第13話 心の補聴器

(どうしてあたしは上手に旦那様をお迎え出来ないんだろう。これじゃあメイド失格だ)

 夜、メイド喫茶のアルバイトの帰り道、あたしはひとりへこんでいた。

 今日も上手にご主人様たちをお迎えすることが出来なかった。

 ご主人様たちのちょっとした表情の変化で、それは察することが出来る。

 だけど――。

(どうしたらご主人様たちが喜んでくれるか、どうしてもわからないんだよなぁ)

 あたしのどうすれば喜んでもらえるか、という察する能力は皆無で、一生懸命続けたいバイトなのにお先はまっくら。

 これが絶望感ってやつかなと思うと、ため息ばかりこぼれてしまう。

 トボトボと、街灯に照らされた寂しい路地を歩く。

 はぁ……。

(あたしって、ホントだめだめ!)

「ホントだめだめだなんて、思わないでください。あなたはちゃあんと出来る可能性を秘めているんですから」

 突然、路地のわきからあたしの気持ちを見透かされたような言葉をかけられた。

 とっさに声の方向を確かめる。そこにはぼんやりとした街灯に照らし出されたひとりの女の子がいた。

 ボブカットの銀髪が、明かりを受けてふわりと揺れる。

 大きな目ときゅっと小さな唇がとっても愛らしい。

 黒を基調にしたロリータファッションに身を包み、耳につけた小さな銀色の石のついたイヤリングが良く似合っていた。

(びっくりした……。けど、なんて可愛い子なんだろう)

「あらやだ、可愛い子だなんて照れてしまいますわ」

 まただ。

 さっきと同じように、女の子はあたしの気持ちを読み取ったような言葉を発すると、にこりと微笑んで見せた。

 暗い路地から出てきた少女が、私と向かい合う。

 すっと、白い腕から小さな紙を差し出してきた。名刺のようだ。

「ど、どうも」

(とつぜん名刺を渡してくるってなんだろう。怪しい勧誘とかかなぁ……)

 差し出された名刺をいやいや受け取って、あたしはちょっと逃げ腰になった。

 もう一度、少女が微笑んだ。

「とつぜん名刺をお渡ししちゃって申し訳ございません。でも、決して怪しい勧誘なんかじゃあいんですよ。私は脇坂未明と申します。よろしくお願いいたします」

 三回目。彼女はあたしの思考を読んだかのような言葉を発した。

 あたしはうろたえながらも、しどろもどろに名前を名乗る。

「ああ、えっと、脇坂さんですか。あたしは若狭詠美と申します」

 小さく会釈すると、あたしは疑問に思ったことをそのまま口にした。

「あの、さっきから、なんだかあたしの考えてることバレバレで……そんなにあたしって顔に出やすいですか?」

「いえいえ違います、そんなことはないですよ。私がちょっとズルをしているだけです。勝手に気持ちを察してしまい、大変失礼いたしました」

「ズル……って言いますと?」

「このイヤリングです」

 脇坂が美しい銀髪をかきあげ、耳につけたイヤリングを指さした。

「このイヤリングがあれば、ひとが考えていることをなんでも自由に聞き取ることが出来るんですよ」

「そんな……。からかわないでください! アニメやマンガじゃないんだから、ありえません。脇坂さんが心理学とかそういうのに詳しくて、きっとあたしの表情からなにか読み取ったりしただけですよね?」

「私からすれば、心理学を学べば表情からなんでも読み取れちゃう方がマンガですよ。それなら、皆心理学を勉強します。そうでしょう?」

「それは確かに、そうかもしれませんけど……とってもカンが良いとか」

 くふっ、と笑い声を漏らした脇坂さんが、おどけたように両手を広げた。

「信じられないのも仕方のないことですね。では、どうでしょう? 今から詠美さんは、いろんなことを考えてみてください。私はそれを言葉にして現わして見せましょう。そうしたら、私の話もちょっとは信じられるんじゃないですか」

「は、はぁ……それじゃあ」

 妙に押しが強い脇坂さんの提案に負けて、あたしは脇坂さんの前で考え事をしてみることにした。

(変なひとに絡まれちゃったなぁ、どうしよう?)

 脇坂さんがあたしの思考を言葉にする。

「変なひとに絡まれちゃったなぁ、どうしよう?」

(えっ、内容だけじゃなくて、言葉遣いまでそのまんま!? うそ!?)

「えっ、内容だけじゃなくて、言葉遣いまでそのまんま!? うそ!?」

(あたしの性格が読まれちゃってるのかも……何かちがうことを、えっと……。今日の夕飯はなんだろう。お母さんが出かけてるから、お姉ちゃんが作るんだよね? 上手に出来るのかな)

「あたしの性格が読まれちゃってるのかも……何かちがうことを、えっと……。今日の夕飯はなんだろう。お母さんが出かけてるから、お姉ちゃんが作るんだよね? 上手に出来るのかな」

(えええええっ!? こんなことまでぇ! あ、あいうえお! かきくけこ!)

「えええええっ!? こんなことまでぇ! あ、あいうえお! かきくけこ!」

 あたしの考えは何もかも脇坂さんに言葉に変えられ、あたしはとうとう音を上げた。

「ま、参りました脇坂さん! だからもうあたしの考えていることをそのまま言葉にしないで、なんだかとっても怖いです!」

 脇坂さんはおかしそうにクスクス笑うと、もう一度イヤリングを指でさす。

「ねっ、どうです? 本当でしょう。どんなに優れた学者や心理学の先生でも、ここまで出来るとは思えませんわ」

「は、はい。確かに……すごいです。あの、でも、脇坂さんはあたしにいったいどんな御用なのでしょうか?」

 そうなのだ。このひとは突然現れ、あたしの心のなかを読んで見せ笑った。それだけなのだ。騙すつもりもなさそうだし、からかう気もないみたいだし、このひとはいったい何をしに来たのか。

「あらあら私としたことが、申し訳ございません。まずはこのイヤリングの効果を信じて頂こうと思って、そのお話ばっかりになっちゃいましたね」

「そのイヤリングがすごいことはわかりましたけど……」

「もし、詠美さんがよろしければですね。このイヤリングをあなたに差し上げようかと思って声をかけさせていただいたんですよ」

「えっ、そんなすごいものを、あたしに!?」

 でも、いったいあのイヤリングはいくらするのだろう。

 まるで物語に出てくる魔法の道具のようなものだ、きっとものすごく高いに違いない。

「私は売るとはいっておりません、これを『差し上げる』と言っているんです」

「差し上げるって、ただでくれるってことですか!?」

「ええ、詠美さんがおいやでなければ、ですが」

「それは、その……頂けたら、すごく嬉しいです。でもなんでこんなすごいものを、見ず知らずのあたしにくれるのですか?」

「それはですね」

 くふっ、と笑うと脇坂さんが自身のスカートを摘まみ上げ、ひらりと一礼してみせた。

「あなたがとっても献身的で、素敵なメイドさんだったからです。私、こういう格好でも伝わるかと思うんですが、メイドさんが大好きで。あなたみたいな素敵なメイドさんに使って頂きたかったのですわ」

 なんであたしがメイド喫茶でバイトしていると……と言いかけて口をつぐんだ。

 あのイヤリングは考えていることを聞き取れるのならば、あたしが何をしているかなんて簡単にわかってしまうだろう。

 それにしたって、こんな便利なイヤリングをくれるなんて裏があるんじゃ……。

「もしも私のことが信用できなければ、使わなくても結構ですので。これはどうぞもらってください」

 そういうと、脇坂さんは半ば強引に自分の耳から外したイヤリングをあたしに手渡した。

 それは、今までひとがつけていたと思えないほどにひんやりと冷たい。

 イヤリングを受け取ったあたしが、さっそく耳にリングをはめようとすると、脇坂さんが手を左右に振って止めた。

「ああ、ちょっとお待ちを。イヤリングを付けるのは、お仕事のときだけにしてはいかがでしょうか」

「仕事のときだけ? どうしてですか?」

「イヤリングを付けている間は、意識しなくても勝手にひとの心の声が聞こえて来てしまいます。例えば渋谷のスクランブル交差点になんていったら、聞くつもりのない心の声にあふれていて、きっと頭がおかしくなってしまうことでしょう。使う場所は選んだ方がいいと思うのです」

「イヤリングをつけると、心の声が勝手に聞こえてしまうのですね」

「はい。意識しないでも聞こえてくる、普通の声と同じです。声が重なるように聞こえてきますが、すぐに慣れますよ」

「わかりました」

 あたしが頷くと、脇坂さんはにこりと微笑んで「それでは」と言って最初に出てきた細い路地の奥へと消えていく。あたしはその背中に「ありがとうございました!」と声をかける。

 一度振り返った脇坂さんが一礼し、再び去っていく。

 私は手元に残された不思議なイヤリングをじっと見つめ、ツバを飲み込んだ。


 次の出勤から、あたしはさっそくイヤリングをつけてみることにした。

 すると、スタッフの心の声もご主人様の心の声もはっきりと聞き取れた。

『この子、今日もドン臭いわね』

『あー、あの子とチェキとりたいな、っていうかほんとのご主人様になりてぇ』

『なんで今日はしおちゃん休みなんだよ、ほんと来た意味ねーわ』

 心の声と本当の声の聴き分けに苦労したけれど、次第にわかってきたこともある。

 まず、いきなり乱暴な言葉が聞こえてきたらそれはほとんど心の声。

 それに、話す相手の口元を見て明らかに動きと合っていないのも、心の声。

 背中を向けていても、なんの隔たりもなくまっすぐ聞こえてくるのも心の声だ。

 あたしは様々な心の声を聴いて、一生懸命働いた。

『ケチャップのハートは可愛いけど、オムライスに対して量が少ないんだよな』

「今日はケチャップで、お星さまも描いちゃいますねー!」

 そんなことを考えるご主人様には、周囲にケチャップでお星さまを書いたり。

『チェキ撮りたいけど、恥ずかしくて言い出せないよ。せっかく来たのになー』

「あの、よかったらチェキいかがですか!?」

 なんてご主人様には、あたしがお相手しているひとはもちろん、そうじゃないメイドさんの担当のときでもさりげなくご提案してさしあげたり。

 不器用で自信のなかったあたしは、ひとの本音を聞くことで初めて、しっかりと胸を張ってご主人様に接客することが出来た。

 もちろん、その振る舞いを『調子に乗ってるな、あいつ』なんて思う同僚もいる。

 けれど、出来るだけそういうスタッフの思いもあとでケアして、あたしはなんとかメイド喫茶で今まで以上のご給仕を行ってきた。

 そのうちに、あたしは自分が働くメイド喫茶『ドリーム喫茶』で一番人気のメイドとなっていた。

 一番人気なんて自分には相応じゃないって思っちゃったこともいっぱいあったけど、これはイヤリングのおかげ、あたしを助けてくれるイヤリングのためにももっと頑張ろうって思うことにした。

 それと同時にお店への行きや帰りの道すがら、あたしは道行く人々がどんなことを考えているのか、想像する練習もした。

 少しでも察しが良くなれば、もっとお店で活躍できる。そう思ったからだ。

 そんな充実したある日の帰り道、あたしはあの路地で黒いゴスロリの服を着た美しい銀髪の少女と再会した。イヤリングをくれた、脇坂さんである。

「お久しぶりですね、詠美さん」

「脇坂さん、お久しぶりです! あの、先日は素晴らしいものをありがとうございました! おかげさまであたし、今自分が働いているメイド喫茶で一番人気のメイドにまでなれて……。全部このイヤリングのおかげです」

 スカートのポケットに仕舞っていたいたイヤリングを取り出すと、脇坂さんは目を細めて嬉しそうに微笑んだ。

「いやぁ、素晴らしい。一番人気のメイドさんになるなんて、ステキなことじゃないですか。でも、イヤリングはあくまであなたを補助する道具。人気を得ることが出来たのは、詠美さんの日々の勤務態度や心がけの賜物でしょう」

「そんなことないです、全部これのおかげで」

「そうでしょうか? 私には、もうあなたにはそのイヤリングは必要ないように思えますが?」

 そう言われて、あたしは思わずイヤリングを持った手を引っ込めてしまった。

「そ、そんな!? これがないと、あたしなんかじゃムリです!」

 脇坂さんはかくりかくりと、まるで振り子のように首を左右に振った。

「もっと自信を持ってくださっていいんですよ。あなたの接客は、もう何も問題はない。実はですね、一度こっそり拝見しにいったんです。あなたの接客は素晴らしかった。完璧でしたよ」

「そうだったんですか!? 声をかけてくださったらいいのに」

「くふっ、私の心の声まで聞こえたら恥ずかしいじゃないですか。だから、遠くから、ね」

 脇坂さんがいたずらに微笑んだ。

 途端に、今までのどこか得体のしれない雰囲気が消え、無邪気な少女の顔に変わる。

「イヤリングがなければ、確かに心の声は聴けません。でもいみじくも最初にお会いした時に詠美さんがいったように、表情や仕草でも思いを感じ取ることが出来ます。もう、あなたはその段階に進んでもいいと思いますよ」

「だ、だけど……」

「もちろん、イヤリングをつけたままでも一向にかまいません。ただもう、必要ないんじゃないかなと、私が勝手に思っただけですから」

「はい。考えてはみますが……やっぱりもうしばらくはつけていようかと」

「そうですか」

「はい……すいません」

「いえいえ、あやまることはありません。私こそ、お節介でしたね」

 脇坂さんににこりと笑った。

 あたしは内心ほっと息を吐いて、イヤリングをポケットのなかに戻した。

(これがなかったら、またあたしは出来ない子に戻ってしまう。外すなんて絶対無理)

 あたしが言葉に困っていると、脇坂さんは「それでは」と言って一礼して路地に消えていった。小さな背中が見えなくなるまで見送り、そっと手を振った。

「イヤリングのない、接客か」

 帰り道、ふと立ち止まってぼんやりとかつての日々を思い出す。

 ご主人様が何を望んでいるかなんてわからず、ただ右往左往していた。

 スタッフの子たちが何を考えているかもわからず、怯えたり距離を測りかねていた。

 やっぱり、このイヤリングはあたしには必要なものなんだ。

 決意を新たに、あたしは前を向いて歩き出した。


 イヤリングが教えてくれる心の声と、それに従って働く順調な日々。

 あたしは一番人気になっても態度や気持ちを変えないように意識しながら「感謝と思いやりを大切に!」って自分に言い聞かせて働いていた。

 順風満帆っていう言葉はこんなときに使うのかな。

 何もかもがとっても快調に進んでいて、問題も支障なくお給仕の日々が経過していた。

 そんなある日の帰り道、あたしはイヤリングを外してお店の外に出たところで道行く人とぶつかってしまう。

「きゃ!」

「すいません!」

 ぶつかった男性もすぐに謝ってくれたけど、頭を下げた彼から声が聞こえたのだ。

『いきなり建物……飛び出してく……』

 雑音の混じったラジオのような感じだったけど、確かにイヤリングをつけて聞こえてくるときの声にそっくりの声だった。

 とっさに耳元を確認したが、間違いなくイヤリングは外している。

 それなのに――。

 あたしは怖くなってすぐにその場を離れた。

 通りに出ると、様々な人たちとすれ違う。

 そのたびに、ラジオのような音があたしの耳の奥に響いた。

『今日……疲れ……だりぃ』

『お、可愛い……あんな子が……ったらなぁ……』

『なにあれ……今どき……でも……』

「やだ!」

 あたしは突然のわけのわからない事態に、耳をふさいだ。

 それでも音は頭のなかに直接響いてくる。様々な、道を歩くすべてのひとたちの声があたしの脳内を通り抜けていく。

「そんな、どうして……!?」

 あたしは慌てて駆け出して、心の声にあふれる電車を避けて、お金はもったいないけどタクシーで家に帰った。

 タクシーでも運転手さんの心の声が『まだ早いのに……子供がタクシー……生意気……』なんていろいろ聞こえてきたけど、数えられないほどの大人数の声に圧し潰されるよりはずっとマシだ。

 家に帰ると、お母さんたちと出来るだけ顔を合わせないようにして、急いで部屋に戻りメイクを落としてベッドに入る。

(今日のは何かちょっとおかしかっただけ。悪い夢! 明日起きればいつものあたしに、いつもの心の声なんて聞こえないあたしに戻ってる。だいじょうぶ!)

 目を閉じ、何度も心のなかでそう念じ続けて、あたしはようやく浅い眠りに落ちた。


 翌朝、支度をして部屋の外に出るとちょうど洗濯物を抱えたお母さんと鉢合わせした。

「お母さん、おはよう」

「おはよう詠美。昨日はどうしたの?」

「うん、ちょっと体調悪くて。でもだいじょうぶ! 仕事行ってくるね」

「でも詠美、ご飯は?」

 よかった。普通に会話が出来る。

 心の声が聞こえてきたのは、きっと気のせいだったんだ。

 あたしが何か聞こえるつもりになって、勘違いしちゃっていたに違いない。

 ある意味、職業病というやつかもしれない。

 あたしが胸をなでおろしたとき、あたしの頭のなかにお母さんの声が響き渡った。

『まったく。この子も一生懸命なのはいいけど、いつまであんな水商売まがいのお店につとめているのかしら?』

「えっ、お母さん、今何か言った?」

「うん? 何も言っていないわよ。お仕事いってらっしゃい」

『なんだか疲れた顔をしているけど、止めるべきかしらね。でも仕事は仕事よね。こんな朝から行くんだし、変なお店じゃないって信じなきゃ』

 ――聞こえる。聞こえてしまう。

 お母さんの口から出る声と一緒に、頭のなかにお母さんの心の声が響く。

 イヤリングは外しているのに、どうして聞こえてしまうの――?

 あたしは早足に家を出るとまっすぐ職場には向かわず、脇坂さんに出会った路地に急いだ。脇坂さんは、まるで待っていたかのようにそこに佇んでいた。

「やあ、詠美さん。お久しぶりです。最近はいかがですか?」

「あの! 大変なんです脇坂さん! あたし、イヤリングは外しているのにほかのひとの頭の声が聞こえるようになっちゃって!」

「おやおや、そんなことが。ははぁ、よほど声を聴くのがお上手だったんですねぇ。それに、詠美さんは心の声に耳を傾けることに一生懸命でしたもんね」

「お上手だったって……上手でも、イヤリングを外したら聞こえるはずないじゃないですか、どうして!?」

「まぁまぁ、落ち着いてくださいよ」

 脇坂さんは口の端を引いてにぃっと不気味に笑う。

「自転車の話をしましょうか」

「えっ、どうして急に自転車のお話を?」

「とりあえず、聞いてくださいな。自転車は最初、上手に乗れないから補助輪をつけていますよね。詠美さんにも覚えがありませんか?」

「あ、はい。あたしもちっちゃなころは、補助輪をつけていました」

 急に変な方向に曲がった話にチンプンカンプンになりながら、頷いた。

「でもある日、皆、補助輪を外します。大人で補助輪をつけて走っているひとなんてまったくいないとは言いませんが、ほとんどいませんよね」

「はい」

「それは、補助輪がなくても自転車で普通に走れるようになったから。そう練習したから。そうですね?」

「はぁ、そうだと思います。あたしも、練習しました」

 あたしの答えにうんうんと頷いた脇坂さんが右手の人差し指をすっとさしあげた。

「それと、おんなじなんですよ」

「おなじ?」

「あなたはイヤリングという補助輪をつけて、ひとの心の声の聴き方を知った。そして日々訓練していった。私は一度言いましたよね、もう必要ないんじゃないかって」

「はい、言われました」

 いやな予感がして、背中につめたい滴が流れ落ちる。

「あなたはずっと補助輪をつけて走り続けた。そして店の外では補助輪を外した状態で走る訓練まで続けてしまった。そしてその結果――」

 脇坂さんの白くて細い小さな腕が、そっとあたしの耳のそばに伸ばされた。

「詠美さんは補助輪無しで自転車を走れるようになった。つまり言い換えれば、あのイヤリングがなくても詠美さんはひとの心の声が聞こえるようになったんですよ。いやぁ、実にすごいことです」

「そんな! それじゃまるで超能力じゃないですか、そんなのあり得ません!」

「あり得るかあり得ないかは、詠美さんが一番よく知っているんじゃないですか?」

「それは、でもあれはきっと錯覚で! 現に今、あたしに脇坂さんの声は聞こえないし」

 そういうと、脇坂さんの笑みが深くなった。

 自分の胸元に当てた手を、まるでジッパーを引くように動かした。

「それは私が特別に心の声を抑えているからです。こんなことは、私にしかできません。つまり、あなたはこれから一生、ひとの心の声を聴き続けて生きていくんですよ」

「お、脅かさないでください! それに心の声を抑えるなんて、ぜんぶ無茶苦茶です」

「おや、信じられませんか? それでは……」

 脇坂さんがふぅっと息を吐いた瞬間、脇坂さんのほうから言葉に出来ない異音があたしの頭のなかに飛び込んできた。

『縺ゑス代縺?抵ス? ■繧?§縺難鯉スウェr撰シ幢シア』

「ひぃっ!?」

 とっさに耳をふさぐが、頭のなかに響く不気味な音はやまない。

『夲ス假? シ假ハ呻ス腎タ厄ゑ趣ス撰シ?? 幢ジ鯉オ』

 頭が割れそうな轟音に、あたしは倒れこみ自分の側頭部を抱え込んだ。

 脇坂さんが再び胸のジッパーを閉めるようなしぐさをすると、異音はピタリと止んだ。

「これで信じて頂けましたでしょうか、詠美さん。私の心の声はちょっと変わっているんですよ。まぁ、それはともかく――」

 脇坂さんが手を差し出し、あたしを立たせてくれた。

 あたしはあまりの恐ろしさに抵抗する気にすらなれず、おとなしく脇坂さんに手を引かれるまま立ち上がる。

「これからは一生、あなたはひとの心の声を聴き続けるのです。どんなにたくさんのひとが集まる場所でも、いやなひとばかりいるような場所でも。一見、親切そうに見える友達やお客様の隠した声も――」

「お願いです、イヤリングはお返ししますからあたしの耳を元に戻してください!」

「一度自転車での走り方を身体が覚えてしまったら、そうそう忘れることは出来ません。ああ、そのイヤリングは差し上げますよ。シンプルだけど、とっても可愛いでしょう、ご自由にお使いくださいね」

 脇坂さんが背を向け、路地に続く道を曲がった。

「待って!」

 すぐに後を追ったけれど、そこにはすでに脇坂さんの姿はなかった。

 なぜいないの――ほんのちょっと前にここを曲がったはずなのに。いったいどこへ消えてしまったの?

 脇坂さんが消えた路地裏で、彼女を必死に探す。

 その間も、路地に面した家々から様々な心の声があたしの頭に響いてきた。

『今日のお昼は何にしよう』

『あのひとと結ばれるには奥さんを殺すしかない』

『あーあ。ヒマだな。ゲームも飽きたし』

 昨日よりもはっきりと、明確に聞こえる心の声。

 残りの一生、あたしはずっと誰彼構うことすら出来ずに、すべてのひとの声を聴き続けるの――?

 そんなの、どうにかなってしまいそう。

 あたしは眩暈をおぼえ、膝から地面に崩れ落ちた。

「あの、だいじょうぶですか?」

 長い時間そのままの姿勢でいたあたしに、スーツを着た男性が声をかけてきた。

「だいじょうぶですか? 何かおつらそうですが?」

『可愛い子だな。親切にしといて、良い目が見れるといいけど。上手くいけよ、ほら、俺の手を握れ。連絡先はゲットしとかないとな』

「あ、あ……」

「どうしたんですか? ほら、手を取って」

『何をビビってんだよこの女。まさか男が怖いってやつ? めんどくせぇなぁ、うまくやらねーと。でもほっておくにはもったいない可愛い女だし……』

 あたしは慌てて立ち上がり、男性から逃げるように走り出した。

 路地を抜ける。目の前には大通りとそれを渡るための交差点があった。

 巨大な交差点の歩道では、数え切れないほどのひとが信号待ちをしている。

(あのひとたちすべての声が、あたしの頭のなかに――?)

 倒れそうになる。しかし、後ろからさっきの男性が追いかけて来ていた。

 どうしようもない絶望感に包まれながら、あたしは音の奔流に流されていった。

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