第12話 パパの似顔絵(後編)

 待ちに待った休日は、幸せな目覚めとともにやってきた。

「パパ! おっはよー! 朝だよ、起ーきてー!」

「ん、ああ……芽依、おはよう」

 仕事の疲れから遅くまで眠っていた私に、三歳の娘である芽依が飛び乗ってきたのだ。

 可愛い娘に叩き起こされるのも、悪くない。何より、乗っかってきた芽依の身体が思いのほか大きくて驚いた。

 子供は日々、成長しているのだ。そしてその成長が、父親たる自分の喜びでもある。

「よし芽依、おいで」

「わーい、パパの抱っこー! ねぇねぇ、今日は一緒に公園に遊びに行こう?」

「公園か、いいな。よし! ごはんを食べたら、一緒に行こう」

 壁にかけてある時計は九時を指していた。ずいぶんと眠っていたようだ。

 妻は私が日々つらい目にあっていることも、疲れていることも知っている。ゆっくりと眠らせてくれたのだろう。

「おおー、今朝は豪勢だなぁ」

 芽依を抱っこして訪れたリビングには、美味しそうな朝ごはんのおかずが並んでいた。

 満たされた気持ちでテーブルについたとき、私のスマートフォンの着信音が鳴った。今、この状況では決して聞きたくない、仕事の関係者からの着信を報せるメロディーであった。

「ウソだろう……。勘弁してくれよ」

 芽依をテーブルの椅子に座らせて、スマートフォンを置いたままの寝室に戻る。

 スマートフォンの着信画面には『幸田』の文字が記されていた。

 胸が痛くなる。スマートフォンに伸ばす手が、どうしようもなく重たく感じられた。そんな私を急かすように、着信メロディーは鳴り続ける。

 やっとの思いで電話を取ると、通話口の向こうからジャラジャラとけたたましい音が聞こえた。

「はい、高山です」

『あーもしもし、高山?』

「どうも、おはようございます店長。なんでしょうか?」

『あのさー、俺ね、今日開店前に朝イチでちょっとパチンコ行っててさぁ、ほんとは店の開店時間までには終わる予定だったんだけどさ、もう勝っちゃって勝っちゃってヤバイのよ。バカ勝ち。サイコーっしょ? んで、お前俺の代わりにちょっと店出といてくんない?』

 そんなふざけた理由で誰が休日を返上して仕事に行くものか。

 口の先から出てしまいそうな言葉を抑え込み、オブラートに包んで伝える。

「ですが店長、今日は本当に久しぶりに、丸一日の休日でして」

『へーき、へーき。午前中には戻るからさぁ。半休になったと思ってちょっと頼むよ、な』

「いえ、今日はこれから娘と公園にいく約束がありまして……」

『いやいやいやいや、高山ちゃん、子供と公園行くのと仕事、どっちが大事なわけ?』

 子供との予定だと、声を大にして言いたかった。

 それが言えない自分が、どうしても歯がゆい。胃の奥がキリキリと痛み出す。

「それでしたら、店長だってその、パチンコを」

『パチンコはね、勝っちゃったら待ってくれないの。わかる? 娘さんもう三歳だっけ? 仕事って言えばわかってくれると思うなー。それなのに高山ちゃんは仕事より娘さんとの公園を優先させちゃうのかなー。高山ちゃんにとって仕事ってそんな軽いもの?』

「仕事は大切です、ですが今日は……」

『あー、あーあーあー! ハッキリしねぇ男だな、いつまでもグズグズ口答えすんじゃねぇ! いいからてめぇはさっさと支度して店行ってこい! 自分の立場わかってんのか!?』

 幸田の恫喝する声に、私はすがるように言った。

「店長、お願いです! どうか今日だけは」

『おっ、きたきたリーチ! オラ、こっちは忙しいんだ、もう切るぞ! いいな、俺が職場に戻ったときお前がいなかったら、社内ワークのお前の評価は最低ランクにしておくからな。そうなりゃ副店長でもいられなくなるぞ。よく考えろ』

「今日は、娘と……切れた」

 私は呆然と待ち受け画像に戻ったスマートフォンを見つめた。

 頭の整理が追い付かない。

 私はこれから、妻の手作りの朝食をとり、最愛の娘と公園へ出かけるはずであった。

 それが今、店長のくだらないパチンコの都合だけで臨時の出勤へと変わろうとしている。

 こんな理不尽があっていいのだろうか。

 胸が鷲掴みにされたように痛い。

 ベッドに腰をおろし「ああ」と声を漏らし頭を抱えた。

「パパー、どうしたのー?」

 私が戻りが遅いのを待ちかねて、芽依が寝室へやってきた。ニッコリと天使のように微笑む娘に、これから私は言わなくてはいけない。

 ごめんね。今日、公園にはいけなくなった――と。

 私はいったい、どれだけ幸田という男に人生を奪われていくのだろう。這うようにしてベッドサイドに置いておいた御守りに手を伸ばし、私は強く握りしめた。

『苦しいとき、そして誰かに苦しめられた時。その気持ちや相手を思い浮かべながらこの御守りを握りしめて』

 少女の言葉を再び頭のなかで反芻する。

 何度も何度も、私は苦しい気持ちを押し付けるように御守りを握りしめた。

 全身が、心地よい熱に浮かされたような錯覚。心にわだかまっていた苦しみと痛みが、まるで御守りに吸い込まれるようにきれいに消えていく。

 あんなに重かった身体が、ウソのように軽くなった。

 愛しい娘のために、頑張ろう。

 胸のなかには、そういった前向きな気持ちが存在するだけである。

「芽依、ごめんな。パパ、今日は急に仕事が入っちゃって、一緒に公園に行けなくなっちゃったんだ」

「えー、やだやだやだー! パパと遊べるの、久しぶりなのにー!」

「そうだよなぁ。お父さんも、芽依と遊びたい。その代わり、今度遊園地に行こう、な?」

 遊園地というと、娘の顔がパッと輝いた。

「遊園地!? ほんとにー? やったー! ママー、パパがねー」

 大喜びで妻に報告に行く娘の小さな背中を見守ってから、私は仕事着に着替え出勤の準備をした。妻に事情を話し、大層同情と心配をされながら見送られる。

 玄関先に、芽依が描いた家族の絵があった。妻の話では最近芽依はお絵描きに凝っているらしい。拙い絵のなかに、私に肩車されている芽依の姿があった。

 私はそれをスマートフォンのカメラに収めると、妻のほほにキスをして職場に向かった。


 結局、幸田が店にやってきたのは午後の三時を回った頃であった。

 パチンコで大勝ちして良い気分もそのままに、仕事もほっぽりだして昼間から居酒屋に行っていたらしい。

 しかし、職場に現れた幸田の顔は大きくはれ上がっていた。話を聞くと、居酒屋で酔っ払いとケンカになり、顔面をしたたかに殴られたのだという。

「じゃあそんなわけで、俺はこれから病院行くんで。高山、あとよろしく」

 幸田は血をにじませたままケガの報告に店によると、酒臭いにおいだけを残してさっさと病院へ向かった。

「今日は病院寄ってそのまま帰るから、高山ちゃん、悪いけど店は任せたわ」

「はい、店長。お大事になさってください」

 そう言い残して病院に向かうくたびれた後ろ姿は、大層惨めなものであった。結局半休と言われていた仕事から帰れなくなったというのに、私の胸には奇妙な高揚があった。

「幸田のことを憎んで御守りに憎しみを込めると、私は気持ちがラクになる。そして気にせいか、いつもその日に限って幸田が痛い目にあっている。単なる偶然か? いやでも、今日で三回目……」

 休憩時間、私は喫煙室でひとり、件の御守りを見つめながら首をかしげる。

 気のせいか、いや確実に少しずつ、御守りは黒く汚れていっていた。強く握りしめているし、手垢のせいと考えられなくもないが、それにしたって部分的にこれほど変色するものだろうか。

 ふと思い立って、私は幸田への憎しみをわざと思い起こした。

 今日だって、休日のはずが出勤になった。それも、本当は半日であがれるはずだったのにこうしてフルタイムでの勤務となっているのだ。当然苛立ちはある。

「ちくしょう、幸田め。バカ店長め。お前のせいで俺は娘との時間を奪われたんだ」

 憎い、苦しい、親子の大切なひとときを奪われた、どうしようもなく悔しい。

 様々な怨念を込めながら、私は右手でライターの火をつけた。そして左手で、御守りの端を火にかざし、微かにあぶる。

「あいつがいなければ、俺はもっともっと家族と過ごせるんだ。職場でだって、なめられないで済む。あいつさえいなければ……」

 焦げ付くようなにおいが漂ってきたのを見計らって、私はライターを消し御守りを握りしめた。

 沸きあがっていた憎しみは、すでにさっぱりと消えている。御守りのおかげかもしれないが、今回はわざわざ思い起こした感情でもあるし、そんなものだろう。

 新入社員の間の抜けたヘルプの声に呼ばれ、私は端っこが少し焦げた御守りをポケットにしまい喫煙室をあとにした。


 次の日、幸田が出勤してくると左手に包帯を巻いていた。

「店長、その左手どうしたんですか?」

「うるせぇな高山。おめぇには関係ねーだろうが!」

「でも、心配で」

「うぜぇな、てめぇ! 見え見えのおべっか使ってんじゃねぇよ。……昨日の夕方、ちょっと火傷しただけだ。ギャーギャー騒ぐな!」

 火傷。

 幸田は確かに今、そう言った。

 ケガをした時間も、私が御守りの端をあぶった時間と一致している。

 これは、この御守りは本当に、私の苦しみを引き受けてくれているだけなのだろうか。

 御守りを握りしめると消える憎しみやつらさ、あの負の感情はどこへ行っているのか。黒く汚れていく、この御守りのなかに収められている?

 それとも、恨んだ相手へ向かって飛んで行って――。

「そんな、まさかな。いや、だけどあまりにも一致しすぎているし……」

 私が首を左右に振って思考を中断すると、向こうから幸田の怒声が飛んできた。

「おいこら高山! ボーっとしてんじゃねぇ! 入荷が来てるぞ、品出ししろ品出しを!」

「は、はい! 今すぐ取り掛かります」

 ポケットのなかの御守りの存在を今までよりも大きく感じながら、私は朝のあわただしい開店準備へと取り掛かっていった。

「おい皆、今日は夜に飲み会だ! 午後出勤の連中にも伝えておけ!」

 朝礼で、幸田が不機嫌そうに言った。「今日、急に飲みやるんですかー?」と幸田お気に入りのアルバイトの女子が言うと、幸田がにやりと笑って答えた。

「ここ最近、どーにも俺はツイてないからな。憂さ晴らしだ」

「じゃあ、閉店したらさっさといつもの店っすか?」

 金髪のいかにも間抜けそうなバイトの言葉に、幸田は頷いた。

「おうそうだ。片付けは高山が飲み会のあとにやるからな。なあ高山?」

「ま、また、ですか?」

「なんだぁ高山。お前ノリ悪いなぁ~」

 幸田が呆れたような声をあげ、アゴを突き出すようにして私をにらみつける。

「で、でも急な飲みなんて」

「『ま、また?』『で、でも』? どもってんじゃねーよ気持ち悪い野郎だな。お前みたいなシケたやつが副店長やってるから、俺のゲンも悪くなるんだよ。てめぇ今日はたっぷり飲ませて酔い潰してやるから覚悟しておけ。おっと、商品に吐くんじゃねーぞ」

 幸田がおどけていうと、周囲が失笑に包まれた。

 私は恥ずかしさとまわりからの蔑む視線に屈辱を感じ、頭がカッと熱くなった。

 いますぐトイレに駆け込んで、御守りを握りしめたい。

 しかし、すでに幸田は満身創痍である。これ以上御守りに頼って、幸田が取り返しのつかない怪我でもしたらどうすればいいのか。いやそもそも、本当に御守りと怪我に因果関係はあるのだろうか?

「下向いてねーで返事しろ、高山ぁ!」

「は、はい!」

「ほーらまたどもったぞこいつ。はっははは!」

 怪我を重ねるほど、幸田の私への扱いはひどくなっていく。

 少なくとも、私にはそう感じられた。それじゃあ、この御守りを使ってしまったらどうどう巡りなのではないか。

 それでも、この屈辱は耐え難く、御守りを握りしめたときの解放感は絶大なものだった。


「う、おぇ……ゲホゲホっ、うううっ」

 夜中、私はいつものように店のトイレで便器を抱え苦しみにあえいでいた。

 いや、今日の飲み会はいつも以上にひどかった。どれほど飲まされたかなど、もはや覚えていない。

 脅され、強要される酒ほどまずく苦しいものはない。めまいと頭痛に、私はいまにも意識を失ってしまいそうだった。

「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……芽依……」

 涙目になりながら、愛娘のことを考えて必死に意識を保つ。

 すべては、家族のためだ。ここで自分がへこたれるわけにはいかない。けれど、もう立ち上がれないかもしれない。右手が、無意識のうちにポケットに伸びた。

「幸田め……どこまで苦しめれば気が済むんだよ」

 御守りを握りしめ、苦しみを耐える。

 幸田への憎しみも恨みも全て詰め込んで、何度も御守りを握りしめた。

 身体に心地よい風がふいたかのような錯覚。不快な酔いは徐々に落ち着いていき、吐き気も収まっていく。

 やはり、この不思議な御守りは特別なものなんだ――。

 私が立ち上がって手にした御守りを見ると、それはすでに真っ黒に汚れていた。

「あらあら、高山さんってば、私がさしあげた御守りを使い切ってしまったようですねぇ」

 トイレに、甘くやわらかな声が響く。

 振り返る。そこにはあの日と同じ、黒い服を身にまとった銀髪の少女が立っていた。

 店の施錠は、表も裏も済ませておいたはずである。

「お久しぶりです、高山さん。あなたは大変苦労されている方なんですねぇ、その御守りをこんなに短い間で使い切っちゃうなんて」

「君は、あのときの……やはり、この御守りはなにか特別な?」

「それは私の口からは申し上げられません。でも、高山さんはもう自分自身で感じているはず。そうでしょう?」

「……」

 少女が口が裂けるような笑みを浮かべて言ったことに、私は返す言葉がなかった。

 たしかに、私はこの御守りの効果を実感している。憎んだ相手が痛い目にあうという因果関係も、信じ始めている。

「ああ、でもどうしましょう。使い切ってしまった御守りは、その力を失ってしまいます。もう、あなたの助けにはなりません。それはただのゴミとなりました」

 少女が、手でくしゃりと何かを握りつぶすような仕草を見せた。すると、私の手の中にあった消し炭のようになった御守りが砂のように崩れ去った。

「そんな! 御守りが!」

「役目を終えた御守りはただのゴミ。ゴミは消えてしまえばそれでいい……。さあ、これからどうしましょう。今までの御守りに頼ってきたあなたの生活から、縋れるものはなくなりました。困りましたねぇ」

 くふっ、くふっと少女が息を漏らすように笑う。

 あの御守りがない――。

 私は手の中で砂のようになった御守りの残骸を見て、不安に包まれた。御守りのない日々は、どうしようもない恐怖と不安に苛まれるに違いないのだから。

「どうすれば……」

 無意識のうちに、狼狽の言葉が口から零れ落ちる。

 私の困惑した様子を楽しそうに見つめていた少女が、くふっ、ともう一度笑い声を漏らすと、差し出したその手になにかを掲げていた。

「高山さん。あなたにはやはり、これが必要なんでしょう?」

「それは、新しい御守り?」

 少女の手のなかには、最初に受け取ったときと同様の新品の御守りがあった。

「ええ、前のものよりもバツグンに効果の高い、素晴らしい御守りですよ」

「以前のものよりも、効果の高いもの……」

 確かに少女の手にある御守りは、今まで私が使っていたものよりも一回り大きく、文字や装飾もこったものになっていた。

 しかし。

 今までよりも効果が高いというのであれば、私を苦しめた相手に起こるなにかも効果が大きくなってしまうのではないか。今ですら、大怪我を負わせるような呪いと化している思いは、一体どうなってしまうのか。

 完全に信じ切っているわけではない。けれど、その可能性が高いならば――。

「おや、もう御守りは必要ありませんか?」

 少女が手を引っ込めるのを、私は大慌てで制止した。

「ま、待って! 待ってくれ、ちょっと考えさせてくれ」

「考える? 今更何を戸惑うことがあるんですか、高山さん。この御守りを、どうぞ信じてください」

「御守りの効果はすごいと思うよ。でも」

「でも?」

 私は感じていたことを、正直に目の前の少女に打ち明けた。

「その、副作用というか、それによって起こることというか」

「私があなたに問うているのは、ふたつにひとつです。この御守りが必要か、不要か。さあ、お答えください」

 ハッキリとしない私の問いと言葉を遮るようにして、少女が言い放った。

 その様は、今にも踵を返して去っていってしまいそうに見える。

 あの御守りがない日々なんて、想像出来ない。あの存在に、どれだけ心が守られてきたことだろう。それに、御守りはあくまで御守りなのである。

 本来のように、ただ持っているだけでもきっと心の安定は違うはずだ。

 苦しい気持ちや苦しめた相手への思いを握りしめることなく、ただ持っていればいい。

 それだけで、安心感がぜんぜん違うのだ。

「必要なんだ、私にはその御守りが必要だ。値段はいくらでも買うから、どうか」

 私の言葉に、少女が満足そうに微笑んだ。そして数歩私のそばにゆったりと歩み寄ると、私の手を取って御守りを手渡してきた。少女の手のひらは、氷のように冷たい。

「くふっ、最初にお会いした時も言いましたよね。これは宗教やそういった類のものではありません。特別な、御守りなのです。私はこれで商売をするつもりなんてありません。ただ、必要なひとに必要なものを届ける。それだけです」

 それでは、と告げて少女が背中を向けて去っていく。

「待って!」

 せめてお礼をと思い呼び止めたが、私は急なめまいに襲われてその場にしゃがみこんだ。

 やはり、無茶な飲み方をした酒はまだ抜けきっていないのか。

 私がもたもたしている間に少女はトイレを去り、結局あとを追った私には見つけることが出来ないままどこかへと消えて行ってしまった。

 本当に、不思議な少女である。

 そして私の手元には、以前よりも立派になった御守りだけが残されたのであった。


 疲れと大量に飲まされた酒が祟ったのか、私は夜明けごろまでトイレを出たところの廊下でうたた寝をしていた。

 気が付いたときには朝日が昇り、小鳥が歌っている。腕時計は午前七時を指していた。

「まずい、今からじゃ店頭の整理が間に合わない」

 青ざめた顔でひとり店の片付けに精を出してみても、広大なフロアに散らかった衣服をすべて商品レベルまで綺麗にたたみなおすのは不可能であった。

 やがて、新入社員が出勤してきて、朝番のアルバイトが来て、最後に左足にギブスをつけ松葉杖をついた幸田が現れる。

 御守りの願掛けのせいで、足を骨折したのだろうか。

 痛々しい怪我と忌々しそうな幸田の表情に、私は身震いをした。なぜ、こんな日に限り居眠りをしてしまい、開店準備を怠ってしまったのか。

「準備が終わってない!? ふざけるな、ふざけんなよ、てめぇ!」

 幸田の怒りは頂点に達していた。

 それはおそらく、ここ最近の自身の不運への鬱憤もすべて含めた怒気なのであろう。私は朝礼で無理やり皆の前で跪かされた挙句、何度となく松葉杖で殴られた。

「店長、謝罪はあとでいくらでもいたします。今は開店の準備をさせてください」

「てめぇ、夜中から今までそれをやってなかったくせに、俺に口答えするのか!? いい加減にしろ、土下座だ土下座! 頭を床につけろ!」

 幸田は従業員を全員そばに立たせたまま、私に土下座を命令してきた。

 社員もアルバイトも見ている前である。私はさすがに抵抗したが、断りの言葉をひとつ吐き出すたびに松葉杖が一回振り下ろされるだけであった。

「ですが店長、さすがにそれは、それだけは……」

「聞こえないのか高山! さっさと土下座しろ! それともこのまま店を開くまで座ってるつもりか、てめぇ!」

 誰か、この状況を本部に報告してくれ。

 悪質なパワハラだと、大きな声で叫んでくれ。

 助けを求めるように彼らに視線を向けても、皆慌てて視線を逸らすばかりである。

「どこを見たっててめぇみたいなクズを助けるやつはいねぇんだよ、このボケ!」

 幸田の振り上げた松葉杖が側頭部に当たり、耳鳴りがした。

 幸田の責めはいつも以上に執拗で容赦がなかった。このままでは店も成り立たない。私も大怪我をさせられる。もうどうにもならない。

 屈辱と諦念で満たされた重すぎる頭が、ゆっくりと重力に導かれるように地面に迫っていく。そして、冷たい床に額がついたとき、私の心のなかで何かが音を立てて壊れた。

「そうだ! もっと頭をこすりつけろ、クズにはお似合いの姿だ。いいな、お前ら、こんな大人に、社会人になるんじゃないぞ。こいつはゴミだ! ゴミ以下の底辺だ。よく見ておけ、大人の本気の土下座だ、レアものだぞ。はははははっ!」

 私は額を床につけながら、喚き散らす幸田を冷たい目で見上げる。

 騒ぎたいだけ騒げばいい。いたぶりたいだけいたぶればいい。私には、それ以上の復讐の手段があるのだ。

 ズボンのポケットのなかで、御守りが熱を放っているかのようであった。

 はやくはやく、この苦しみを御守りに託したい。

 土下座を強要され嘲笑されたとき、ついに私は幸田に対して御守りが起こしているであろうすべての災難に対する憐憫の感情を捨てた。

 朝の開店準備が遅れた罰で、私の昼休みは最後に回されたうえ、十五分しか与えられなかった。

 休憩時間になると私は足早にトイレに駆け込み、個室に鍵をかけた。

 そしてポケットから新しい御守りを取り出すと、強く強く握りしめた。

「許せない、許せない。絶対に許さない!」

 昨晩、無理やり大量に飲酒させられた挙句仕事場にひとりで帰らされたこと。

 跪かされて、松葉杖で何度も殴打されたこと。

 衆目の前で怒鳴り散らされからかいつくされ、挙句の果てに土下座までさせられたこと。

「アイツは、最低だ……!」

 ほかにも今までの苦しみを何もかも詰め込んで、私は心の底からこの苦しみからの解放を願った。それで幸田がどうなるかは、考えなかった。もう、あの男がどうなろうが知ったことではない。

 私のなかに渦巻く惨めさ、悔しさ、痛み、辛さ、苦しさ――。

 一切合切を込め、十五分間ひたすら御守りを握りしめる。幸田がどうなってしまうのかは、あえて頭の隅に押しやった。例えどうなろうと、最悪の事態になろうと……。

 私にはこうするしかないではないか。

 延々と御守りを握りしめていた手から、不意に心地よい熱が伝わってきた。

 苦しみが少しずつ消えて行く。

 私は新しい御守りの素晴らしい効果に感動し、トイレの便座から立ち上がった。

 トイレを出る前に、ずっと握っていた手を開いてみる。

 すると御守りはたった一回の祈りで真っ黒に変色していた。しかし御守りの黒い汚れとは裏腹に、私の胸のなかは秋晴れの青空のように清々しく晴れ渡っている。

 私は軽やかな足取りでトイレを出て、売り場へと戻っていった。

「高山、休憩戻りました」

「……おう」

 私の報告に、売り場に立っていた幸田はめずらしく嫌味のひとつも言わずに頷いた。心なしか、どこか遠くを見るようにしている幸田の目が、不意に閉じられた。

 そのまま、幸田が足元からくずおれるようにして倒れこんだ。

「店長、店長! 幸田さん!」

 私が声をかけても、彼はぴくりとも動かない。幸田にはすでに意識がなかった。

 すぐに救急車が呼ばれ、幸田が運ばれていく。店の代理責任者となる私は救急車に同乗することが出来ず、新入社員のひとりを幸田につけて病院へ送り出した。

 そして数時間後、私は救急車に同乗させた新入社員から一本の連絡を受けた。

『高山副店長、あの、店長のことなんですが……』

「おお、容態はどうだ? 意識は戻ったか?」

『それが、その……亡くなりました。家族の方にはすでに連絡は済ませてあるので、会社のほう、お願いしてよろしいでしょうか?』

「亡くなったって……? 幸田さんが、その、死んだっていうのか?」

『はい、亡くなられました。ついさっきのことです』

 それから新入社員は警察の事情聴取を受けたり、病院からの話を聞かねばならないのでそれが終わり次第直帰するとの報告を受けたが、私は突然のことに「ああ」とか「わかった」とかロクな返事が出来なかった。

「幸田が、死んだ……?」

 おそらく、いや間違いなく、あの御守りのせいだろう。

 違うかもしれないというには、今までの出来事の連なりが重すぎた。

 私は、ひとを殺したことになるのだろうか。いいや、そんなわけがない。私はただ御守りを握りしめて祈っただけである。それだけ、それだけなのだ――。

 心の奥底から湧き上がってくる罪悪感を押し殺し、私は売り場へ戻った。


 それから、私の日々は一変した。

 まず幸田が倒れた翌日、本部からしばらく店長代理として店長の職務をこなすようにという指示をうけた。私は全身全霊で職務に励んだし、その姿を見て従業員たちの私への接し方が変わっていった。

「よし、今日も売上記録更新だ!」

 店の売り上げもみるみるあがっていった。

 もともと、幸田がパチンコをしたり昼間から酒を飲んだりしながら、ずさんな管理で運営していた店舗である。改善点はいくらでもあった。店長代理として働き始めて半年もするころには、私は当時の売り上げの二倍近い数字をたたき出すことに成功した。

 そしてその功績が認められ、私はそのまま正式に店の店長として就任することになった。

 今や従業員たちも店を立て直した私に、尊敬の眼差しを送ってくる。

 かつてはあれほど蔑んだ目で見ていたくせに、という思いはあったものの、やはりそういった変化は気持ちの良いものであった。

 なにより、幸田のめちゃくちゃな行動がなくなったおかげで、私は家族とともに過ごす時間も確保することが出来た。

 完全週休二日制とまではいかないが、それに近い形で家にいることが出来る。幸田が店長をしていたときには、考えられなかったことである。

 芽依や妻との幸せな時間が、私に日々の充足を与えてくれた。


 幸田に対する、胸を締め付けるような申し訳なさと後ろめたい気持ちはあった。

 しかしそれも一か月後には軽減し、数か月で半減し、半年たった今はほとんど気にならなくなっていた。

 店も、家庭も、あのころよりもずっと良くなったのだ。

 今ではなるべくしてなったのだ、とさえ思うこともある。

 そんな折、娘の芽依に変化が訪れた。

 正確には、芽依の描く家族の似顔絵に変化が見られたのであった。

 相変わらず家族の似顔絵を描くのが好きな芽依であったが、数日前から芽依が描く私の絵の頭には、いつも一本の角が生えているのである。

「芽依、これはなんだい?」

 角を指さして問うてみても、芽依は首を傾げて「これがパパだよ」と言うばかりである。

 一度は厳しく問い詰めすぎて、芽依を涙目にさせてしまった。

 お父さんの頭に角は描かないでね、と何度お願いしても、芽依の描く私の頭には鬼のような角があるのだ。

 それ以降、私はどうすることも出来ないまま、ため息交じりに角の生えた自分の似顔絵を一瞥することしか出来なくなった。

 ある日の休日、子供部屋の戸がかすかに開いたままになっていることに気が付いた。

 娘が私の絵を描くところを見てみようと何気なくのぞき込んだとき、私は全身の血が気が引いた。

 床に寝転がって絵を描く娘のすぐ横に、銀髪の少女がいたのである。

 私にあの御守りをくれた少女が――。

「芽依、そのお姉さんは誰だい!?」

 私が慌てて子供部屋に飛び込むと、芽依が不思議そうに顔をあげた。

「パパー、大きな声を出してどうしたの?」

「あ、ああ。すまない。その、横にいる女の子は誰だい? 君、どうしてここに?」

 私の言葉に、芽依がきょろきょろと左右を見回した。

 まるで少女の姿が見えていないかのようにきょとんとした表情で首を傾げる。

 少女は、口の両端を糸で引かれたかのような笑みをたたえている。

「芽依の部屋には芽衣以外だれもいないよ。パパ、どうしたの?」

「いや、芽依の横に女のひとがいるだろう、ほら、そこに」

 指さした先で、少女は黒い影のなかに沈み込むように消えた。

 その影がゆっくりと動き出し、ベランダへ出た。そこに再び少女が現れ、楽しくてたまらないといった表情で手を振っている。

「芽依、ここで待ってなさい」

 声が固くなったのが自分でもわかった。

 私は慌ててサンダルをつっかけてベランダに出る。そして銀髪の少女と対面した。

「高山さん、お久しぶりです。いやぁ、とってもお幸せそうで、御守りを渡した身としましては嬉しい限りですわ。くふっ」

「あの御守りには今も感謝しているよ。でも、君がなぜここに?」

「いえいえ、御守りを使い切ったあと、高山さんがどうなされているのかなって気になりまして。ついつい来ちゃいました。いやぁ、とっても可愛い、そしてよく物が見えるお嬢さんですねぇ」

「物が、見える?」

「似顔絵ですよ、に・が・お・え」

 くふっ、くふっ、と楽しくてたまらないといった喜色を含んだ声で笑いながら、ゆっくりと少女が言った。

「君はあの似顔絵について何か知っているのか? もしもそうなら教えてくれ。娘の描く似顔絵はなんなんだ? どうして私の頭にあんなものがある?」

「あなたが、ひとをひとり呪い殺したからですよ」

「呪い、殺した……」

 忘れかけていた、最悪な記憶。幸田と御守りの関係。

 やはりあれは、無関係ではなかったのか。だが、半ば信じがたいことでもある。

「私は、君に言われた通り御守りに苦しい思いを込めて握りしめただけだ」

「でも、あなたは気付いていたのでしょう。あの御守りに願いを込めれば、その相手がどうなるのか。本当は、わかっていたのでしょう。ううん、それは確信ではないかもしれない。けれど、予感のようなものは絶対にあったはず。そうでしょう?」

 少女に問い詰められ、私は言葉に詰まり顔をそらした。

「それは……。なにか、因果関係があるかもしれないとは、思っていたよ」

「やはり……くふっ、それを世の中では、呪い殺したと言うのではないのですか?」

「最初は、ちょっとした怪我だった。だから、気付かなかった。でも……」

「気付いていたんでしょ。あの時、御守りをライターであぶったとき――」

「なっ、どうしてそれを知っているっ!?」

 私はその場にしりもちをついてしまいそうになり、必死にこらえた。

 あのとき、御守りをライターであぶったあの場所には誰もいなかったはずだ。なのに、なぜこの少女はそこまで知っているのか。

「私はぜぇんぶ知っているんですよ、高山さん。あなたが御守りに込めた苦しみも、途中で変化に気付いた時の戸惑いも。そして……いつかはそうなってしまうかもしれないと思いながらも、御守りを使い続けた事実も」

「なぜ、そこまで知っている?」

 少女は、感に堪えないといった様子で自らの両腕で自分を抱きしめると、大声で笑った。

 少女が影のなかに消え、その影がベランダを暴れ回り、私の後ろに再び姿を現した。

「ぐげげげげげっ! あなたは人間を呪い殺した、呪い殺したんだ。そうなるとわかっていて、とうとうあなたはやってしまった。そしてその屍のうえに、幸せな生活を作り上げた。でも、あなたの娘には見えてしまった!」

「やめろ、そんなことを言うな、言わないでくれ。芽依にはいったい何が見えている!?」

「あなたのお嬢さんは、鋭い子のようですね。わかるのですよ、直感的にね。あなたが、ひとを呪い殺したとどこかで感じているのです。だからあなたの頭には鬼のような角が見える。あの似顔絵をみたでしょう? あれこそ、あの子から見たあなたそのものだ」

 あのおぞましい角の生えた絵が、娘が見ている私の姿だというのか――。

「そんな、バカな……」

「くふふっ、あなたは自らの意志で選択した。そうなるかもしれないとわかりながら、強い強い呪いの思いを込めて、御守りに託した。だから、あの男は死んだ」

「ほかにどうしようもなかったじゃないか! 私は、ずっと追い詰められて!」

「本当に、ほかに方法はなかった? 会社に助けを求めることも、逃げだすことも、職場の誰かを味方につけることも、何も出来なかったのですか?」

 少女は大きな目を見開いて、困惑する私の顔を見た。

「出来ないに決まってる、そんなの、無理だ」

「それはあなたが自分の頭のなかで考えただけ。あなたは何ひとつ実行もせずに、最も傷がつかない、簡単な選択肢を選んでしまった。私の御守りにすがるという安易な選択を」

「そんな! 御守りを渡してきたのは、君じゃないか!」

「くふっ、くふふっ。そうだったかもしれませんねぇ。でも、私は絶対にこれを使ってください、なぁんて言った覚えはありません。あなたが勝手に、御守りに縋る道を選んだだけ、そうでしょう?」

「そんな、めちゃくちゃな」

 訴えかけるように手を伸ばしかけた私の前で、少女が自分の胸を指さした。

「だって、胸が痛んだでしょう? 呪った相手が苦しむことになるとわかって、動揺したでしょう、困惑したでしょう。そのときに、御守りに縋るやり方を変えることは出来たはずです。そうでしょう?」

「それは……」

 うつむいた私の視線のなかに入り込むようにして、少女が私をのぞき込んで来る。

「それでも、あなたは行きつくところまで行きついてしまった。もう戻れない。もう取り返しがつかない。もう二度と、あなたがひとを呪い殺した事実は消えない。……ほら」

 少女が指さした先には、窓越しに嬉しそうに似顔絵を見せつける芽依の姿があった。私の頭のうえには、変わることなく一本の角が生えている。

「あの子はまだ、見えるだけ。それが何を意味するのかまでは、わかっていない」

「角が、見えるだけ……」

「けれど、いつかあの子は理解しますよ。あの角が、どういう意味なのかをね」

「ああ……そんな……」

 私は頭を抱え、膝を折った。

 芽依は私のことをひとを呪い殺した人間だと知ったとき――あの子は今までのように私を愛してくれるだろうか。娘が大人になったとき、私は彼女に軽蔑されるのではないか。

 いや、それは軽蔑なんていう簡単なもので済むはずがない。私は、私は――。

「高山さん。お嬢さんがあの角の本当の意味に気付くまでの間、どうか、お幸せに」

 くふっ、くふふふふふっ……。

 鼓膜に張り付くような、いやらしい笑いをこぼした少女が自身の影のなかに溶け込み、その影がベランダから消えた。

 私は立ち上がることさえも出来ずに、冷たい風が吹くベランダにいつまでもひざまずいていた。

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