第4話 引きこもりのカード(前編)

 空腹でイラついた気持ちを叩きつけるように、乱暴に床を踏み鳴らす。

 二階の自室で、俺は舌打ちをしながら何度も地面に足でノックする。

 一回で食事の準備をする、バタバタと耳障りな音がする。

 俺が床をいきなり叩きまくるのは、この家では俺にメシをよこせという合図だ。

 かつて進学校の中でもトップクラスの成績を収め、将来を渇望されていた。

 しかし医大への受験はことごとく失敗し続けた。

 浪人中だったはずの引きこもり生活も、あれよあれよという間におよそ十年になる。

 一階のクソおふくろ、いやクソババアへの合図はいつしかこんなものになっていた。

 下から聞こえる慌てたような食器同士をぶつけ合う音が、俺の苛立ちを加速させる。

 さらにもう一度地面を踏みつけようとしたとき、部屋のドアがコンコンとノックされた。

 どうやらババアが食事を持ってきたらしい。

 しかし、何か様子が違う。

 変な例えになるが、ノックの音にハリがあるのだ。

 軽快に、気軽に叩いているとでもいおうか。普段のババアならば少しでも俺の機嫌を損ねないように、怯え交じりの弱々しい合図のはずだ。

 しかし、今のノックには怯えの音色は微塵も感じられなかった。

 そもそも、足の悪いおふくろは階段を登ってくるときにうざったい足音を立てていた。けれど、今日はクソばばあが登ってきたような素振りはまるでなかった。

 コンコン、ともう一度軽快にドアがノックがされる。

「ちっ、いったい何なんだよ。あのドアの叩き方舐めてるのか? 気に入らねぇな」

 俺はパソコンが置いてある乱雑に書籍が積まれた机の前からそっと立ち上がり、足音を忍ばせてドアの隙間に近づいた。

 雨戸とカーテンを閉め切った暗い俺の部屋に、ドアの向こうの明るい廊下から光がこぼれてくる。この隙間があいたままのドアもいい加減にして欲しい。

 隙間からは、昼の間中いつも小さく差し込んでいる。とにかく眩しさに目を慣らすようにして、何度かまばたきを繰り返してから隙間をそっとのぞき込む。

 廊下の向こうに、若い女がいた。

 銀髪でツヤのある髪が肩に触れるくらいまで伸びている。

 大きな、黒い瞳。少し薄めの眉は俺好みだった。タートルネックのニットのようなものを着ているが、肩口に切れ目が入っており、白い肌がかすかに露出していた。

 美しく伸びた銀髪が、俺の現実感ってやつを奪っていく。

 こんな見た目の女はパソコン画面の向こうのアニメでしか見たことがない。

 その女の両手は、俺の食事の乗ったお盆を持っている。

 俺は思わず息を漏らしそうになったのを必死にこらえた。

(なんなんだ、あの女は。あんなイイ女が俺の家で、いや俺の部屋の前で何をしてやがる、なんで俺に飯を運んできているんだ? クソババアはどうした?)

 混乱する頭で考えてみるが、どうしても答えは出ない。

 ドアにへばりつくようにしていると、再び女の手がドアへと伸びた。

「板山 直樹(いたやま なおき)さん、お食事をお持ちいたしましたよ。わたくし、板山さんのお母様にご依頼を受けました引きこもり支援のケースワーカーの脇坂未明と申します。以後よろしくお願いいたします」

「ケースワーカー?」

 ネットのニュースサイトの記事でいっとき話題になったのを見たことがあった。

 世の中に引きこもりが増加するとともに、引きこもり支援業者が横行しているという。 奴らは引きこもりを無理やり部屋から引っ張り出して、強制的にどこか知らない場所に連れ込んで生活させる。

 そしてそこで無茶な活動をさせ、安い賃金で名ばかりの社会復帰を仕立て上げるとニュースにもなっていたやつだ。

 もちろん、全部が全部そういうケースってわけじゃあないだろうが……。

 もう一度、ドアの隙間をのぞき込む。

 脇坂未明と名乗った女は、どう見ても華奢な若い女だ。

 万が一あの女が武道かなにかをやっていたって、俺をひとりで拉致出来るとは到底思えない。それとも、俺を油断させるためにこいつが出てきているのか……。

 周囲に誰かいる気配はなかったが、俺は用心のために部屋の角に立てかけてある金属バットに手を伸ばした。

 数年前にこいつを持って大暴れしてやってから、うざったいクソ親父はどこかへ出ていったきり戻ってこないし、クソおふくろは俺の言いなりだ。言うなれば、これは俺のとっておきの武器でありお守りなのだ。

 それにしてもケースワーカーとは。

 それに加えて、あの女のひとを舐め腐った視線。

 こういうやつらには、俺が関わるとヤバイ奴だぞということを最初にはっきりわからせるに限る。

 それにこのままにらみ合っていても、俺はいつまでもメシにありつけないのだ。

 持久戦に持ち込まれたら、向こうの思うつぼなのである。

 深呼吸をしてから、俺はそっとドアを開いた。

 素早く周囲に目配せするが、誰もいない。脇坂と名乗った女ひとりである。

「どうも、はじめまして板山さん。お食事、お持ちいたしましたよ。それと改めまして、これから板山さんの担当をさせていただく脇坂未明と申します。これからもどうぞよろしくお願いいたしますね」

「……アンタさぁ」

 俺は差し出されたお盆を無視して、金属バットを構えた。脇坂に怯えた様子はない。

 妙に楽しそうな笑顔を浮かべ、小首をかしげて見せるだけだ。

 ――こいつは俺を間違いなく舐めている。

 直感的にそう感じた俺は、思い切り金属バットを振り上げた。

 脇坂はバットの先端をじっと見つめて、動かない。

 振り下ろし、目の前でバットを止める。

 それでも、脇坂は微動だにしない。手にしたお盆の食器さえも揺れはしなかった。

 最初からフリだけなのをお見通しですよとでもいわんがばかりに、目が微笑んでいる。

「てめぇ、俺が女を殴れねぇとでも思ってんのか!?」

 腹の底から恫喝の声を出す。

 暴力を振るう、大きな音を立てる、会話が通じない相手だと思わせる。

 この三つが対峙する相手をびびらせるのには最良の方法だと俺は考えていた。

 だが、脇坂は俺の暴力を見切っているかのように笑顔のままである。叫び声にもまったく動じた様子はない。

「板山さん、お元気そうでなによりです。お食事、お持ちいたしましたよ。これからは毎回、私がお食事をお運びいたしますので、よろしくお願いいたします」

「なっ!? ふざけんな! 甘ったれのババアに持ってこさせろよ!」

「お母さまはあまり足がよろしくないようですので、ご了承ください。これからどうぞよろしくお願いいたします」

 最初の言葉をリピートするような脇坂の振る舞いに、俺はカッとするものを感じた。

 その衝動を敢えて抑えることなく、金属バットをもう一度振りかぶり、そして今度は渾身の力で振り下ろした。

 脇坂は羽虫でも避けるようなしぐさで、ひらりと俺のバットをかわす。

 壁に金属バットの当たる音が、廊下中に響いた。

 思わぬ空振りに勇み足でふらついた俺は、体制を立て直して思い切り金属バットを前に突き出した。脇坂の顎先に触れるか触れないかの距離で、バットは止まった。

 やはり脇坂は動かない。あの貼り付けたような笑顔さえ、一度も崩していない。

「どこまでも舐めやがって……こいつを顔面に食らいたくなければ、その食事を持って下に戻れ。料理はうちのクソババアに届けさせろ。なにがケースワーカーだ! お前は不快だ、どっかへ消えろ! ぶっ殺されてぇか!?」

「いえいえ、わたくしケースワーカーとしてお母様に板山さんのことをお願いされましたので。さあ、お食事を受け取ってください」

「俺の話聞いてるのか、このクソアマが!」

 脇坂の顎先に向けた金属バットを思い切り突き出す。

 脇坂はそれを最小限の首の動きで避けると、じっと俺の目のなかを見据えるように大きく目を開いた。黒くて大きな瞳と光彩が収縮し、まるで猛禽類が獲物を見るような鋭い目つきに変貌した。

 口元の微笑みは、消えていない。

「板山さん、お食事ですよ。さあ、受け取ってください」

「うっ……」

 さっきよりもゆっくりと耳から脳に染みこむような声色で呟き、脇坂が俺にお盆を差し出した。

 その様に、背筋が冷える。脇坂は、街中で見かければ振り返って二度見しちまいそうなイイ女である。

 しかし、いやだからこそ、微笑みを絶やさない口元とあの目に不気味なものを感じた。

 さらに一歩、脇坂が俺の前に来る。

 もう少しで、大切な俺の部屋に入り込まれてしまう。

 しかし、こいつにはバットも怒鳴り声もまるで通じない――。

 悔しいが、いったんこいつに対処する方法を考え直すしかなかった。

 俺は片手をバットから離すと、差し出されたお盆を受け取った。そして、さっさと部屋に退散し乱暴にドアを閉めた。

 部屋の外から足音は聞こえない。まだ脇坂とかいう女は部屋の前にいるらしかった。

「クソッ! しつこいぞ! なんだってんだ!?」

「お盆のうえは、見ていただけましたかぁ?」

 間延びした人を小ばかにするような声で、ドアの向こう側で脇坂が言った。

「盆のうえ?」

 脇坂に渡された盆には、いつも通りのババアの食事が置いてあるだけ……のように思えたが長方形のお盆の片隅に、トランプのようなカードがあった。

 地面に座り込んでバットを放り出し、俺はカードに手を伸ばす。

 カードは四枚あった。

 そのうちの三枚には『食事』と書かれており、もう一枚には『ありがとう』と記されていた。

 そしてまるでおまけのように、脇坂未明とだけ書かれたシンプルな名刺までカードの一番後ろに添えてあった。

「ああっ!? なんだこれは!」

「やだもう、そんなに怒鳴らないでください板山さん。それはですねぇ、ふふっ、今まではほら、板山さん、お食事は欲しい時はお母様に向かってとっても元気に床を踏み鳴らしていらっしゃったでしょう?」

 挑発するような物言いに、俺は返事の代わりに壁を蹴りつけた。

「今度から、ドアの隙間からその『食事』と書かれたカードを差し出してください。それを差し出して頂ければ、私がいつでもお食事をお持ちいたしますわ」

「ちっ、めんどくせぇ。床を踏み鳴らしたほうが早いだろうが」

「ですが、いつかは床は壊れてしまうかもしれません。いいんですか? 床に穴があいちゃっても。放っておいたら下から丸見え、床の修理をするならあなたの部屋に業者の人間が何人も入り込むんですよ。引きこもりだなんて言っていられなくなりますよ」

「それは……」

 考えたこともなかったが、確かにこの家はそうとうぼろい。

 俺が生まれたころから建っていたのだから、最短でも築三十年。

 毎日のように床を思い切り踏み鳴らしていたが、言われてみればそういうことが起きないとも限らない。デスクの前に戻り、いつも叩いている床に足を乗せる。

 かすかに、ギシリといやな音が鳴った。

「マジかよ、くそ!」

 俺は舌打ちをすると、ドアの向こうにむけて怒鳴り声をあげた。

「わかったよ! 今度からてめぇの言う通りこいつを差し込んどいてやる。だがな、ちょっとでもメシの時間に遅れてみろ! ただじゃおかねぇからな!」

「わかっていただけて嬉しいです。くふっ、それで、ですねぇ」

 空気が漏れるような笑い声をあげた脇坂が、つぅっと俺の部屋のドアをなぞったような音がした。

「もしも板山さんがお母様に『今までありがとう』という思いを伝えたくなって、でも直接言うのは恥ずかしい……なんてことになりましたら、その『ありがとう』のカードをお盆を戻す際に乗せておいてくださいませ」

「なんだとぉ、俺がババアへ礼を言えって指図してるのか!?」

「くふっ、くふっ。最初はほら、照れ臭いものじゃあないですか。だから、直接言うのは恥ずかしいかなぁって。そんなとき、そのカードをお使いください。あなたの感謝の気持ちが、きっとお母さまにも届きますわ」

 確かに俺は食事を終えたお盆と食器は適当に部屋の前に置いておく。そうするとクソババアがいつの間にか回収していくからだ。脇坂が食事を回収しに来るならば、おふくろよりはるかに静かにそれをやってのけるだろう。

 しかし、食事の盆にに『ありがとう』と書かれたカードを入れろだと?

 このアマは、どこまで俺を舐めてやがるんだ。

「ボケたこと言うのも大概にしろ、脇坂っつったかこのクソ女ぁ! てめぇはケースワーカーだかなんだか知らねぇが、せいぜいババアの手伝いをしてりゃあいいんだよ! 俺に干渉すんな!」

「あらぁ、名前、憶えてくださったんですねぇ。嬉しいですわ」

「あのなぁ。そういうことじゃねぇ、いいか……」

「それでは、これからよろしくお願いいたしますね、板山さん」

 キィ、と一度気障りな音でドアを鳴らして、女の足音が遠ざかっていた。

 俺は「ちくしょう!」と声をあげて床に座り、食事に手を伸ばす。

 うまくもないメシを咀嚼している間、俺は新しく現れたあの得体のしれない女のことを考えていた。

 容姿だけ言えば、とんでもない上玉だ。俺好みの見た目をしている。

 あんなイイ女が俺の身の回りの世話をするっていうんなら、まるで漫画の世界の話のようである。

 美女を侍らせての悠々自適な引きこもり生活も悪くない、という気もどこかにある。

 しかし、あのケースワーカーとか言った女はどうにも得体が知れない。

 俺が喉元にバットを突きつけたときの、あの鋭い目。

 人を小ばかにしたような口調のなかに交じる、頭のなかに染みこんでくるような不思議な言葉と声色。

 それに、振り回したバットをひらりとかわす身のこなしもただのケースワーカーの若い女と考えれば異様である。

「どうしたもんか……」

 俺がこの部屋に引きこもっている以上、あいつはクソババアに雇われたケースワーカーとしてここに通ってくるのであろう。

 しかし、あいつを力づくで脅して追い出そうと部屋を出れば、引きこもり支援という名目で現れたあいつの思い通りになってしまうのではないか?

「ははぁ、そういうことか」

 あの挑発的な態度や言動も、つまりは俺を部屋から誘い出すための罠のようなもんだ。

 それならこっちはこっちで、イイ女に俺の身の回りの世話をさせるという楽しみだけを味わえばいい。だが、本当にそれだけなのだろうか?

 いまひとつ納得しきれない胸のうちを押し流すように、茶碗の白米を口のなかにかきこんで俺はひとつ大きなゲップをした。

 メシをいきおいよく平らげてしまうと、ほんの少し食事を持ってきたあのケースワーカーへの留飲も下がったような気持ちになった。

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