第11話 パパの似顔絵(前編)

「うおぇ……、げえぇ! ゲホッ、ゲホッ! うっ……うえ……」

 私は職場のトイレの便座にうずくまるようにして、便器のなかに何度も嘔吐を繰り返していた。ついさっきまで、職場の飲み会があったのである。勢いだけが売りのアパレル量販店特有の、質の低い体育系のノリだけが達者ないやな集まりだった。

 この店の従業員は、半端者ばかりであった。

 自分ひとりで肩で風を切れるほどつっぱってもいなければ、ただのおとなしい奴でおさまっても居たくない。そんな連中の集まりのなかで、副店長である私は上司のパワハラと新卒の面倒と、アルバイトのわがままにがんじがらめにされていた。

「ううぁ……げぼっ……はぁ、はぁ、はぁ……」

 特に店長の幸田はひどかった。

 私は今まで、何度アイツに手ひどいパワハラを受けたかわからない。

 そのうえ今更流行らない一気飲みの強要から酔いつぶれた部下の面倒まですべて私に押し付けて、自分は毎回バイトの可愛い女の子とお楽しみだ。

 そして何より、私はこの地獄のような飲み会を終えてなお、無理やり片付けもろくにされていない職場に戻らされていた。

「こんな生活、いったいいつまで……うぐっ……」

 職場の飲み会の日はいつもそうだ。

 店舗の片付けなど二の次にして、店が閉店すれば幸田は部下をつれてさっさと飲み屋に直行する。もちろん私も強制的に連行されていた。

 そして、店の後片付けはすべて飲み会のあとに私が押し付けられているのが現状だ。

 今日だって、もう終電すらなくなりそうな時間まで飲まされて、今こうして職場の便所でひとり吐いている。このあと、私は独りでこの広大な売り場の商品を整頓しなおさなければならない。

 最悪だ。私が築き上げた自慢の家族以外、なにもかもが絶望的な最悪な日々だった。

「うぅ……はぁぁ……。ちくしょ、片付け、しなきゃ」

 こんな職場、辞めてやる。

 幸田が店長としてやってきてからというもの、何度となく想ったことである。

 しかしそのたびに妻と、まだ三歳の愛娘である芽依(めい)の笑顔のことが頭をよぎった。私が今仕事を放り出して、ふたりを路頭に迷わせるわけにはいかない。

 さりとて、日々忙しい業務のなかでは転職活動すらままならなかった。

 家族と職場のパワハラに板挟みにあい、今の私は八方塞がりである。

「うう……頭、いってぇ……あのクソ店長! 無理やり飲ませやがって……!」

 頭に血がのぼった途端再び激しい吐き気に見舞われて、私は便器を抱えひとしきり吐いた。さっき食べたばかりの居酒屋のつまみたちが、胃液にまみれて便器へと落ちていく。

「失礼いたします……。こちらからなにやらひどいうめき声が聞こえましたが、あの、大丈夫でしょうか?」

 突然、トイレに女性の声が響いた。心配そうな声色は少女のようなあどけなさの残る、高く柔らかな声である。

「えっ、ああ、いや。ありがとう。大丈夫だけど……」

「それならいいんですけど、その、高山さんとっても苦しそうで」

 便器から顔を上げ、声の主を確かめる。

 蛍光灯の明かりに映える美しい銀髪と白い肌。

 私に向けられた黒く大きな瞳が特徴的な目は、どこか暗さを感じさせた。

 大きめの黒いフード付きパーカーを羽織り、同色の黒いロングスカートがかすかに揺れている。

 こんな子は、うちのアルバイトにはいない。

 なぜ彼女は私の名前を知っているのだろう。

「君は誰だ? どうしてここにいるんだい? それに、なんで私の名前を?」

「うふふ、なんだかいっぱい質問されちゃいましたね、それじゃあ、一個一個お答えしていきますね」

 おかしそうに微笑んだ少女が、フードを目深に被って首を左右に振った。

「えっと、最初に私の名前ですが、脇坂未明と申します。どうぞよろしくお願いいたします。それで、どうしてここにいるのかと言うとですね。今さっき表の通りを歩いていたら、高山さんの苦しそうな声が聞こえてきて、これはただ事じゃないなって。それで、ここはお店だとはわかっていたんですが、裏口が開いていたので慌てて入ってきちゃいました」

 どこか恥ずかしそうに言う少女、脇坂さんの言葉に私は納得したような納得しないような、微妙な気持ちに襲われた。

 確かに私はかなり大きな声で呻いてしまっていたかもしれない。しかし、だからと言って普通閉店している店の裏口から店内のトイレまで、わざわざ入り込んでくるだろうか。

 それに、酔っていてハッキリとした自信はないが、裏口の戸はきっちり鍵をかけておいた気がするのだが――施錠し忘れていたのだろうか。

「そうか、その……私の声はそんなに大きかったかな?」

「はい。何か事件が起きているのではないかと思って、つい慌ててしまって……。無断で入ってきてしまい、申し訳ありません」

「いや、いいんだ。無用な心配をかけてしまってこちらこそ申し訳ない。それで、どうして君は私の名前を知っているんだ?」

 尋ねると、脇坂さんはトイレの洗面台を指さした。

「そこの洗面台に、高山と書かれたネームホルダーが置いてありましたから」

 そうか、私は職場に戻ってからいつもの習慣で名札を首から下げていたのだった。

 それを吐きそうになって、慌ててあそこに置いたのだ。どうも、なにもかもを疑い過ぎてしまったのかもしれない。

「ああ、そうだったね。私が自分で置いたんだった。色々聞いてしまってすまない。ちょっと酔っぱらっていてね。とにかく、大丈夫だ。心配してくれてありがとう」

 そういってトイレットペーパーで乱雑に口を拭い、吐しゃ物を流して立ち上がる。

 あわてて立ったせいか残ったアルコールがグラリと頭を刺激し、数歩よろめいてしまう。

「あの、本当に大丈夫ですか?」

「すまない、飲み過ぎて……正確には、飲まされ過ぎてしまってね。まぁ中間管理職のつらいところだな」

「名札には副店長さんって書いてありますけど……そんなに大変なんですか?」

 この子は細かいところまでしっかりチェックしているらしい。

 気持ちがひどく荒んでいた私は、突然現れた少女についつい愚痴っぽくなってしまう。

「いやぁ、上は店長、下は新人とアルバイトとの板挟みの毎日だよ、いいように使われてしまって、毎日胃が痛い。とはいえうちにも家族がいてね、娘が可愛くて。いやぁ、なかなかに人生うまくいかないね……って、初対面の君にこんなこと愚痴っても仕方ないな、ごめんよ。もう行ってくれ」

 彼女の大きなよく動く目に誘われてしまったのか、思わず弱音と文句をこぼしてしまう。

 このままではどうしようもない日々の弱音まで吐露して泣き出してしまいそうで、私は少女に向けて軽く手を払う仕草をした。

 しかし、そのしぐさを無視するように脇坂と名乗った子はゆっくりと私に近づいてきた。

「高山さん、とっても大変なんですね、あの、これ……よかったら」

 少女が華奢な手のひらで何かを差し出してきた。

 よく見ると、それは小さな御守りのようだ。見覚えのない文字や模様が描かれている。下にはご丁寧に名刺も添えてあった。

 名刺が添えられていたことで、酩酊のなかにあった私の心にも警戒心が芽生える。

「なんだい、これは。悪いけど、宗教のお誘いならお断りだよ」

 こんなところまで入ってきたのも、もしかしたら怪しげな勧誘のためかもしれない。

 そう考えると、私のなかにあった少女への感謝の気持ちも急速にしぼんでいく。

 少女は私の言葉に、ニタリと両方の唇を吊り上げるように微笑んだ。

「いえいえ、宗教だなんてとんでもございません。これはただの御守りですよ。つらいとき、苦しいとき、そして誰かに苦しめられた時。その気持ちや相手を思い浮かべながらこの御守りを握りしめてください。きっと、あなた様の力になりますわ。くふっ」

 妙に甘ったるい声が、心地よく耳になじむ。黒い瞳がじっと見つめてきて、私の警戒心を闇で塗り固めるように覆い隠していく。

「私の、力になる? この御守りが?」

 私は少女に促されるままにおずおずと御守りを受け取った。御守りとともに差し出された名刺には、彼女の名前である脇坂未明という表記以外何も書かれていない。

 つまり、連絡手段などはないのだ。受け取るくらい、いいかもしれない。

 少女の大きな瞳にじっと見つめられると、再び私のなかにそんな気持ちが湧いてきた。

「じゃあ、こっちも受け取るだけ受け取っておくよ。ありがとう」

「お礼には及びませんわ。ただ、忘れないでください。そして、つらいときには思い出してください。苦しい気持ちを、苦しめる相手を思って、その御守りを強く強く握りしめること――どうぞ覚えておいて。それじゃあ、また会いましょう。高山さん」

 不意に、電灯がチカチカと点滅を繰り返した。天井に視線を送ると、蛍光灯が点いたり消えたりを繰り返している。もう、交換した方がいいのかもしれない。

 そんなことを思いながら視線を戻すと、脇坂と名乗った少女の姿はすでに消えていた。

 いつの間にかトイレから出て行ったらしい。

 私は重い頭を支えるように手を添えながら、裏口に向かった。裏口の鍵は、確かにしっかりと掛けられていた。

「どういうことだ、夢でも見ていたのか?」

 ふとズボンの右ポケットになにかがはさまるような違和感を覚え、手を入れた。

 そこには、先ほど脇坂と名乗った少女から渡された御守りと名刺が入っていた。

「夢じゃない? それなら、あの子はどこから入ってきたんだ?」

『苦しいとき、そして誰かに苦しめられた時。その気持ちや相手を思い浮かべながらこの御守りを握りしめて』

 少女の言葉が頭のなかによみがえる。何気なく、御守りを握りしめる。

「苦しいときって言われてもな、毎日が苦しいよ。それもこれも、あのパワハラクソ店長……幸田のせいだ」

 私がつぶやくと、右手のなかの御守りが熱を放ったような感覚に襲われた。それとともに、かすかな高揚が私を包み込む。心の奥を鼓舞してくれるような、心地よい熱である。

 御守りを確認するが、特に変化のようなものは見られなかった。先ほど感じた熱も、今はもうない。ただ、赤い御守りのすみっこがかすかに黒く汚れていた。

「こんな汚れ、最初からあったっけ?」

 御守りをよく見ようと伸ばした左腕の時計が、夜の一時を指していた。

「やべ、もうこんな時間か!」

 慌てて御守りをズボンのポケットに戻し、私は小走りに売り場へ向かった。大きなフロア全体の乱れている商品をたたみなおさねばならないのだ。

 作業が遅れれば遅れるだけ、仮眠時間が減ってしまう。

 私はそれきり御守りと少女のことは忘れ、あわただしい現実へと戻っていった。


 翌朝、開店時間ギリギリに出勤してきた幸田の頭には大きなコブが出来ていた。

「店長、その怪我どうかなさったんですか?」

「うるせぇな高山。ちょっと夜中にぶつけたんだよ。それよりちゃんと店は開店準備出来てるんだろうな、ええ?」

 爬虫類のような目でギロリとにらみつけてくる幸田に、私は背を曲げて言った。

「それは、もちろんだいじょうぶです」

「本当か? ならよぉ高山、なんでここのマネキン、ゴールデンウイーク用に変えてないんだよ? 仕様替え、今日からだよな?」

「いえ、それは……その、マネキンの衣服交換の指示は、今朝、いやついさっきようやくデータが送られてきたもので」

 私がしどろもどろに説明すると、幸田は私の胸元を掴み猿のように汚い歯をむき出した。朝番の新卒社員や、バイトたちの前である。

「つまんねぇ言い訳はいいんだよバカ野郎! お前、今店の準備出来てるっていったよなぁ。これじゃあ全然出来てねーじゃねーかよ。ああ? どーいうことだ!?」

「ですから、これはついさっき来たばかりで」

「さっき来たんだろぉ!? だったら突っ立ってないで今やれよ、このボケが!」

 幸田は私をマネキンのほうへ乱暴に突き飛ばすと、まるで私がいないかのように部下たちと朝礼を開始した。

 私は幸田の理不尽に、胸の奥が焼けるような苛立ちに襲われる。

 マネキンの影に隠れるようにして、ポケットのなかに手を入れた。そしてあの少女に渡された御守りを握りしめ、幸田をにらみつけた。

『苦しいとき、そして誰かに苦しめられた時。その気持ちや相手を思い浮かべながらこの御守りを握りしめて』

 少女の言葉を思い出しながら、何度も御守りを握る。

 ふっと、身体を暖かいものが駆け巡った。さっきまでのいびられて、皆の前で恥をかかされた苛立ちがふっと軽くなった。御守りというのも、存外バカに出来ないものなのかもしれない。

 そんなことを考えながらマネキンの衣装を指示書通りに変更していると、ガタンという物音とともに幸田の「ぎゃっ!」という情けない悲鳴が聞こえてきた。

「店長、どうしたんですか!?」

 慌てて声をかけると、入荷した衣服が詰め込まれた段ボールが崩れていて、幸田はそれに足先をつぶされたらしい。

「いってぇぇぇ! ちくしょう、なんでいきなり崩れるんだよ。いてぇ!」

 段ボールは高いところから落ちたようで、幸田の苦しみ様はかなりのものであった。

 不運だな、と思う一方でざまあみろという思いが入り混じった複雑な気持ちのなかで、私はふと自分が小さく笑っていることに気が付いた。

 ――いい気味だ。

 突如訪れた人の不幸に対してそんな感情を認めたくはないが、幸田が痛い目にあっていた姿を見て私は確かにそう感じていた。

 手にした御守りを引っ張り出してみると、黒い汚れが大きくなっているように見えた。

 気のせいだろうか?

「おい高山ぁ! てめぇボーっとしてんじゃねーぞ!」

 まだ顔をしかめたままの幸田の怒声に、私は急いで御守りをポケットにしまい、作業を再開したのであった。

 幸田の怒声も、バカにしたような新入社員やバイトの視線も不思議と今までより気にならなかった。それは、この御守りのおかげだろうか。

 いや、きっと明日が久しぶりの休みだからに違いない。

 アルバイトが急に用事を入れたり、社員研修が入ったりとここのところまともな休日がなかったのだ。

 明日はゆっくりと家族と過ごせる。

 そう思いながら、私は幸田のハラスメントに耐え、一日の就業を終えた。 

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