第8話 心亡くした志(前編)

 薄暗いほこりっぽい部屋に、たどたどしいタイピングの音が響く。

 私は慣れない小さなノートパソコンの画面を前に眉間にしわを寄せた。

 ディスプレイの明かりを受けた本棚には、ずらりと同じ著者の書籍が並んでいる。

 著・松本葉造。

 かつて、ヒューマンドラマを書かせたら右に出るものはいないと称された天才作家――他でもないこの私自身である。

 二十数年前、携帯電話などほとんど流通していなかった時代、若き日の私は新進気鋭の小説家として文壇にデビューした。

 私がとにかくこだわりをもって描いたものは、男女のすれ違う切ない思いである。

 時間、言葉、場所、お互いの気持ち。

 それらはかつて、今のように手軽にコミュニケーションをとれる時代よりも伝えにくいものであった。携帯電話のない時代の待ち合わせは、待っているだけで心が揺らめく切ない恋物語となりえたのだ。

 私は徹底的な取材により、恋人たちの心と時間のすれ違いとその切なさ・儚さを丁寧に書きつづった。彼らの色あせない淡い思いを、物語にしていったのである。

 その繊細な描写に誰もがドラマ性を感じ、私の小説は何度となくテレビ番組や映画の題材にもされ、大成功を収めた。

「ふう……。今日はここまでにするか」

 私は猫背になっていた背を伸ばし、大きく息をはいた。

 栄枯盛衰。時代の移り変わりと価値観の変化、携帯電話などの普及が私の紡ぎ出す切ないすれ違いを描いた小説からリアリティを奪い去っていった。今では私の作品たちは、時代遅れで現実味のない、有り得ない物語として世に受け入れられなくなった。

 松本葉造の名は、少しずつ地にうずもれていったのだ。

 それでも、すれ違う男女の恋と思いの切なさを描く物語こそが自分の強みであると信じて疑わず、私は自身が紡ぎ出す作品の変化を拒んだ。

 その結果どんなに書いても、編集者が首をたてに振ることはなくなっていった。

 ついには私の物語は書籍にすらなることなく、編集部で企画どまりになってしまうほどまでに落ちぶれていた。

「いつか、いつか必ずまた私の時代が来るはずだ。人間の本質は、変わらないのだから」

 どうしても私は、一世を風靡したという見栄と矜持を捨てることが出来なかった。

 そして、世間がイメージするような成功者として振舞い、派手な外車にのり日々深夜の街で豪遊を繰り返した。私はかつての売れっ子作家だった自身の影を、追い求めていた。

 どうかしていたと思う。

 あるいは私は、絶頂期と変わらぬ生活の中で、かつての自分の輝きを取り戻そうとしていたのかもしれない。

「過去の栄光、か」

 そんな生活のなかで、私の蓄えはあっという間に借金へと姿を変えた。

 売れない焦りと借金苦の重圧が、筆を更に鈍らせていく。いつの間にか、私はどうしようもない負のループに転がりおちていった。


「失礼します、松本葉造先生はいらっしゃいますか?」

 ある日、私の家をひとりの女性が訪ねてきた。

 真っ黒な細身のジャケットに長い銀髪が輝くようになびいている。

 唇は薄く、まだあどけない少女のような雰囲気すらただよわせていたが、真昼間の明かりさえ反射しない深い真っ黒な瞳はどこか大人びて見える。

 小さく開けたドアの隙間から見える女性の笑顔に、私は眉をひそめた。

 編集者が家を訪ねて来ることなど久しくなかったし、取材を受ける予定も入っていない。

 そもそも私は、雑誌などに今の住所も公表したことはなかった。

「どなた様ですか?」

 私は警戒して、ドアを半開きの状態にしたまま尋ねた。

「はじめまして、松本葉造先生。私は脇坂未明と申します。実は私、松本葉造先生の熱心なファンでして、ついここに来たいという気持ちを抑えきれず……。今、お時間よろしいでしょうか?」

 突然の訪問者に戸惑う私に、女性が身を乗り出してしゃべり始めた。

「あ、いけない。私としたことが名刺も出さずに……大変失礼いたしました。改めまして、脇坂と申します」

 押し付けるように差し出された名刺には電話番号すらなく、ただ中央に『脇坂未明』とだけ記されている。非常にシンプルなものであった。これでは連絡の取りようもない。

「君が、私のファン? ずいぶん若い子に見えるけれど、信じがたいな」

「そうです、ファンなのです。松本先生の作品の登場人物は、まるで本当に生きているようです。彼らの呼吸ひとつひとつが伝わってくるような文章たちに、私はいたく感動いたしました。先生の描かれる若者の行き違う思いや届かない言葉は、スマートフォンや携帯電話、インターネットが普及した今でこそ輝いております。無機質になりつつある今の時代にも、いいえ今の時代だからこそ、存分に通じるものがあるのです」

「……そりゃあ、どうも。世間はそうは思っていないみたいだがね」

 深いため息をついた私を無視するように、脇坂という女はさらに身を乗り出した。

「今日はぜひ、尊敬する松本葉造先生の仕事場を拝見し、ご迷惑でなければ、直接先生のサインなどを頂戴できればと思いまして」

「そんなことを突然言われても迷惑だ。ファンだと言ってくれたことは嬉しいが、悪いが今日のところは帰ってくれ」

 ドアを閉めようとした私を制するように、脇坂が声のトーンを落としてささやいた。

「もちろん、いきなりのご訪問でしたから。こちらもタダで見学やサインをお願いしようとは思っておりません。御無礼は百も承知ですので、それ相応のお代は――」

 脇坂は左手にもったビジネスバッグを持ち上げて、私に見えるようにわずかに留め具をずらした。真っ黒なバッグの中から、いくつもの紙幣の束が顔をのぞかせた。ドアを閉めようとしていた私の手が思わず止まる。

「これは、どういう意味だね?」

 私は、自分の声がかすかに震えていることに気が付いた。

「書店や通信販売では手に入らない、憧れの作家先生の秘蔵のコレクション。そういうものがどうしても欲しくって。こちらを拝見して頂ければおわかりになると思いますが、先生にとっても、悪い話ではないと思います。あがってもよろしいですか?」

「あ、ああ」

「それでは、お邪魔いたします」

 にっこりと微笑んだ脇坂が、私が固まったままのドアの隙間からするりと身を滑り込ませるようにして上がりこんでくる。

 脇坂はそのまま廊下を進んでいく。慌ててそのあとを追った。ずいぶんと遠慮のない女である。

 散らかった書斎に入った脇坂が、両手を広げ舞うようにして感嘆の声を漏らした。

「ああ、素晴らしい。本当に素敵です。ここがあの名作たちが生まれた場所なのですか?」

「引っ越してきたのは十五年前だ。それからはずっとここで作品を書いている」

「そうなのですね。いやぁ、かつて何度も小説で読み、ドラマを見て、映画に感動し涙しました。今は幻となっているあの作品たちがここで……。はあぁ、夢のようですね。ここは宝の山だ」

 感に堪えないと言った表情の脇坂。

 しかし私にとってはそれは考えすぎかもしれないが、今となっては廃れてしまった自分の作品たちのふさがることのない傷口に無遠慮にふれられたようでもあった。

「残念ながら、今じゃあただのガラクタの山だよ」

 自嘲的な気持ちになって、投げやりに言う。

「そんなことはございません」

 振り返った脇坂が、口の端を吊り上げた不気味な笑顔のまま私の顔をのぞき込んだ。

「先生の作品はほんの少し生まれ変わるだけで、今の時代でも十分、いいや十二分に……。違う、なんて言えばいいんだろう。最前線で活躍出来るドラマティックな作品ばかりです。先生は何も間違っておりません。きっと編集者が愚かなんでしょう。先生の良さに気付きもしないで、素晴らしい作品たちを眠らせてしまっている」

 脇坂は喋っている間、まばたきを全くしなかった。私は気圧されるような気持ちになって、彼女から顔を背けた。

「君はずいぶんと私の作品を評価してくれているようだが……。認めたくはないけれど、私の書くものは今の時代と合わないのだろう」

「そんなことはございませんわ。なぜなら時代が変わっても、人間の根本は変わりませんもの。等しく無能で、等しく愚かだ。先生はそれをよくご存知のはずでしょう?」

「無能で愚かだからこそ、切ないんじゃないかね」

「まさに」

 私の言葉に、脇坂は何度も頷きながら私の両手を強く握った。

 脇坂の手はまるで体温というものが存在しないかのような冷え切っていて、手のひらを押し付けられた私はその冷たさに全身がぶるりと震える。

「やはり先生は私が思った通りの人です。最高です、あなたのファンで良かった。こんなに幸せなことはありません。ああ、なんて素晴らしい。無能で愚かで、だからこそ切ない。先生のおっしゃる通りです。まさに、まさに」

「それで、脇坂さんと言ったか。君は何が欲しいんだ、サインか?」

 興奮気味の脇坂の様子に不気味なものを感じ始めた私が、話題を先に進めた。

 女性は「そうでした」と言って微笑み、さきほどとは打って変わって書斎を物色するように静かにゆっくりと歩く。規則的な足音が、二人きりの書斎にリズムを刻む。

 やがて、脇坂はひとつの本棚の前で足を止めた。

 私の書斎の一番奥、最も古い本棚の前である。

「ああ、これがいい。これこそ私の探し求めていたものです」

 脇坂が本棚に手を伸ばしかけ、気づいたように私の方へ視線を向けた。

 私が小さく首を動かすと、にやりと笑って再び手を本棚に伸ばす。そして、ホコリを被ったノートの束を、丁寧に取り出した。

 その瞬間、胸の奥がわずかにチクリと疼いた。胸のなかに小さな傷が痛むような、かさぶたに触れられるむずがゆさと痛痒のような感覚がでうごめいている。

「松本先生、もしよろしければ、このノートたちを頂きたいのですが?」

「君は、どうしてこんなものを? ただの古びた取材ノートじゃないか」

「これが、欲しいのです。お譲り頂けますか?」

 つかの間、私は逡巡した。

 今脇坂が手にしているノートたちは、私が小説を書き始めたころに取材に奔走しあらゆることを書き留めたものである。

 若いころ、何度も何度も書き直して読み返してを繰り返しており、その内容はすでにノートをわざわざ見なくてもそらんじていた。

 しかし、あのノートたちはいわば私の創作の原点なのだ。

「このノートたちを……」

 脇坂は、これが欲しいという。しかし、私の作家としての出発点とも言えるそれを、誰かに渡してしまっていいのだろうか。目の前で、脇坂がノートをテーブルに置きビジネスバッグを開いた。

「松本先生の大ファンである私にとって、この取材ノートはとてもとても価値のあるものです。ほかの何ものにも代えがたいですわ。ぜひ私にお譲りください。ああ、いくら出せば足りるでしょうか。どうしましょう、あまりに素敵すぎて、私には見当もつきません」

「このノートたちに、値段など……」

 うろたえる私を上目遣いで見上げて、脇坂がニタリとほほ笑んだ。

「一体、いくら詰めば足りるでしょうか、松本先生」

 耳に絡みつくような甘ったるい声でそう言いながら、脇坂は紙幣の束を二つ三つと積み重ねていく。八つ目の束をテーブルに置き、脇坂が再び私の顔をのぞき込んだ。

「一冊、百万円。松本先生直筆の貴重なノートです。安すぎるくらいではありますが……。いかがでしょうか?」

 私は突然の提案に混乱する頭で、なんとか思考した。

 八百万円もあれば、借金の全額を返すことは出来なくても、数か月分は前倒しで返済することが可能だ。

 そうすれば、しばらくの間は借金のことは頭の隅に追いやって執筆に集中できる。

 脇坂が言うように、もしも今もなお自分のセンスが通用するのであれば、その数か月で大作を書きあげればいい。

 今ならば、無用な意地もはらないで執筆が出来るのではないだろうか。

 時代が変わった事を認め、原点であるノートたちを手放す。

 これも自分の殻を破るために必要な変化なのかもしれない。私は、冷たい汗が流れる顔で脇坂の顔とノート、そしてテーブルに置かれた札束を何度も見比べ――そして頷いた。

「わかった。このノートたちを、君に譲ろう……」

「本当ですか。嬉しいです、先生。そうだ、記念にこのノートに、ぜひ先生の直筆のサインも頂けましたらと思うのですが」

 そう言って、女性が一番上に置かれたノートのホコリを払った。

 私の胸の奥が、再びチクリと疼く。痛みが、より鮮明になった。

 ざわつく胸の内をなんとか押さえつけ、震える手で女性が差し出したサインペンを受け取る。かつて手が真っ黒になるまで取材内容を書きこんだノートの表紙に、震える手でペンを走らせる。

「サインをするのも、いつぶりだろうな……」

 自嘲的な気持ち。数年ぶりのサインは、胸の痛みのせいかひどく字が歪に曲がっていた。

「ありがとうございます、松本先生。憧れ続けた先生直筆のサイン入りノート。大切にいたします。それでは、私はこれで。今後のご活躍を影ながら応援しております」

「ああ。こちらこそ、ありがとう……」

 脇坂の足音が遠ざかり、玄関のドアの閉まる音がした。

 誰もいなくなった部屋の片隅で、私は座りこんで小さく呻いた。

 これで数か月の生活は保証されるだろう。金銭の苦しみからも、解放されるのだ。そうすれば、新作だって書けるに違いない。いきなりの申し出であったが、自分にとっても今の取引は良いことづくめのはずだ。

「これでいい。これでいいんだ。そうだ、間違っていない。これでいいんだ」

 繰り返し自分にそう言い聞かせても、胸の奥の痛みとざわめきが収まることはなかった。

 汗の雫が、ほこりまみれの床に黒いシミを作りだしていた。

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