第9話 心亡くした志(後編)

 翌日、目覚めるとひとつ伸びをしてベッドから抜け出し、カーテンを開き陽射しを浴びながら朝食をとった。

 金銭が与えてくれる安心感は大きく、私は軽快な気持ちでパソコンを立ち上げた。

 まずは手始めに短い物語でも書いてみようと、メモ書きを見ながらパソコンのキーボードに指を置く。しかし――。

「むっ……おかしいな。ぜんぜん捗らない、なんでこんなに筆がのらない?」

 言葉がまるで出てこないのだ。

 昨日までは順調とは言えないまでもなんとか紡げていた物語たちが、今ではまったく動く出さない。

 書き出しはどうするのか。どんな人物を書くのか、どんな思いを物語に託すのか。

 何ひとつとして、頭のなかに沸きあがってこないのだ。

「いや、ときにはこんな日もあるか」

 大きくため息をつき、デスクから腰をあげた。

 しかたのないことなのかもしれない。どんな作家にだって、スランプはあるものだ。

 いや、前に進んでいるからこそ、スランプにぶつかるとも言えるのだ。そう自分に言い聞かせて、ヒゲを剃り顔を洗った。

「良い天気じゃないか、ちょっと気分転換に家のまわりを散歩してみるか」

 お気に入りのジャケットを羽織って、軽い気持ちで外に散歩に出掛けた。

 春の陽射しは心地よく、散歩にはうってつけの快晴だ。良い外出日和である、

 それでも私の気持ちの奥底は、どうにも晴れることがない。

 何かが欠けている、なんとなくそう感じた。

「お金もある、天気が良くて気持ちいい。書き物仕事だってこれからどうにかなる。何も心配いらないじゃないか。それなのに、なんだっていうんだ。」

 自分で自分に言い聞かせる。いったい何が足りないというのか。

 その何かを懸命に手繰り寄せようと思考を巡らせても、結局答えは見つからないまま時間だけが過ぎていく。

 そして、私のスランプは長期的なものになっていった、

 週が一周回っても、月が変わっても、相変わらず私の執筆が出来ない日々が続いた。いや、それどころか、書けないという気持ちはどんどん悪化していった。

 どんなに作業机のうえで粘ってみても、何ひとつ言葉が出てこないのである。

「なぜ、どうしてこんなことになってしまったんだ……」

 言葉が出てこない、などということがあるのか。

 しかし実際に、キーボードを叩く指は文字を打ち込んでは、これではないとバックスペースでその文字を消していくばかりである。

 作中の人物に、まるっきり命が宿らない。かけらも心がこもらない。

 老いも若きも男も女も、動物や植物さえも何もかもが無機質で、それでも経験やテクニックで無理やり書きだした文章はまるで新聞記事のように淡々としたものであった。

 その文章からは、かつてヒューマンドラマの第一人者と呼ばれた松本葉造という作家の、人間味あふれる感性や描写の面影はどこにも見られない。

 私はどうしてしまったのか。冷や汗を流しながら机にもたれかかる。

「なぜだ、どうして書けない?」

 借金の重圧から一時的に解放され、むしろ気が抜けてしまったのか。しかし、すでに一か月という時間を無為に過ごしてしまっている。

 借金そのものが消え失せたわけではない。リミットは、刻一刻と迫っているのだ。

 新作を作り上げ、それによって利益を生み出さねばならない。

 焦る気持ちは、間違いなくある。

 それでも、文章を書こうと思うと言葉が出てこなかった。

 私のなかにある物語を作り出す細胞が、まるでどこかへいってしまったかのようであった。

「くそっ、なんだっていうんだ! ……そうだ、俺の昔の映画でも見て、気持ちを変えれば書けるはずだ。思い出せ、あのころを思い出すんだ」

 リモコンを取り、テレビのスイッチをつける。

 私にとってはあまりにもどうでもいい、くだらないワイドショーが流れ始めた。

 それでも古臭いビデオを巻き戻す間、なんとなく画面を見てしまう。

 リポーターが作家にインタビューを試みる企画のようだ。私は舌打ちをして、外部接続モードに切り替えようと指を動かす。その指が、テレビから流れてきた声で止まった。

『それではここで、松本葉造先生の再来と呼ばれている作家を紹介したいと思います』

 久しくテレビで聞くことのなかった自分の名前を耳にして、私は顔をあげた。テレビ画面には、見覚えのある不気味な笑顔が映し出されていた。

『ご紹介いたします、第二の松本葉造、令和の松本と呼ばれデビューを果たした新進気鋭の作家、西坂未明先生です!』

「なっ!?」

 テレビの向こうには、あの女がいた。

 一か月前、私からノートを買い取った脇坂とか名乗った女である。帽子を目深に被りサングラスをつけていたが、あの特徴的な銀髪と口が裂けるような微笑みは、おそらく間違えないであろう。

「そんな、バカな……」

 レポーターは西坂未明がいかにして情報過多の現代社会で、虚しくすれ違う男女の切ない恋愛を表現していったのかを延々と語り続けている。その手法は、どれもこれも私が得意とした作風そのものであった。

 あの女はたしかあの日、脇坂未明と名乗っていた。

 そして今、まるで私を嘲笑うかのように西坂未明という見え見えの偽名をペンネームとして使い、テレビの前で訳知り顔でしゃべっている。

「あいつ、まさかあのノートから盗作を!」

 怒りに震える頭のなかで、私は考えた。

 例えあの女が上手く私から買い取ったノートの内容を使って作品を書きあげたとしても、せいぜい一、二作が限界のはずである。

 ノートの内容を思い返しても、そう何度も繰り返し使えるようなものではない。

 ならばあの女、脇坂未明の創作が行き詰まった時こそ自分が再び文壇に返り咲く好機なのではないか。

 悔しい思いはどうしようもなくあるが、あの女が第二の松本葉造と言われ世間で評判を呼べば、自然と第一人者である自分とその作品への注目も高まるはずだ。

 気に入らないという思いは語りつくせないほどあるが、これはチャンスなのである。

 いまいましい気持ちを抑えテレビを消した。

「あの女、ファンだとか名乗ってまんまとやってくれたな。今に見ていろよ」

 今こそ、大作を完成させて発表する時なのだ。

 例え偽者が出てきたせいとはいえ、メディアに再び自分の名前が注目されているのだ。松本葉造の名が活きるときが来たのである。これは、好機だ。

 私は闘志を燃やしキーボードを叩き始めた。


 あの放送を見た日から、二か月の時が過ぎた。

 私はパソコンを置いた机の前で憔悴しきっていた。

 書けないのだ。どうやっても、どれほどあがいても、なにも書けない。

 胸の内から出てくる言葉には色彩がなく、連なる文章は教科書や参考書を彷彿とさせる固いだけの物語になり果てる。登場人物には血が通っているとは到底思えない。

「なにがどうなったって言うんだ。俺が何十年、物語を書いてきたと思っている。なぜだ、なぜいきなり俺は書けなくなったのだ……」

 悔しさと情けなさと絶望感で、目の前の画面がにじんで見える。

 テレビをつけることは、一か月前から自分に禁じていた。

 いやでも、話題の作家となった西坂未明の情報を見かけてしまうからである。それほどに、あの女は売れ続けていた。

 取材や調べ物をしに外に出る気力さえ失った私は、ここ数日資料を求めて皮肉にも自分の作品を廃らせた一因であるインターネットに接続する機会が増えた。

 情報化社会に置いていかれた自分が何をしているのかと自嘲してみたところで、その嗤いすら今はもう枯れきっている。電子の情報に触れることは、藁にも縋る思いどころか、まるでかつての敵に謝罪するような思いであった。

「私が、私の作品を潰す一端を担ったネットに頼ろうとはな……。なっ!?」

 情けなさに憔悴した笑みが浮かぶ。

 しかし、そこで私は見つけてしまった。

 ヒューマンドラマの第一人者、西坂未明という文字を。

 息が詰まる。うまく呼吸ができない。

 震える手でマウスを操作して、慣れないインターネットの情報を辿っていく。

 そうしてネットのなかに私の、松本葉造の名を探し求めた。

 だが世間はこの三か月の間に西坂未明そのものを知り、松本葉造という作家を忘れ去っていた。ヒューマンドラマの第一人者、松本葉造などというフレーズは、もはやどこにも見当たらない。

 すべては、新進気鋭の作家『西坂未明』に上書きされているのだ。

「嘘だろう、あんな女に……。くそぉ!」

 たまらず、私は外に駆け出した。全身が怒りで焼けるように熱かった。

 怒り心頭のまま書店を回り、さらにはコンビニの書籍コーナーの隅々までを調べた。どこに行っても、文芸誌や芸能雑誌の表紙には西坂未明の名が掲げられている。

 そして、松本葉造の文字は、どこを探しても存在しなかった。

 映画化、ドラマ化、マンガ化、度重なる重版決定……。

「これは、かつての私そのものではないか……!」

 売れっ子時代私が歩いてきた栄光の道を、今あの女がそのまま闊歩している。気が付けば私は、コンビニの片隅で、西坂未明を絶賛する週刊誌を握りつぶしていた。

「お客様、あの、そちらお買い上げ頂けるのでしょうか?」

「だまれ! こんなものを買えるか!」

 叫んで、店を飛び出した。

 世の中にあふれる西坂未明の文字から逃げ出すようにして帰った私の家の門前に、ひとつの人影があった。

「やあどうも。松本先生、お久しぶりです」

「お前は!」

 そこには、あの女が立っていた。

 脇坂未明は、三か月前と変わらぬ不気味な笑みをたたえて、玄関の間で私の顔をじぃっと見つめている。

「いやぁ、どうしても松本先生にもう一度お会いしたくて、ここでお帰りを待っていました。あがってもよろしいでしょうか?」

「俺もお前に話がしたいと思っていたところだ、来い!」

「それでは、遠慮なく」

 書斎に入った脇坂は、あの時と同じように手を広げうっとりと書斎を見渡した。私は、そんな脇坂に怒りで顔を赤くして掴みかかる。

「何が尊敬する先生のノートだ! お前は俺の取材ノートを狙って、アイデアを奪うために来たんだな!」

「何をおっしゃっているのですか、先生。私は松本先生の熱心なファンですよ、今でもね」

 顔色ひとつ変えず言う脇坂に、私はカッとなるものを感じた。

「ふざけるな! あのノートを今すぐ返せ!」

「返せと言われましても、あれはきちんとお金を支払ってお買い上げしたはずですが……。尊敬する先生がそこまで言うのであれば、まあいいでしょう」

 そういうと、脇坂は静かにバッグを開きあのときのノートを全て取り出した。三か月前と同じように、そのノートをテーブルに並べていく。

「確かに、お返ししましたよ」

「いいように使ってくれやがって……。金を返せなんて言いださないだろうな?」

「くふっ、まさか」

 空気を吐き出すように低い声で笑って、脇坂がノートに手を置いた。

「もう、私が欲しくて欲しくて仕方のなかった物は買わせて頂きましたので」

「そんなノート数冊の内容だけで、いつまでも作家として成功が続くと思うなよ。偽者め」

「ふふふっ、松本先生は誤解していらっしゃる」

 脇坂は、薄い唇をゆがめて歌うように言葉を続けた。

「私が買ったのは、このノートに込められた若き日の松本先生の『心』ですよ」

「心だと? わけのわからないことを言うな」

「わからない? 先生、それは嘘ですね。先生だって本当は気づいていたのでしょう。私がこのノートを最初に手に取った時、ホコリを払いテーブルに乗せた時、サインを求め差し出した時……。松本先生は何かを感じたはずでしょう?」

「……っ」

 思いがけない問いかけをされ、私は言葉に詰まった。

「胸の奥が痛んだでしょう。心の底が震えたのでしょう。それでも、あなたは売ってしまった。自分の創作の心を、その情熱を。目の前の小銭に目がくらみ、作家としての矜持も志も全てを売り払ってしまったんだ」

「たかがノート数冊で、お前は何を言っている!」

「ええ、たかがノートです。私にとってはね。でも、松本先生にとっては違ったはずです。思いをこめた、駆け出しのころから使っていた創作の原点であり魂だった。その証拠に……あれから何か作品は書けましたか?」

「それは……」

 いつの間にか、額から大粒の汗が流れ落ちた。全身が不快に汗ばんでいる。喉がひりつく。呼吸が浅くなった私に、脇坂がハンカチを差し出した。

「松本先生、ファンとしてご忠告いたしますわ。もうあなたに生きた小説は書けない、永遠にね。転職をオススメしますよ」

 ハンカチを受け取らない私の上着の胸ポケットに無理やりハンカチを押し込むと、脇坂は躍るようにゆっくりと歩きだした。

 書斎を出ていこうとする脇坂の後を、私は慌てて追いかけた。

「おい、待て!」

「……失望しましたよ。先生なら、絶対に手放さないと思ったのに。さようなら」

「手放さない! こうなるとわかっていたら、私は! お願いだ、待ってくれ!」

 足音が遠ざかる。

 玄関ドアが開き、陽光が差し込んでくる。

 黒いシルエットとなった脇坂が消え、ドアが閉まった。周囲は暗闇に包まれた。

 書斎に、静寂が訪れる。

 私は脇坂が置いていったノートを手に取り、ページをめくった。

「私のノート、私の原点、私の思い、私の、魂……」

 若き日の自分自身が必死になって書いた文字が、今はまるで他人の書いたもののようにみえる。いくら読んでも、何も思い出せなかった。どんな感慨も呼び起こされない。

 なぜ、どうしてだ。

 なんで私は、これを売り払うなんてことをしてしまったのか。

 胸のなかに、ぽっかりと穴があいている。

 この穴は、もう決して埋まることはないのだろう。

 悲しみさえも沸きだしてこない胸の奥が、どうしようもなく虚しかった。

「なくしてしまった……」

 涙さえ出てこない瞳で、見知ったはずの見知らぬノートを読み続けていた。

 ふらふらと立ち上がる。今の自分に何が出来るのだろうか。パソコンに向かい、背を丸めて力なくキーボードに指を走らせた。

「私は、どこだ。どこにいるんだ……。どこだ、どこにいる……私の、物語を……」

 なんとかして自分を見つけ出そうと、一心不乱に自らが歩んだ人生の軌跡を描く。

 私が綴る松本葉造が生きてきた物語は、まるで新聞記事のように味気がなく、歴史書のように飾り気のない言葉が並べ立てられている。

 それはもう、物語と呼べるものでさえなかった。

 松本葉造、かつてヒューマンドラマを書かせたら右に出るものがいないと言われた作家。

 私の歩んだ、作家人生三十数年の『記録』であった。

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