第5話 引きこもりのカード(後編)

 それから、俺と脇坂という女のドアを挟んだ奇妙な関係が始まった。

 脇坂は片時も目を離さずにドアを見つめているんじゃないかというほどに、俺が『メシ』のカードを差し込むとすかさず食事を運んできた。

「ご機嫌はいかがですか?」

「今日のお食事はいかがでしたか?」

「何かリクエストしたいメニューはありますか?」

 などなど、脇坂は相変わらず不気味なほど透き通る声でドア越しに語りかけてくる。

 所詮ケースワーカーの仕事だろうと、俺はまるっと無視を決め込んだ。

 あの女の言葉に返事をしてしまっては、まんまとあいつの術中にはまったようなもにだと思ったからだ。

 一度使った『メシ』のカードは、夕飯を運んでくるお盆のうえに戻されてきた。

 つまり、朝昼晩と三食分のカードさえあれば、夜には三枚のカードが戻ってくる――食事には困らないというわけだ。そういうところは、案外と考えられている。

 言うまでもなく、俺は一度も『ありがとう』のカードなど使うことなどなかった。

 それどころか、『ありがとう』のカード自体、パソコンゲームに負けた腹いせにゴミ箱の奥に突っ込んだままである。

 ただ、床を何度も乱暴に踏み鳴らす生活からカードをドアの隙間に差し込む生活に変わってから、俺のなかでも少しだけ変化が訪れていた。

 それは本当にかすかな変化ではあるが、気持ちが穏やかなのだ。

 考えてみれば、ある意味で当然である。

 今までは頭に血を昇らせてガンガンと床を何度も踏み鳴らして催促していた食事が、すっとカードを差し込むだけで待つこともなく出てくる。

 ケースワーカーのやり口にはまる気はないが、俺にとってもこの生活は快適な形ではあるのだ。

 脇坂とかいう女の手法を認める気は欠片もないが、この方法は今までのやり方よりもずっと心身ともに楽になったのも事実だった。

「クソッ、クソッ……ああ、イラつくぜ」

 口ではそういってみても、俺はこのシステムが気に入り始めていた。

 そして心なしか、出される食事もいいものになってきているのだ。

 よくよく考えてみればクソババアも楽になっただろう。

 今まではいつ鳴るかわからない床の音に怯えながら慌てて料理を準備していたが、今は平穏にじっくりと飯の支度が出来ているのだろう。

「『メシ』か……悪くねぇかもな」

 椅子に思い切り上体を預け、天井にかざすようにカードを見つめる。

 白地に黒いまるっこいフォントで描かれた、シンプルなカード。

 ああ、こんな方法があったんだな。最初っからこういう風にしていれば、俺とおふくろや親父の関係だってもうちょっと……。

 大きく息を吐いて、らしくない考えを頭の奥に押しやった。

 それでも『メシ』と書かれたカードを捨てる気には、どうしてもなれなかった。


 ある日の夕食のことである。

 いつものように『メシ』のカードを差し込むと、いつも通りに料理が運ばれてきた。

 普段なら「お料理出来ましたよ」とだけ言って去っていく脇坂が、今日は様子が違った。

 脇坂はわざわざドアをノックして言ったのだ。

「こんばんは、板山さん。うふふ、今日はですねぇ、いつもより特別なお料理をご用意しましたから……じっくりゆっくり、味わって食べてくださいね」

 耳元にねっとりとねばりつくような声で言って、脇坂は去っていった。

 俺は脇坂の微かな足音が階下に離れていくのを確認して、ドアを開ける。

 そしていつも通りお盆に乗った料理を部屋に素早くしまい込み、ドアを閉めた。

「特別な料理だと……?」

 パソコンのモニターの明かりしかない部屋で目を凝らす。

 お盆のうえにのせられた料理は見たところ、ハンバーグか何かだろうか。

 これのどこが特別なんだ――?

 顔をしかめて、部屋の電気をつける。

 明かりをつけて確認すると、そこには白い皿にハンバーグが、その横にはポテトとにんじんのグラッセが添えてあった。端っこにはブロッコリーもある。

 妙に赤赤しいデミグラスソースがかかったハンバーグ定食のようなお盆のうえを見て、俺は目を見開いた。

「これの何が特別……あっ」

 なんですぐに気付かなかったのだろう。

 これは、俺がガキのころ大好きだった食事の組み合わせだ。

 学習塾のテストで良い点を取ったとき、俺が学校の先生に三者面談で褒められたとき、俺がちょっと疲れた顔をしていたとき……。

 あのクソババア、いやおふくろはいっつもこれをつくってくれていた。

 ケチャップが大好きな俺のために、わざわざデミグラスソースも手作りで、ハンバーグをソースによく絡めて食うと、本当にうまかったっけ。

 それはあのときのメシそのままだ。これは、あのときの料理なのだ。

「あ、ああ……おふくろ……」

 ポタリと、お盆に何かが落ちた。

 それが自分の流した涙であることに気が付いたのは、ハンバーグを何度もかみしめたあとであった。

 俺は、泣いているのか――。

 受験に失敗して、医大に入ることが出来なかった俺。

 どうしても医大へのこだわりが捨てきれなかったとき、応援してくれた家族。

 それなのに、俺は何もかも世の中のせいにしてバットを振りかざして暴れ回った。

 荒れに荒れて、両親にも無意味に当たり散らし、怒鳴り散らした。

 そんな俺に愛想をつかし、いつしか親父が俺に背を向けて去っていった。

 それでも、どうしようもないダメ人間になり下がった俺をたったひとりで支え続けてくれたおふくろ。

 それなのに、俺は、俺は何をしているんだ……。

 こんな俺を、おふくろはまだ見捨てないでいてくれるのか。

 このハンバーグが、すべての答えを物語っていた。

 あのときよりちょっとだけ味わいが違う気もするが、それは時間が経ち過ぎたせいか、単純に使っている肉の割合が違うのか。いいや、俺の味覚だって、もう十年以上前の記憶なのだ、正確なわけがない。

 なんにしても、おふくろは俺を想ってこのハンバーグを作ってくれたんだ。

「俺は! 俺は……!」

 いますぐ部屋を飛び出して、おふくろにお礼を言いたかった。

 俺が間違っていたと、もう一度すべてをやり直させて欲しいと、今までの俺を許してくれと。伝えきれない感謝と謝罪の想いを、おふくろに届けたかった。

「おふくろ……ううっ、立て、立つんだ俺。今すぐこの気持ちをおふくろに伝えなきゃ、俺を見捨てないでいてくれた、たったひとりの人、おふくろに……うううっ」

 だけど、ああ、俺はなんて意気地がないのだろう。

 十年間もひきこもり、その間ろくにおふくろの顔さえ見ていない。

 その長すぎる歳月が、どうしても恐ろしかった。

 引きこもり続けたこの部屋から出るのが、どうしようもなく怖かった。

 もしもおふくろが部屋を出た俺の姿を見て恐れたら――あれだけ床を何度も踏み鳴らし、怒鳴り散らしバットを振り回したんだ。恐れたってなんにもおかしくない。おふくろは悪くない。

 それでも怖かった。

 おふくろに怯えた目で見られることを考えると、それだけで全身が震えてくる。

 だけど、この気持ちをどうしても届けたい。

 どうすればいい、どうすれば……。

「あっ! あのカード!」

 脇坂が一枚だけ置いていった、『ありがとう』が書かれたカード。

 今こそ、あのカードを使う時なのではないか?

 俺は急いでゴミ箱をひっくり返し、しわくちゃになったカードを丁寧に伸ばした。

 そして、幸せな食事を終えたお盆の真ん中に、そのカードを置いて部屋の外に出した。

 祈るような気持ちで待っていると、ほどなくして静かな足音が近づいてくる。

 おそらく、脇坂のものだろう。

(あのカードが、おふくろの元に届きますように。おふくろの気持ちに届きますように)

 俺はガラにもなく神様にすがるような思いでドアに背中を預け、膝を抱えていた。

 心を開くのが、どうしようもないほどに遅すぎた。

 その思いは全身でヒシヒシと感じている。

 けれどそれでも……新しい一歩を、踏み出せたような思いが心のなかを満たしていた。


 それから、朝も昼も晩も、俺の食事にはハンバーグが届いた。

 きっとおふくろは、あの『ありがとう』のカードを見て喜んでくれたに違いない。

 添えてあるおかずは毎回違ったが、赤いデミグラスソースのかかった大好物のハンバーグがいつもお盆の中心に白いお皿で置かれていた。

 白い皿に茶色いハンバーグと赤いデミグラスソースが映えて、俺はいまだに現役のガラケーを引っ張り出してガラにもなく何枚も写真をとったりもした。

 おふくろの作ってくれるハンバーグは、何度食べてもまったく飽きなかった。

 それどころか、いつまでも食べていたい。そんな気持ちになる暖かなハンバーグだ。

「俺はなんて幸せ者なんだ」

 こうして思うと、なんだかんだいってもあのカードを渡してくれた脇坂にも感謝の気持ちが芽生えてきた。

 さすがは引きこもり相手のケースワーカーというところであろうか。

 あの少々不気味な佇まいや振る舞いにも、きっと何か理由があるに違いない。

 ただひとつ、俺のなかには大きな問題があった。

 最初にハンバーグが運ばれてきたときに出した『ありがとう』のカードが一向に戻ってこないのである。

 もうひとつの『メシ』のカードは夕飯とともに戻されてくるが、いつまで待ってもありがとうのカードは戻ってこなかった。

 今日も、もうすぐ夕飯の時間がやってくる。

 いっそ、手書きでありがとうのメッセージカードを作ろうかと思ったが、十年にわたる引きこもり生活で、俺の心はすっかり臆病になってしまっていた。

 この感謝の気持ちを手書きで上手に書けるのか。

 こんな部屋の中に残ったレポート用紙に適当に書いた言葉で思いは伝わるのか。

 不安で不安で、俺は毎日『ありがとう』のカードが戻ってくることを心待ちにしていた。

 そこで、ふと気付いた。

 これはケースワーカーである脇坂の試練なのではないかと。

 『ありがとう』のカードをお盆に添えるのは、最初の一歩なのだ。

 そして、そこから一歩踏み出して、部屋から出ておふくろにありがとうと直接伝えることこそが、あの女の狙いなのではないだろうか。

 そういう考えに至っても、とくに脇坂には腹は立たなかった。

 ただただ、それが出来ない臆病な自分に苛立ちが募るだけである。

「俺はいつからこんな臆病者になってしまったんだろう」

 脇坂のやり方は、おそらく間違っていない。

 顔と顔を合わせて、心からありがとうと伝えるべきだ。

 それでこそ、本当に思いも伝わるというものだろう。それに、おふくろがここまで想ってくれた今、俺が部屋にこもり続けている理由がどこにあるんだ。

「ありがとう、ありがとう、ありがとう……ありがとう」

 部屋のなかで小声で、何度も反復練習を繰り返す。

 外の世界は怖い。でも、家のなかくらいなら――。

 今日は、今日の夕飯こそは『メシ』なんてカードを使わずに、勇気を出してキッチンの食卓で、母とテーブルを囲むんだ。

 何を話していいかなんて、ぜんぜんわからない。

 だけど、いっそ会話なんてなくたっていい。

 ただ、懐かしいおふくろの顔を見たいんだ。その気持ちが俺のなかに満ち満ちている。

 今、俺はひきこもり生活の瀬戸際で試されている。

 ここで一歩踏み出せるか、このまま部屋にこもり続けるのか――。

 だったら、俺は……!

「おふくろ、どうか怯えないで待っていてくれ。今、行くから」

 出来るだけしわのよっていない服に着替え、何年ぶりかもわからない鏡をじっとのぞき込む。伸び放題だった眉をピンセットとハサミで整え、ひげも同じくハサミで短く刈って、ちょっとでも自分をまともな見た目にする。

 そうして、冷たいドアノブに手をかけた。

 しかし、その瞬間全身に震えが走った。

「この部屋から出る、キッチンへ行く。そこでおふくろにお礼を言うんだ。ありがとうと伝えるんだ」

 どうしようもない緊張に、座り込みそうになる自分を叱咤する。

 ――俺よ、このドアを押せ。

 このドアを開けて、部屋の外に出る。第一歩を踏み出すんだ、行け!

「おふくろ……おふくろ!」

 俺は母親を呼びながら、ずっと閉め切っていたドアを開いた。

 廊下を抜けて、ゆっくりと階段を降っていく。この階段の下へいくのも、およそ十年ぶりか。震えそうな足を心のなかで叱咤しながら、俺は一階へたどり着いた。

 突き当りを左にいけば、すぐにキッチンだ。

 そこからは、ジュウジュウと肉を焼く音が聞こえてきている。

 きっとおふくろが夕飯の支度をしているに違いない。

 俺の姿を見て、驚くだろう。

 部屋から出てきた俺に、おふくろは果たして微笑んでくれるだろうか。

 不安に包まれながらも、俺は意を決してキッチンの扉を押し開いた。

「おふく……えっ!?」

 久しぶりに見る我が家の台所。

 そこには、見慣れたおふくろの後ろ姿はなく、代わりに異様な巨大な影がいた。

 どこかから照らし出されているわけでもないのに、影が不自然に地面から伸びあがり、そしてそれが調理場にのっそりと立っている。

 異常な光景だ。真っ黒で巨大な影が、換気扇に頭をぶつけそうになりながらガスコンロに向かいちまちまと調理をしていた。

「おやぁ、板山さん。ついにお部屋から出ていらっしゃったんですねぇ!」

「ひっ……!」

 喜色を含んだ、飴玉を転がしたような声とともに巨大な影の背中がパックリと割れる。

 その中心から、脇坂がぬるりと顔を出した。

 突然の信じがたい光景に、俺はその場にしりもちをついてしまう。

「くふっ、嬉しいですわぁ。お夕飯を食べにいらしてくださったんですか? でも、もう少しだけ待っていてくださいね。じきに、夕飯が出来上がりますから。あ、今日も板山さんの大好きなハンバーグですから、楽しみにしてくださいね」

「なんなんだよ、お前……それに、料理が出来るって、どういう意味……」

 フライパンからは、相変わらず肉を焼く音がしている。

 キッチンの奥をのぞき込もうにも、巨大な影が覆いかぶさるようになっていてコンロの上を見ることが出来ない。

 ――ハンバーグは、この化け物が作っていたのか?

 そんなバカな、確かにあのデミグラスソースは、おふくろのものだ。

 だが実際に今、目の前で恐ろしい化け物が料理……おそらくハンバーグ作りにいそしんでいる。

「お前、脇坂、おい! このでっかい影はなんだ!? これ、お前の仕業か!?」

「あぁら、こんなもの、どうか気にしないでください。くふっ、くふふっ。あっ、でも、お食事のときにこんなに大きな身体でおそばにいたら、板山さん落ち着かないですよね」

 脇坂が唇の両端を吊り上げるように笑うと、すぅっと影が地面のなかに消えた。

 キッチンには、部屋の前で最初に見たときと同じような、華奢な女性の姿の脇坂が立っている。料理をしながらも、こちらを振り向いてはニヤニヤと気味の悪い笑みを浮かべていた。

「おい、今のはなんなんだよ、ふざけるなよ、くそ!」

 うまく力が入らない足で、転げたまま後ろにずりさがる。

 おふくろは、こんな化け物みたいな女にケースワーカーなんざ頼んだのか?

 ……そういえば、おふくろの姿がなかった。どういうことだ。

 俺は震える歯を食いしばってうなり声をあげ気合いを入れると、立ち上がって脇坂に思い切りつかみかかった。

「おい! おふくろはどこだ!? 俺はおふくろに用があってここまで来たんだ!」

「あらぁ、お料理中にそんな乱暴されては困りますぅ。くふっ、焦げてしまいますわ。板山さんのだぁい好きな、ハンバーグが」

 ハンバーグ、というセリフをねっとりと言い放つ脇坂に、こいつは何かを知っていると俺は確信した。

「お前の焼いているハンバーグなんてどうでもいい! おふくろはどこにいるんだって聞いてるんだよ!」

「えぇ、せっかく初めて『ありがとう』のカードがいただけて、わたくしとっても嬉しかったんですの。ですから、それからこうして、ずうっとハンバーグを焼いてお届けしていました。そうしたら、板山さんが今日お部屋から出て来てくれたんですもの。ケースワーカー冥利に尽きますわぁ。くふふっ、ああ嬉しい」

「無視すんじゃねぇ! おふくろはどうしたと聞いてるんだ! おふくろは!?」

 俺の剣幕をものともせずに、脇坂はハンバーグを焼きながらニタッと笑った。

「あらやだ、板山さん。もう大人なのに、そんなにおかあさんが恋しいんですかぁ?」

「てっめぇ!」

 沸騰しそうなほどに熱い血が、俺の頭にのぼって来るのがわかった。

 どこまでもふざけやがって。こいつ、ぶんなぐってやろうか?

 しかし金属バットを振り回したときの記憶がよみがえる。

 俺が振り上げた手を下ろすべきか躊躇している間に、脇坂はくるんとフライパンのうえのハンバーグをひっくり返した。

 肉の焼けるいいにおいが……ここ数日、ずっと嗅いでいた香りがした。

「これ、お前がずっとお前が作っていたのか、このハンバーグを……?」

「そうですよ。ありがとうのカードを頂いた最初のときからずうっと。私が作っていましたのよ。お気に召してくださったみたいで、とっても嬉しいですわ」

「おふくろは……いや、キリがない、ええい!」

 こいつにどんなに問いただしても無駄だ。

 俺は脇坂を放っておくことにして、廊下に向かい駆け出した。

 その背中に低い、ねばりつくような声が響いた。

「てるてるぼうず」

 振り返る。

 脇坂が、嬉しそうに唇の端を吊り上げて笑っている。ニットの肩の切れ目に手を入れ、そこからなにか白い塊を取り出した。ひもで首をくくられた、てるてるぼうずだ。

「なにを、わけのわからないことをしてんだよ!」

「てるてるぼうず。そっくりだったので、作ってみましたの」

 脇坂の指先で、ひもにくくられたてるてるぼうずがブラブラと揺れる。

 不吉なものを感じて、俺は廊下に飛び出した。

 そのまま、おふくろの部屋の前に向かう。

 おふくろの部屋の入り口のドアの上枠には、脇坂がつくったであろうてるてるぼうずが吊るされていた。

「ちくしょう! あの女こんなところにまで」

 ぶら下げられていたてるてるぼうずを引きはがして、放り投げた。

 おふくろの部屋のドアを開けようとして、ドアノブの冷たさに腕が止まった。

 ――何かがおかしい。

 ドアノブの冷たさも異常だが、部屋からこぼれ出てくる微かな空気が妙に冷たいのだ。

 まるでおふくろの部屋だけ冷蔵庫になっちまったかのように、ひんやりとした空気がドアの隙間から漂ってくる。

 思い切りエアコンでもつけているのか?

 こんな時期にどうして?

 いや、それにしたって――。

 意を決してドアを開く。

 冷たい空気の奔流が、俺の頬を打った。部屋のなかは真っ暗である。

 俺はかつての記憶を頼りに、おふくろの部屋の電灯のスイッチを手で探り、押した。

「えっ……! おふくろ……ウソ、だろ?」

 明かりがついた部屋の真ん中で、おふくろは天井から下げたひもで首を吊っていた。

 ぼろぼろの白いエプロン。あれは俺がガキのころから使っていたものだ。それを着たおふくろが、部屋の中央でひもにぶら下がったまま浮いていた。

『てるてるぼうず』

 脇坂が嬉しそうに言った言葉が、頭のなかによみがえる。

「おふくろぉ!」

 俺は駆け出して、おふくろの身体を抱え上げるようにして持ち上げた。重く、どうしようもなく冷たい。それに、何かがべったりと俺の肌にくっついた。

「なんだよ、これ!? おい、おふくろ! 返事しろ、なぁ、おい! おふくろよぅ!」

「板山さんのお母様、てるてるぼうずにそっくりですよね。ふふっ」

 いつの間にか、部屋の入り口に脇坂が立っている。

 まるでステップを踏むようにゆっくりと部屋に入ってきた脇坂が、俺の顔を覗き込むようにして歌うように言った。

「大変だったんですよぉ、お母様。『私はもうダメ! もう首を吊るしかない、死ぬしかない!』と何度もおっしゃって」

「お前、おふくろからその話を聞いていて、それを止めなかったのか!? どうしておふくろが死にそうになっているってことを俺に相談しなかった!?」

 怒りとともに脇坂に伸ばして手は、ひらりと泳ぐようにかわされた。

「あらぁ、だってぇ……板山さんは金属バットを振り回すばっかりで、ケースワーカーの私のお話なんて、まるで聞いてくれなかったじゃあないですかぁ。意地悪なんだからぁ」

「それは……それは認める! だけど、こんな大問題なら俺だってちゃんと聞いたさ!」

 身を乗り出して叫ぶ俺に、脇坂はふぅっと息を吐いておふくろを指さした。

「それ、板山さんのお母様を蝋人形にしたんですよ。そうすると、死んでも腐敗もしないしにおいもしないので一安心なんです。急いで、においが出ないように内臓の奥の奥まで蝋で満たすのは、とっても大変でしたわぁ」

 さっき触れたねばつくような感触の正体は、蝋だったのか。

 『急いで』におわないようにって、こいつは……!

 ケースワーカーと名乗りながら、依頼者であるおふくろが死ぬのを止めもしないで、さらにその死体をこんなふうに――。

 どうしようもない激情に、俺の声は意図せず大きなものになる。

「てめぇ! ずっと一緒にいたくせに、おふくろが首を吊るのを黙って見てたのか!?」

「ええ、ずうっと見てました。だってお母様の決意はとっても固かったんですもの、もうお止めしてもムダだなぁ、と思ったし」

「説得とかしなかったのかよ、ケースワーカーなんだろ!? お前なら、おふくろの自殺を防げたろ……ああっ! こんな、自殺なんて、くそぉ!」

 自殺と口にしてから、俺は目の前がぐらつくのを感じてその場に膝をついた。

 これは自殺なのだ。

 親父がどこかへ消え、たった二人の家族となったおふくろの自殺。

 十年間引きこもり続けていた自分は、わがまま放題に生きてきた自分はおふくろにそれほど重すぎるものを背負わせてしまっていたのか。

「これでも私、お母様とはたくさんお話しましたのよ。でも、ダメでした」

「何を話したっていうんだよ! おふくろがこんなになっちまう何を話した!?」

「そうですねぇ……例えば」

 ニィっと不気味な笑みを浮かべた脇坂が、膝をついた俺を見下ろすように前に立った。

「例えば、板山さんを説得に向かったら突然金属バットで殴りかかられた、とか」

「なんでそんな、余計なことを……!」

「どうせなにも言わなくても、音で伝わっちゃいましたよきっと。それからですね、息子さんはもうダメかもしれません、とか。このままでは私もお母様も板山さんに殺されてしまうかも、とか。今にバットを持って外に出て大きな事件を起こしてしまうとか、他人様に危害を加えてしまう恐れがあります……とか。そんなお話をたぁくさんしました」

「なっ、なんでそんなことを! お前が、お前がおふくろを追い詰めたのか!? おふくろをこんな状態にまで追いやったのは、お前なのか!?」

 俺のほほに、脇坂の手が触れた。ゾッとするほど冷たい、氷のような手のひら。

 大きな目のなかで、黒い瞳が小さく凝縮する。まるで猛禽類が獲物を見るような眼だ。

 バットを突きつけたときと同じあの目で、脇坂が俺を食い入るように見つめてきた。

「あらぁ、違いますわ。あなたのお母様がこんなになったのは、あなたが十年間もお部屋に引きこもり続けたせいですわ。何度も何度も嫌がらせのように床を叩き続けたせいですわ。あなたが好き勝手している間、お母様の心はずうっと壊れそうなほど悲鳴をあげていたんですよ」

「ざけんなっ! 確かに俺たちは、いや俺はおかしかった。だけどなぁ、お前が来るまでは、そんなめちゃくちゃな形でも俺らの生活は成り立ってたんだ!」

 俺の言葉に、脇坂が声をあげて笑った。

 おかしくてどうしようもないというようにひとしきり笑うを、俺を見下げ果てた眼で見つめて言った。

「くふっ、くふふふふっ、本当に愚かなひとですねぇ、板山さんってば……。『生活は成り立っていた』? 勝手にそう思っていたのは、板山さん、あなただけです。お母様は、もうとっくに限界だったんですよ。どうしようもないほどに限界スレスレだったから、ひとりじゃもうあなたのことを背負いきれなくなったから私を雇った。ほんの少し、ギリギリのところで自死を選ぶ前に、引きこもり専門のケースワーカーを呼ぶという選択肢に至った。最後の頑張りだった、残された一欠けらの愛情だった。それなのに……」

 くふっ、くふっ、と息を漏らして脇坂が嗤う。

 俺をじっと見つめる眼は、先ほどから一度もまばたきをしていない。

 両頬にあてられた手のひらに、俺の頭を挟み込むように力がこもった。

「それなのに、あなたはなぁんにも変わらなかった。私、板山さんにカードを差し上げたでしょう? 『ありがとう』って言う機会を差し上げたでしょう? あれが最後のチャンスだったのに」

「チャンスは活かしただろ!? 俺は色んなものを抑え込んで必死の思いで、感謝を込めて『ありがとう』のカードが出した!」

「『ありがとう』のカード、感動的でしたわ。初めてハンバーグを出した、あの日のことですよねぇ、嬉しかったですわぁ。ねぇ、板山さん。あなたの好物がハンバーグであること、どうして私が知っていたと思います?」

 答えることが出来ない俺に、笑みをたたえたままの脇坂がねばつく声で言った。

「遺言だったんですよ、あなたのお母様の。あの子はハンバーグが好きだから、出してやって欲しいって。もうあのとき、お母様は料理をする気力さえ残ってなかったんです。たった、一日。たった一日あの『ありがとう』のカードを出すのが早ければ、お母様は死ななかったのに……」

「そん、な……おふくろ、俺は、俺は勇気を出して部屋を出てきたっていうのに……」

 コキン、と音がして脇坂が首を九十度傾けた。

 有り得ない角度で曲がった顔のまま、黒い吸い込まれそうな目でじぃっと俺を見つめていた脇坂が、天を仰ぎ笑い出した。

「ぐげっ! ぐげげげげげげげげげっ! たった一日! たった一日で運命が入れ替わった。ああ、なんてかわいそうなお母様。そのうえあなたは私が作ったハンバーグをお母様の手料理とと勘違いして、『ありがとう』のカードを差し込んだ。滑稽だ、ああ滑稽でたまらない。くふっ、くふっ、ぐげげげげげげげげげっ!」

「ひぃ!? なんなんだよお前! あ、ああ……」

 首が折れ曲がり豹変した脇坂から後ずさりして離れると、脇坂が自分の影のなかに沈み込むようにして消えた。まあるい影の跡だけがその場に残っている。

 不意に、その影が縦横無尽に部屋を駆け回った。

「『ありがとう』のカードを出した! ずっと出せなかった『ありがとう』のカードを出した! 自分の母親が作った料理かもわからなかった愚かな男が、私の料理に間違えてカードを出した! 母親の味と勘違いして! そして部屋から出てきた! ぐげげげっ!」

「お前は、いったいなんなんだよ!」

「真っ赤なデミグラスソースは美味しかったですかぁ!? ぎっしりと『肉』のつまったハンバーグは、美味しかったですかぁ!? 感動的に美味しかったから、カードを出したんですよね、ここまで出てきてくださったんですよねぇ、くふっ、くふくふくふくふくふっ!」

 影が天井の中央、おふくろが首を吊っているそばで止まると、そこから脇坂がぬるりと生え出してきた。真っ逆さまになった脇坂の笑みが、ただただ恐ろしい。

 脇坂がおふくろの遺体を、吊られたひもを中心におもちゃのようにクルクルとまわし、はしゃぎ声をあげる。

「ぐげげげげげっ! 板山さん、問題でぇす。あのハンバーグにはなんのお肉が使われていたでしょう?」

 そういうと、脇坂は首を吊ったままのおふくろの背中を向けてきた。

 そこは肉が大きくえぐり取られており、所々白骨が見えていた。

「ひっ!? あ、ああ……まさか、そんな」

「私特性ハンバーグは、豚、牛、の合挽き肉にぃ~そこに特製! 板山さんのお母様のお肉を混ぜ込んだ三種混合肉仕様。黄金比で最高のお味を再現してまぁす! 私のデミグラスソースは市販のおソースにケチャップに、かわいそうなお母様の血を流し込んだ真っ赤な特製! それをあなたは嬉しそうに泣きながら食べて、そしてカードを入れた、泣きながら『ありがとう』のカードを!」

 くふっ、くふくふくふくふくふくふくふくふくふくふっ。

 部屋中に脇坂の含み笑いがこだまする中、俺は頭を抱えた。

 俺が幸せな食事だと、懐かしいと涙を流して食べたハンバーグは――おふくろの血と肉が混ぜ込まれたものだったのか?

「あああ、ああっ、あああああ!」

 俺は何度も地面を叩き、自分の頭を殴りつけた。

 どうしておかしいと気付けなかった、どうしてなにもわからなかった。

 味が違ったはずだ、違和感を感じかけていたのに、それをすべて記憶違いで片づけて。

 本当になにもかも違ったはずだったんだ。

 あまつさえ、俺が涙した料理はおふくろの手作りでさえなかった。

 おぞましく吐き気を催す悪意に包まれた、とんでもないものだったのだ。

 それなのに……。

「どうして! どうして俺はっ! うわぁぁぁぁ! 俺はどうすればいいんだよぉ!」

 悲嘆にくれて叫ぶ俺の頭を、がしりと何かが掴まれた。

 強い力に髪の毛をひっぱられ、強引に顔をあげさせられる。

 脇坂の細い腕が、信じられない力で俺の頭を無理やり引き上げていた。そして、今まで見たこともないような優し気な笑みを浮かべて甘い声で嬉しそうにいった。

「かわいそうな板山さん。そんなに泣かないで。安心してください、板山さん。私とお母様の契約は、まだあと一ヶ月残っていますから。その間、毎日あの美味しいハンバーグを焼いて差し上げますね。さあ、テーブルに行きましょう。お料理が、冷めてしまいますわ」

 のしかかるような脇坂の巨大な影に、俺の身体と意識はゆっくりと飲み込まれていった。

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