第3話 ドナーの記憶(後編)
意識が戻ったのは、すっかり日が暮れてからのことであった。
時計を見る。病室に戻ってから半日ほどが過ぎていた。やはり、心臓にかなりの負担があったのだろう。胸に重苦しいものを感じる。。
それでも、幸い一命をとりとめたらしい。
医師と家族がそろって面会に来たのは、翌日の陽が傾き始めたころであった。
「上田さん、おめでとうございます。心臓移植のドナーが見つかりました」
満面の笑みで言う医師、ベッドのそばでは妻と子供たちが「あなた、おめでとう!」「お父さん、良かった!」としきりに繰り返し言っていた。
――ああ、きっとあの男だ。あの男の心臓だ。
まだぼんやりと霧がかかったような思考のなかで、私は直感した。
それにしても、あの脇坂という女はいったい何者なのだろう。
今後の手術予定の説明を聞き流しながら、私はそんなことを考えていた。手術への不安感は、なぜかまったくわかない。あの女があそこまでして、すべてを整えたのだ。
あとはただ、移植が決行されるのを待てばいい。それだけ、手は汚した。
その負い目のような感情もまた、手術への不安を打ち消す材料となった。ここまでして、失敗するはずがない。そんな思いに包まれている。
そして私の心臓移植手術は翌日執行され、万事問題なく私は新しい心臓の移植を済ませたのであった。
真っ暗な空間が広がっている。
どこを見まわしても、あたりは暗闇につつまれていた。
おそらく自分は眠っているのだ。
きっと手術の麻酔が効いているのだろう、深い眠りに違いない。
大きな椅子に腰かけるようにして、まるで重力など存在しないかのような浮遊感に包まれたまま周囲を見回した。
何も見えないほどの深い闇。
これが全身麻酔で見ている夢だとしたら、いまごろあの男の心臓が自分のなかに移植されているのだろうか。
待ちに待ったドナー提供者、これから新しい日々が始まるのだ。
それでも、私の気持ちはこの周囲の闇のごとく晴れない。
新しい心臓を手にいれる。喜ばしいことのはずだ。
しかし、両腕にはあの男を絞め殺した感触が今もなお消えることなく残っている。
ふと、自分の腕をさすろうとして身体が動かせないことに気付いた。
四肢が椅子に縛り付けられている。
縄は頑丈で、どんなに身じろぎしても縛られた手足が自由になることはなかった。
「おい、誰かいないのか!? なんだこれは!」
叫んでみても自分の声がむなしく反響するだけである。
不意に、闇の奥から二本の腕が伸びてきた。その手にはロープが握られている。
そっと、ネックレスでもかけるように、ゆっくりと私の首にロープが回された。
「お、おい! まさか、そんな……お前は……」
ロープを握った腕が、少しずつ締め上げられていく。
「かっ……、げほっ! ごぼっ、やめ……ひっ!?」
なんの抵抗も出来ないまま首を締め付けられる私が見たものは、ロープを握って目を血走らせたあの男の顔だった。
「なんで……!? そんな、バカな、あぐっ……」
ゆっくり……。
ゆっくりとロープが首に食い込んでいく。
頭の血がカッと熱くなったかと思えば、すぅっと血の気が失せて冷たくなっていった。
口から無意識のうちによだれが流れ出す。
次第に、声すらあげられなくなっていく。
あらゆる感覚が消え失せていくなかで、どうしようもなく重たくなった頭をがくりと垂らした。私の顎先に触れる冷たい腕の感触だけが、妙にリアルに感じられたのであった。
「はっ!?」
私が目を覚ましたのは、手術を終えた数時間後のことであった。
まだ人工呼吸器も外せない状態であったが、周囲に医師などの姿はない。点滴をされ、奥には看護師がのんびりと動いている様子が見て取れた。
「夢、か……」
――無事手術は成功したようだな。
医師も不在、看護師も落ち着いたそぶりで仕事をこなしている。
その光景を見て、ほっと胸をなでおろした。緊迫した状態にはないということだ。
それにしてもさっきの夢はなんだったのか。
まるで心臓を手に入れるために私がやったことを、夢の中であの男が繰り返しているようであった。信じがたいことではあるが、それは心臓を奪われたあの男が、憎い私に復讐をしているかのように思えた。
首を締め上げられた感触を思い出しぶるりと震えると、脈拍を示す機械がピーと音を鳴らした。
看護師がゆっくりとこちらにやってくる。
「あら、上田さんお目覚めですか。身体の調子はいかがですか? 痛むところはありますか? 移植手術は無事成功いたしましたから、安心してくださいね」
穏やかな声で問われ、私はかすかに首を左右に振った。
さっき見た夢のことが気になったが、とても話せる状況ではない。いや、あんなことは今生誰かに語れるようなことではなかった。
自分の心臓を手に入れるために、自分自身の手でひとを殺したなどと――。
あれは、墓までもっていく話というものだ。
「術後の経過も順調ですが上田さんはまだお疲れのようですから、少し眠くなるお薬入れますねー」
わずかに、看護師が「静脈麻酔薬を……」とつぶやいた声が遠のいていき、私の意識は再び人工的な眠りに落ちていった。
真っ暗な空間が広がっている。
私の四肢は椅子に縛り付けられていた。
さっき見た夢とまるで同じ光景だ。
耳を澄ますと、カツ、カツ……と靴音がゆっくりと近づいてきた。ようやく顔が確認できる距離までやってきたその男の手には一本のロープ。
それを手にしているのは、私自身が脳死に至らしめたあの男である。
「そんなバカな……」
男が私の首にロープをかけ、締め上げる。
縄が食い込む痛みも苦しさも、夢とは思えないほどのリアリティをともなっていた。
「かふっ、あ……、がっ! ぐぅ、あー!」
身体の自由がきかない私は、ただうめき声をあげることしかできない。
男が血走った目に狂気を浮かべてロープを締め付けてくる。
眩暈と吐き気が同時に訪れ、喉の奥が意図せずびうびうと鳴った。
まるで首をもぎ取られていくような苦痛に、私の意識がプツンと途切れた。
「いやだ、やめろっ!」
ベッドから飛び起きるようにして目が覚めた。
私は思わず自分の首筋をさすりながら、辺りを見回した。
手術前とは違う病室だが、すでに人工呼吸器は外されている。
呼吸も、問題なく行えていた。
自分自身の力で呼吸が出来る。その喜びは大きかったが、先ほどの悪夢がその喜びさえ覆い隠していく。
「……今のは夢? またあの夢を見ていたのか」
何本も身体から管が伸びているが、多少の身動きはとれる。白熱灯で照らし出された室内は妙に影を色濃く映し出し、どこか不気味であった。
「なぜ、あんな夢を繰り返し見てしまうのか……」
リモコンでベッドの角度を調整し、身体を少し持ち上げる。
もう一度、首に手を当てた。
自分の選択は間違っていない。こうしなければ、私は死んでいたのだ。
そう自分に言い聞かせ、こわばった身体を少しでもリラックスさせようともみほぐした。
まだ全身に疲労は色濃く残っていた。
臓器移植の手術を受けたばかりなのだから、当たり前である。
もう少し眠るべきか、そう考えてリモコンに手を伸ばし、再びベッドを横に倒す。
眠ることに多少の不安はあった。また、あの夢をみるのではないかと。
しかし、あんなものは偶然に過ぎないはずだ。なぜならあの男はすでに亡く、心臓だけが私の身体で血液を送り続けているのだから。
そもそも、そう何度も続けてあれほどの悪夢を見るはずがない。
怯む気持ちを押し隠すように、自分の身体に毛布をかけて目を閉じた。
そこは真っ暗な空間が広がっていた。
私は、低い声で呻いた。また、あの夢である。
手足は厳重に縛り付けられていて動かせない。
足音が近づいてくる。目を血走らせた、あの男。
「やめろ、やめろやめろやめろ! やめてくれっ!」
静かに首に通されるロープ。
ゆっくり、ゆっくりと締め上げられ、くぐもった悲鳴をあげることしか出来ない。
脳天を焼かれるような苦しみのなかで、私の意識は焼き切れていった。
「はっ、あ、ああ!? あ……」
目を覚ますと、先ほどと同じ病室にいた。自分以外のひとの気配はない。
「また、またあの夢を……」
白と黒で統一された室内。定期的になる機械音。チューブだらけで不自由な身体。
そんななかで心臓だけは元気よく、ドクドクと胸のなかで律動していた。
「あれはただの夢だ、ただの夢だ、ただの夢なんだ……」
何度自分に言い聞かせても、あの苦しさと熱さ、冷たさと眩暈と吐き気は現実のように思えてならなかった。そして私をにらむ、血走ったあの目。
これで、同じ夢を続けて三回目。信じたくはないが眠ることはすなわち、あの悪夢につながっている可能性がある。
眠りはとても浅いものだったのだろう。身体には気怠さが、意識にはまどろみが残っている。しかし、私は再び眠ることを恐れた。
「いったいどういうことなんだ?」
「いやぁ、心臓の移植手術は無事に成功したみたいですねぇ、良かった良かった」
聞きなれた声とともに、ベッドの奥からはいずるように黒い影が伸びた。
ぐるりと人型を描いたその塊から、はらりと銀色の髪が揺れる。
影のなかから現れる、異様に肌の白い女。脇坂であった。
「あんた、脇坂とかいう……」
「いやぁ、その節は大変お世話になりました。上田さんがお元気そうでなによりでございます。いかがですか? 念願の新しい心臓は?」
口の両端を吊り上げるように笑い、脇坂が私の顔をのぞき込む。
「心臓に問題はない。きちんと動いているし、こうして自分の意志で呼吸をすることも出来る。医師には術後の経過も良好だといわれている」
「それは素晴らしい。やはり私の見立ては間違っておりませんでしたね。上田さんのためにきちんとしたものをご用意出来て、大変満足でございます」
くふっ、くふっ、と空気をはじき出すように笑う脇坂の腕に私は手を伸ばした。
「心臓の手術を終えてから、悪夢ばかり見る。これはどういうことだ?」
「悪夢、ですか。ははぁ、それはきっとお疲れなんですよ。元気になればそんなものはどこかにいくでしょう。うん、そう。多分、きっと、くふふ、だいじょうぶですよ」
「ふざけているのか! 私が繰り返し見る夢は……あの男の夢なんだぞ!」
「はて、あの男、と申しますと?」
脇坂が芝居がかった様子で大げさに首を傾げて見せる。
そんな脇坂の様に苛立ちを感じながら、私は周囲に誰もいないか視線をめぐらせてから声を潜めて言った。
「私が、その……首を絞めたあの男だ。脳死させて、あとはお前がどうにかするといった、手足を縛られていた男の夢だ」
「くふっ、くふふふふっ。はっはぁ……その夢のなかで、あなたはどうされているのです?」
「私は真っ暗な空間で、頑丈な椅子に縛り付けられている。身動きなどまったくとれない。そして、闇の向こうからロープを手にしたあの男がやってきて、狂ったように私の首を絞めるんだ。まるであのとき、私がやったように!」
「くふっ、考えすぎですよ。きっとあのことをとても気に病んでおられるから、そのような夢を見るのですよ上田さん」
「それだけで、三回も続けて同じ悪夢をみるものか! それにあの首を締め付けられる苦しさは、ただの夢なんかじゃない。あれはまるで……本当に私が絞め殺されているような感覚だ!」
脇坂は「ふぅーむ」と間の抜けた声を漏らし数度頷くと、おどけてパッと腕を広げて見せた。
「そんなにリアルな夢を見てしまうんなんて、さぞやお困りでしょう。いやぁ、実に怖い。これはホラーだ、超常現象だ。うーん、どうしたものですかね。くふっ、さてさて、それではここでひとつお話をさせていただきたいと思います」
脇坂が私の心臓に指をあてた。
ピクリと心臓が跳ね上がったような錯覚に顔をしかめる。
「記憶転移、とよばれるものがありまして。臓器移植によって臓器提供者の記憶の一部が臓器移植された者に移るという現象です」
「提供者の記憶が、私に移るというのか?」
「はい。あくまで一説には、ですが。そもそもそのような現象事態が存在するか否かを含め、医学関係者などの間では正式に認められたものではありませんが……ひとつお話しましょう」
脇坂はくふっ、と笑い声を漏らすとベッドの周囲をゆっくりと歩き始めた。
「クレア・シルヴィアという心臓の臓器移植を受けた女性の話です。彼女は一九八八年、とある少年から心臓移植を受けました。そして順調に回復していったとき、いくつかの変化が現れたのです。ひとつ、苦手だったある野菜が好物に変わった。ひとつ、ファーストフードが嫌いだったのにチキンナゲットを好むようになった。ひとつ、以前は静かな性格だったのに、とても活動的な性格に変わった」
「そんなバカな! 心臓なんてただ血液を送り出すポンプに過ぎないだろう。移植のせいで食べ物の好みが変わるとか、性格が変わるなどあるわけが――」
「そしてもうひとつ、これが一番重要なんですけどねぇ」
怒鳴る私をさえぎり、脇坂が一際大きな声で言った。
「クレア・シルヴィアは夢の中で臓器を提供してくれた少年と会っているんです」
「夢の中で、臓器を提供した人間と会っている?」
新しい心臓が、バクンと跳ね上がった。
その鼓動が自分のものなのかどうか、私には判別することが出来なかった。
「そう、クレア・シルヴィアは夢のなかに出てきた少年のファーストネームを知っていたのです。そして実際にその家族との対面を果たし、彼が臓器提供者であることを確認している。どうでしょう? 臓器に記憶が宿ると言われる、非常に稀な一例ではありますが……。もしも心臓にも記憶が宿るとしたら、あの男は上田さんにどんな夢を見せるでしょうかねぇ?」
ハッとして口を開いた。
繰り返し見る、首を絞められる臨場感あふれる悪夢。
あの悪夢がもしも、この心臓が見せているものだとしたら――。
「ゆっくりゆっくり、時間をかけて絞め殺しましたもんねぇ。少しずつ血液の流れを断って、脳死にいたらせたのですものねぇ。さぞ恐ろしかったことでしょう、さぞ苦しかったことでしょう。……さぞや、首を絞めていた相手を憎んだことでしょうねぇ」
嬉しくて堪らない、と言った声で脇坂が笑いをかみ殺して言った。
全身から血の気が引いていく感覚。
おそらくあの男は、知っているのだ。
今、自分の心臓がどこにあるのかを。
「ぐ、ぐげ、ぐげげげげげげ!」
カエルが潰されるような声で、脇坂がとつぜん笑い始めた。
銀髪も白い肌も消え失せた脇坂はもはや一体の黒い影となり、床を、壁を、天井を駆け回った。
「心臓は知っている、心臓は知っている! 今、自分が生前自分を苦しめて殺した男のなかにいることを! そして決して心臓は忘れない、許さない、自分の心臓を理不尽に奪い取った男のことを! このままでは済まさない!」
影からぬるりと伸びた手が、呆然としている私のほほに触れた。
「心臓は復讐する! 何度でも何度でも。苦しかった記憶も、恐怖も、痛みもすべて覚えている。だからあなたをその地獄に引きずり込む。何回も何回も。あなたが生き続ける限り、永遠に!」
「ありえない、そんな。あれはただの悪夢だ。単なる偶然だ、そんなことがあるわけない。あんただってどうかしている、おかしい! これこそ夢だ、そうに違いない。これは全部病気が見せた悪い夢だ!」
天井に現れた影から、脇坂の上半身がするりと伸びてくる。
真正面から私をのぞき込むようにして、光を映し出すことのない暗い瞳が見開かれた。
「コレは現実ですよ、上田さん。賢明なあなたはもうわかっているハズだ。そうでしょう。その証拠にあなたは眠ることを恐れた。夢の中で何回も苦しめられたんでしょう、いたぶられたのでしょう。新しい心臓はきっと長い間活躍してくれますよ。だってあんなにひどい殺され方をしたのだから。すぐにあなたを殺すなんてことはしないでしょう。ジワジワ、ジワジワとあなたを蝕んでいく。そうしていつかあなたの精神が正気を失うまで、その心臓はずぅっと一緒だ」
「お前はいったい何者なんだ!?」
すとんと、影が床に落ちた。
地面から、顔だけを覗かせた脇坂がニヤリと微笑んだ。
「さようなら、上田さん。どうか、長生きしてくださいね」
そう言って、脇坂はベッドの影の奥へと消えた。
病室に取り残された私は愕然としたままずっと時計を見つめていた。
夕日は落ち、夕食の時間が終わり――。
もうすぐ、消灯の時間がやってこようとしていた。
今夜は眠るまい、そう思っても次第にまぶたが重たくなっていった。
大手術のあとで、身体が睡眠を要求しているかのように気怠くなっていく。
眠ってはダメだ。
そう思えば思うほど眠気が増し、意識が遠くなっていく。
一瞬、意識が途切れた。
次に気が付いたとき、私は頑丈な椅子に四肢を縛り付けられていた。
ああ、今夜もあの夢が始まるのか。
近づいてくる足音に、私は大きな絶望に飲み込まれていった。
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