり笑顔を浮かべながらも、うすら寒い気持ちでその拍手に応える。

 ――これから、真の死に際演技を手に入れるんだ。こんなうわべだけの賞賛にさらされるのも、いまのうちだけだ。

 監督や演出、共演者たちを見返す気持ちで立ち上がり、簡単な打ち合わせを終えて家路についた。

 そして、自宅のマンションへ向かう道に差し掛かったところで、足を止める。

 ほどなくして、笑みを浮かべた脇坂未明と名乗った少女が現れた。

「お疲れ様です。今日の演技は今までで一番良かったですわ、西原さん。もう、人が死ぬのを見る必要なんかないんじゃないかってくらいでしたよ」

「お世辞は嫌いなの、からかわないで。さあ、行きましょう」

「ええ。では、こちらに」

 脇坂はまるで寂しい道、狭い道を選んで歩いていくかのようにどんどん細い道へ進んでいく。そして、一軒の小さなガレージへとたどり着いた。

 この街にこんな場所があったのか、と思い建物を見つめる私を目で誘うようにして、脇坂がガレージに入っていく。

 夕日はもうほとんどビルのなかに埋もれていて、ガレージの奥を見渡すことは出来ない。

「さあ、ここが西原さんの大きな転機となり得る場所ですよ」

 私がガレージのなかに入ると、脇坂はボタンを押した。ガレージの入り口に、鉄製の大きな扉が天井から降りてくる。

 確かに、これほど分厚い鉄の壁があれば叫び声がこだましても外には漏れないだろう。

 スナッフフィルムの映像に、ずいぶんと大仰な準備をしたものである。

 だが、脇坂がガレージの奥から運んできたものを見て、私の息が止まりかけた。

 手足を縛られ猿ぐつわをされた、私と同じ年頃の女性である。

「な、なによ、これ……」

「わかりませんか? これからこの女を刺し殺すんですよ。そうすれば、西原さんは女が死んでいくところを存分に見れるでしょう?」

「そんな! そんなことしていいわけがないじゃない! 私はてっきり、ひとを殺す映画か何を見せられるものだと思って……」

「そんなものじゃ、本当のリアルは伝わりませんわ。私は大好きな西原さんに『本物』を感じて欲しい。本当の死を見て欲しいのです」

「何を言ってるの!?」

 そう語った脇坂の手には、いつの間にか芝居で使っていたものにそっくりのナイフが握られていた。

 縛られ、猿ぐつわをされた女性はすでに涙をこぼしていた。

 このひとを、今からここで殺す?

 脇坂という少女は、顔色ひとつ変えずになんてことをいうのだろう。

「そんなこと出来るわけないでしょう! バカなことを言わないで!」

「この女性はいろいろワケ有りでして。だから、存在が消えても問題ないんですよ。なぁんにも心配ないんです。殺されても罪に問われることも、ましてやなんらかの事件になることもない。西原さんには信じられないでしょうが、世の中にはそういうひとが何人もいるんですよ」

 暴力団や風俗、もっと言葉に出来ないような粗暴な仕事。

 そのなかで人が消えていくという噂は聞いたことがある。だけど、これとはそれとは別問題だ。そもそも、こんな少女にそんなツテがあるとも思えない。

 それなのに――。

 純粋にひとの死を目の前で見たいと思う、ひとりの役者としての自分がいた。

 私があと一歩、どうしても立ち入れない演技の領域。

 それは、死。

 今なら、その領域に立つことが出来るのだ。そして一部始終を見ることが出来る。

 見たい。どうしても見たい。

 役者の私がそう言っていた。叫んでいた。

 私は口元に両手を当てて、それでもついに……小さく頷いてしまった。

「やはり。あなたは演技に何ひとつ妥協しないひとだ。だからこそ、私はあなたのファンになったんです。最高です、そのお返事。ああ……あなたのファンで良かった」

 くふっ、くふっ、と空気が漏れるような笑いをこぼし、少女がガレージを小さくステップする。そして、ナイフの切っ先をゆっくりと縛られて動けない女性に向けた。

「それでは早速やってまいりましょう。……ああ、よければ、西原さんがお刺しになられますか?」

 くるりと手元でナイフを回し、脇坂がナイフの持ち手を私に差し出す。

 私は何度も首を左右に振って拒絶の意を示した。私がしたいのは人殺しではない。

 人が刺されて死ぬ様を見届けることである。

「それでは、私が」

 猿ぐつわをされた女性は泣き叫び、声にならない声を漏らしながら必死に首を左右に振っている。そんな仕草を無視するように、脇坂が女性の衣服を縦に裂き、その腹部を露わにした。

 手足を拘束された女性は抵抗することが出来ない。

 その腹部の中心に、ゆっくりとナイフの刃先が当てられた。

「西原さんの舞台では、男が勢いよくナイフを刺しますよね。ですから、私も一息にこの女の腹を刺し貫きます。一瞬も、見逃さないでくださいね」

 耳に絡みつくような声で言った脇坂が、なんの躊躇もなく手にしたナイフを一気に女の腹に突き立てた。

 そして素早く女の猿ぐつわを外し、手足を拘束していた縄をナイフで切っていく。

 拘束を解かれた女性は束の間立ち上がり、すぐにその場に崩れ落ちた。

「ぐぎゃ! ぐぅあああ! ……えぐ、助け、あっ、ひっ、いたっ、ああああ! あっ! うう、ぎゅうあ、あぎ! あ、あ、ううああ……」

 女性は声にならない声を発し続け、腹部を抑え地面にのたうち回る。

 うつむいて倒れていた女性を、脇坂が蹴り上げて仰向けにした。そしてとろけたような柔らかな笑みを私に向ける。

「こうしたほうが、苦しむ女性の表情まではっきり見えますよね、くふっ」

 大変なことが起きているという、人間的な私の内面は焦り恐怖していた。

 しかし、今目の前で最も求めていたものが展開されているという女優の顔の私がその葛藤に勝り、瞬きひとつすることなく苦しむ女性を見下ろし続けた。

「あっ! あっ! あああっ! ぜっ、ぜぇ、うぷっ! ごぼ! ごぼ! あぇ……。うううああ、え、あ……あ、あ、あ……か、さ……」

 一瞬天井に伸ばされた女性の手が、ぼとりと地面に落ちる。

 声すらほとんど発しなくなった女性が、ガレージの冷たいコンクリートのうえでビクビクと痙攣を繰り返いていた。

「これが、ひとが死んでいく様……」

 呆然と立ち尽くしたまま、私はなおも痙攣を続ける女性に目が釘付けになった。

 やがて、数度大きな痙攣を繰り返したのち、女はまったく動かなくなった。

 死を、目の当たりにした。

 その事実が、私のなかに大きな塊として沈み込んでいく。

「さて……それでは、後片付けは私がやっておきますので、西原さんは裏口よりお帰り下さいませ。こちらですわ」

「え、ええ……お願いね」

 なかば呆けたまま、私は脇坂に導かれて裏口からガレージをあとにした。

 ふらつく足取りでマンションへ帰る。

 ついに、私は目撃したのだ。ひとの死のなんたるかを。

 それは抱えきれない衝撃とともに、役者としての、今回の舞台の最後を任された人間としての喜びでもあった。

 ――これで、完璧な演技が出来る。

 シャワーを延々と頭から浴びながら、私はかすかに微笑んでいる自分に気付いた。


 それから日々、私の死の演技の練習が繰り返された。

 舞台でどれほどチヤホヤされても、マンションに作ってある練習スペースでひとり何度練習を重ねても、あの境地へは達せない。

 本当の死。

 命が身体から少しずつ抜け出し、やがて冷たい遺体となるまでの過程。

 何度となく、苦しみもがき地面にのたうち、生を吐き出すような練習を繰り返す。

 それでも、届かない。

 あの圧倒的な死の迫力の前では、私の死の演技は児戯に等しかった。

「どうすればいいの? 経験していないから出来ない? そんな甘えはダメ、私は女優なのだから。もっともっと、死へ近づかなくては」

 食事の量が減り、徐々に痩せていった。

 目つきも、前よりもずっと鋭くなった。舞台監督に言われて気付いたことである。

「西原さん、最近ちょっと詰め込み過ぎじゃない? それにやせ過ぎちゃうと、役柄からも遠くなっちゃうからさ、適度に! 適度に行きましょ!」

「そーっすよ西原さん。もう演技は完璧なんですから。あとは公演を待つだけです。皆で一丸になって、がんばりましょ」

「あたし、西原さんと共演出来て本当に光栄です、毎日が新しい発見ばっかりで! これがほんとの女優なんだって、稽古のたびに実感します。一緒の舞台に立てることが、本当に嬉しいです!」

 彼らの励ましや賞賛の言葉は、私には重荷にしかならない。

 自分が完全に出来ていないことは、自分自身が誰よりも知ってしまっているのだから。

 あるいは、あの女の死を見ることがなければここまで苦しむことはなかったのだろうか。

 しかし、私は自分の演技を高めていきたい。

 そのためには、あれは大きな前進だったのだ。

 私は、あの普段生きていく中では決して見ることの出来ない壮絶な光景を、糧にしなくてはいけない。

 夕暮れ、舞台稽古の帰り道、あの少女に声をかけられた。脇坂未明である。

「西原さん、お久しぶりです」

「あなたは……まだ、舞台練習のスタッフをしていたの?」

「はい。黒子役のようなものですから、西原さんはお気づきになってないと思いますが、ここ数日の稽古も拝見させていただいておりました」

「そう……」

 私は顔を伏せた。

 脇坂は人殺しである。しかし、あの死体をどうしたのかはあまり気にならなかった。

 もちろんそれはとんでもなく大きな事件だが、私にとって重要なのは演技のほうである。

 そして、私と同じく死を目の当たりにした彼女が私の演技を見ていたということに、恥ずべきような思いを感じた。

 あの領域には、まるで届いていない。

 それは脇坂も、よくわかっているはずだったから――。

「こんなことを素人の私が言ったら生意気で、本当に申し訳ないんですけど……。西原さんの死の演技、前よりずっとずっと良くなりましたね」

 微笑みを浮かべて、どこかとりなすように脇坂が言った。

 私は小さくかぶりを振った。

「あなたがその……実演を見せてくれたし、それを私は私なりに日々研究しているから。でも、あなたにはハッキリ言って欲しいの。私の演技は、あの死の域にまで達することは出来ていないでしょう?」

「それは……はい。残念ですが、西原さんの演技はまだ本当の死には至っていない、と言えると思います」

「やっぱり、これが私の限界なのかしら」

 うつむいて言葉をこぼした私に、脇坂がねばつくような声で言った。

「いいじゃないですか。所詮は『演技』なのですから」

「なっ……!?」

 思わず顔をあげると、脇坂が口角をつりあげて笑っていた。

「西原さんは、演劇の世界においてはトップレベルの死に際演技が出来る。それでいいじゃないですか。演技は演技。どこまでも本物にこだわる必要はありません」

「……言いたいことはわかる。けどね、私は本物に少しでも近づきたいの!」

「もう、十分に近づいています。演劇界において、死んでみせろと舞台の上で演らせたら、あなたほど出来る人がいかほどにいるでしょうか? もう、西原さんは上り詰めているんです。これ以上、いいじゃないですか」

 くふっ、と脇坂が声を漏らして笑う。

 まるでここがお前の限界だと言われているようで、私は頭がカッとなった。

 しかし、すぐにその熱も下がっていく。

 脇坂の言葉は腹立たしい。だが、的確に事実を述べている。それがわかるのだ。

「どうすれば、いいと思う?」

「私は西原さんを見てきました。ドラマなどでご活躍していたときからずうっと。もう、あのころより何段もレベルアップなさっておりますわ。それでいいと、認められないのですか?」

「認められない。私は、完璧な死を体現したい」

 ああっ、と声を漏らし、脇坂が自分のほほに右手をあてた。

「それです。ストイックすぎるほどのその姿勢こそ、私があなたを大好きな理由。私は嬉しい、あなたがあなたで有り続けてくれることが。ここまで上り詰めても一切の慢心なく自分を追い込んでいく姿勢が、本当に嬉しい! ……たとえ、実際には実現できない演技であっても、ね」

 くふっ、くふふふふふっ。声を漏らして笑う脇坂。

 私はどこか恥じ入る気持ちになった。彼女は私を認めてくれている。そのうえで、死の演技は足りないとはっきり言ってくれているのだ。

 ここがあなたの限界ですよと、突きつけられているようなものである。

 芸能界で演技派女優として生き残る。

 そのための舞台、そのための練習であった。だけど、今は違うと気が付いた。

 私のなかであの舞台の最後のシーンは、自分の限界との戦いになっていたのである。

 私は今、自分で自分の演劇を肯定できるか、その瀬戸際に立たされているのだ。

「私をずっと見てきたのなら、あなたは私がどうすればいいと思う?」

 含み笑いをしていた少女に、私は半ばすがるような気持ちで問いかけた。

 笑みを浮かべたままの少女が、そっと何かを差し出した。

「もう、私に出来るのはこれくらいです。西原さん、それほどにあなたは上り詰めたのです。自信をもってください」

 そう言って脇坂から渡されたものを見て、私は息を飲んだ。

 しかし、これこそが最適解なのかもしれないとどこかで冷静に思う自分もいた。

 そう、これが私のなかに欠けていた最後のピース。私は渡されたものをカバンのなかに仕舞いこんで、代わりにチケットを一枚取り出した。

「初日、S席のチケットよ。良かったら、私の最高の演技を見に来てくれる?」

「いいんですか? ありがとうございます。よろこんで」

「じゃあ、行くわ。色々ありがとう」

「西原さん」

 脇坂を足早に通り過ぎ、帰路につきかけた私を少女の声が呼び止めた。

 静かな声にはどのような感情が込められているのか、読み取ることが出来なかった。

「もう一度、断言します。あなたは最高の女優です」

「……そうあれるように、出来ることはすべてする。それだけよ」

 マンションに戻る。

 シャワーを浴び、ゆっくりとワインを飲んだ。

 その日私は、練習スペースには足を向けなかった。


 舞台初日、会場は満員御礼だった。

 舞台袖からそっと覗いてみると、銀髪の少女――脇坂の姿も見えた。

 やがて開演時間が訪れ、舞台の幕があがる。

 演劇はなんの問題もなく進んでいった。

 そしてラストシーン。

 相手役の役者が、ナイフを握りしめ私を突き刺した。

 その瞬間、私の全身に衝撃が走った。

 -――これでいい。

 あの日、あの夕暮れの寂しい道で脇坂が私に渡したのは、今回の舞台に使うフェイクのナイフにそっくりな本物のナイフ。

 私はそれを、本番寸前にすり替えていた。

 腹部に深々と、金属の冷たい感覚が入り込んでくる。

 引き抜かれたあと、血があふれ出しどうしようもない熱に包まれた。

 ああ、これが刺されるというものだ。

 これが、死というものだ。

 視界が少しずつ暗くなる。数歩よろけたのち、私はセリフを口にした。

「そん、な……げぼっ! 私が、こんな、ところで、あっ、死、ぬ……なんて……」

 必死の思いで声を振り絞り、地面に倒れこんだ。

 徐々に冷たくなっていく身体。

 暗くなっていく視界の向こうでS席、最前列にいた銀髪の少女の表情がかすかに見えた。

 ――少女は、笑っている。

 すべてはあのとき、最初に夕暮れの道で彼女と出会ってしまったときにきまっていたのかもしれない。

 あの日、あの子に出会わなければ……。

 私は無難に女優の道を生きていっただろう。

 まるで何かに操られていたような、憑りつかれていたような自分を見失っていた日々。

 ほんの一本、小さな道を間違えてしまった。

 そして、それはもう決して戻ることの出来ない道だったのだという、絶望感。

 遠のいていく思考のなかで、私は私に問う。これで本当に良かったのかと。

 暗くなっていく視界の向こう側で、ゆっくりと幕が下り始める。

 銀髪の少女が笑顔のまま私を見つめ、いつまでも拍手を送り続けていた。

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