第6話 感情を捨てる女(前編)
あの日捨てた、たった一枚の紙切れ――。
何気なく捨てたあのひとひらが、私の運命をこんなにも狂わせてしまった。
取り返しのつかない片道切符は、あっさりときられてしまっていた。
それでももう、私の心は……。
「お待たせしました。次の方、どうぞ」
殺風景な待合室の椅子で順番を待っていた私を、よく通る涼し気な声が呼ぶ。
カーテンと簡単な立て板で仕切られた薄暗い部屋に入ると、華奢な女性が口元に笑みをたたえていた。
特徴的な銀髪が黒々とした濁った瞳を半分ほど隠し、口の端を吊り上げるようにして作られた笑み以上の表情は読み取れない。全身黒づくめの衣服のなかに垣間見える肌は、異様なほどに白い。
「たいへんお待たせしました。さあ、こちらへ」
「はい、失礼いたします」
細く長い指先で椅子を指し示され、私は言われたままに腰かける。
目線が同じ高さになると女性がもう一度微笑み、丸いテーブルのうえで手を広げた。
「わたくし、占い師の脇坂未明と申します。本日はどうぞよろしくお願いいたします。それでは、まずはあなたの――月城都子さんのお話を聞かせてください」
「占うのではなく、私の話をするのですか?」
「ええ、どのように占うかはそれからです。占いにも相性がありますから」
ここは都内でも人気の占いの館である。
館といっても寂しい雑居ビルの一角にある小さなものだけど、口コミで評判が広がっている。都会の端っこの吹き溜まりにあるここは、知る人ぞ知る名店となっているという噂だ。
私は就職してからずっと胸につかえている悩みを、俯きながら話し始めた。
「あの、私、これから職場でどうやって仕事をしていけばいいのか悩んでいて」
「ふむふむ。悩むということは、職場でなにか問題を抱えているのですね?」
「上司と……。直属の女性の上司とうまくいかないんです。何かにつけて私に絡んできて。きっと目をつけられているんだと思います。入社以来ずっと、重箱の隅をつつくような指摘を毎日繰り返されて、とても息苦しいんです」
「なるほどなるほど、上司との間に問題を抱えておられると。それは困りましたね」
女性は指先でトントンと机を叩くと、口元に手を当てて口角をあげる。
「そういったトラブルでしたら本来ならば、その女上司さんのお考えが変わってくれることが最良なのですが」
「それは……難しいと思います。もうずっと、今の状態が続いてますから」
「それならば、解決方法はただひとつ。月城さん、あなたの方が上司と関わるのをつらいと感じる気持ちを捨ててしまうしかないですね」
「つらいと感じる気持ちを、捨てる?」
このひとは何を言っているのだろう。それが簡単に出来るなら、そもそもこんな場所まで足を運んでいない。
しかし脇坂さんは眉を寄せた私に向かい、にっこりと微笑んで頷いて見せた。
「そうです。人間というものは実に不思議なものでして。周囲の環境をなんとか変えようと思ってしまえばそれは大変な労力を伴うことになります。とても難しいうえに、うまくいくかもわからない。割に合わない作業です。けれど」
言葉を切ると、彼女は私の方にそっと白く細い腕を伸ばした。
「自分自身が気持ちを捨てることは簡単に出来る。貴女自身が『上司に責められてつらい気持ち』を捨て去るのです。そうすれば、貴女の日々は穏やかで優しい、とても気持ちの良いものに一変するでしょう」
脇坂さんの言うことはまるっきり理想論で、人間の感情というものを無視しているように感じた。捨てることが簡単に出来るなら、何も苦労はしていない。
私は一瞬零れ落ちてしまいそうになったため息をなんとか抑えた。
あなたがつらい気持ちを捨てれば?
言われるまでもなく、そんなことが出来ているならとっくにやっている。そもそもこんな場所にも来ていない。私の表情の変化を感じ取ったのか、目の前の占い師は大げさな素振りで自分の胸に指を置いた。
「もちろん、本来人間の気持ちというものは割り切るのに苦労するし、捨てにくいものです。それが相手から押し付けられるネガティブな感情から来るものなら、尚更です。だけど、自分の感情を上手に処理することが簡単に出来てしまう方法があるのですよ」
そう言って彼女は、マグカップほどの大きさの木編みのかごを取り出した。
「これは?」
「簡単に言えば、魔法のゴミ箱ですよ。ここにあなたの捨てたい気持ちを書き記した紙を投げ込めば、たちまちその気持ちを捨てることが出来る。そんなゴミ箱です」
「ここに捨てればつらい気持ちが消える? おまじないみたいなものでしょうか。でも信じがたいです、だってそんなに簡単にいくわけないじゃないですか」
「まぁまぁ、そう言わず。なんなら試しにひとつ、やってみませんか?」
「やってみると言われましても……」
戸惑う私の手元に、脇坂さんがペンと細長い紙を置く。
机のふちに引っ掛けた指をどうしていいか戸惑っていると、彼女がにこりと微笑んだ。
「さあ、一種の願掛けのようなものだと思って、やってみましょう」
長い前髪の奥で、大きくて黒い瞳がきらりと輝いたようであった。
その眼でじっと見つめられると、不思議と反発していた気持ちが霧散してどこかへ消え去っていく。
私は操られるようにペンに手を伸ばした。紙を前にして、何を書くべきかと迷っていると「『上司に絡まれてつらい気持ち』、と書いてください」と促された。
言われるままに私は『上司に絡まれてつらい気持ち』と紙に書き記す。
あやつられるようにして書いた文字は、ひどく震えていた。
脇坂さんはひとつ頷くと、小さなゴミ箱を私の前に差し出した。
「さあ、その紙を小さく折りたたんで、このゴミ箱の中に捨ててしまいましょう」
まるでごっこ遊びである。それでも促されるままに、私は書いた紙を小さく折って差し出されたゴミ箱に放り込んだ。
その瞬間、心のなかに涼しい風が吹き抜けた気がした。
それはもちろん気のせいに違いないのだろうが、不思議と心地よさをともなった感覚に私の気持ちは少しだけ軽くなった。
「いかがですか? 月城さん」
「不思議な感じなんですが、ゴミ箱に紙を捨てたら、少しだけ気持ちが軽くなったような気がします」
「それは良かった。では今日はここまでにしましょう。もしも月城さんの気が向きましたら、また私を指名してください。私はいつでもここでお待ちしておりますので――」
そういって、脇坂さんは名刺を差し出した。
白地に黒い文字だけのシンプルな名刺には、脇坂未明という名前だけが記されていた。
「はぁ。ありがとうございました」
占いというよりも儀式だったな、そんなことを感じながら私は脇坂さんに頭を下げた。
名刺を受け取って立ち上がるともう一度お辞儀をして、薄暗い部屋をあとにして家路についた。
心のなかを吹き抜けていった、この奇妙な感覚はなんなのだろう。そんなことを思いながらマンションの自室でベッドに横たわると、睡魔はすぐに私のそばへやってきた。
翌日、会社に出勤した私のもとにさっそく問題の上司がやってきた。
相変わらずにらみつけるような目付きをして、眉間には深いシワを寄せている。
ハイヒールをわざと大きな音で鳴らしながら近づいてくる上司に、私は心のなかでため息をついた。
「月城さん、昨日あなたが作成した今期の決算に関する書類だけどね」
私のデスクに無遠慮に書類を広げ、上司が一方的に説教を始めた。
重箱の隅をつつくような指摘に、また今日も一日いじめられるのだと身を固くする。
しかし――。
いつもならばめまいや息苦しささえ覚える、まとわりつくように執拗な上司の説教が、今日は私の気持ちを全く乱さないのだ。
どんなに強い言葉を言われても、顔を覗き込むようににらみつけられても、私の心は微塵も痛まない。時折かすかな驚きや恐怖心がわきだしても、それすら心の中に吹く涼しい風がさらりとかき消していってしまう。
あれほど辛かった上司の詰問の時間が、今の私にはなんともない。
「とにかく! ミスをするなんて論外! どんな些細な間違いだって許されないんだからね! ちゃんと自覚を持ってやってちょうだい!」
上司がそう言い残して背中を向けると、私はなんだかおかしくなって小さく微笑んだ。
あれほどつらかった時間が、ウソのようにあっさりと過ぎ去っていく。
「これも、あの奇妙なゴミ箱のおかげなの?」
昨日、紙に書いて捨てた気持ち。
『上司に絡まれてつらい気持ち』。
その思いが、今はどこからもやってこない。胸のなかにあるのは昨晩ゴミ箱のなかに紙を捨てた時に感じた心地よい風と、つらい毎日から解放されるかもしれないという、晴れ晴れした思いだけであった。
「あ、あの、月城先輩……」
清々しい気持ちで自分の席に座り直すと、今年入ったばかりの新人の女の子に遠慮がちに声をかけられた。
とにかく仕事が出来なくてどんくさい子で、だけど顔だけは可愛いので男性社員からはチヤホヤされる。そのせいで、この子はまるで成長しない。お嬢様大学出身の、世間知らずな子であった。
「業務発注書の書類で、わからないところがあって」
「はぁ? わからないって……それはこの間も教えたでしょう!」
「ごめんなさい……」
消え入りそうな声で俯く新人を見て、私の心に苛立ちが募った。
どんなミスをしても男性社員たちが笑って許すせいで、この子はろくに仕事を覚えやしない。そのくせ、いつでもだれにでも可愛がられる女。
私がもう一度書類の書き方を教えても、彼女は頷くばかりでメモすらとらなかった。
「ねぇ、私何度も教えるのイヤだから、教わるときくらいキチンとメモしてくれない?」
「えっ、メモ……ええと、あの、はい」
新入社員は業務書類を裏返して、その白紙にボールペンを構えた。
思わず怒鳴りつけそうになった気持ちを抑え込み、無言でメモ帳を押し付ける。
今まで上司にぶつかられてヘトヘトだった気持ちに余裕が出来た時、私の胸はこの出来損ないの新人への苛立ちで心の隅々まで満たされていった。
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