第2話 家出少年

 こうぼうはしばらく木影から少年を眺めていた。少年の頬張るサンドウィッチが長年追い求めてきた宝物のように光って見えた。こうぼうは無意識に木の幹から手を離すと、そのまま柵をまたぎ、公園の砂利道へ足を踏み入れた。ジャリッジャリッと、こうぼうのサンダルが鳴らす音だけが一帯に響き渡り、少年に近づくにつれその音は大きくなった。少年の腰掛ける木製ベンチの前まで来て、こうぼうは意識を取り戻した虎のようにハッとして自分を顧みた。あたしったら、何をしているのよ!これじゃあまるで理性を忘れた獣じゃない!空腹に身を任せて、まだ自分の半分も生きていないガキの前に突っ立ち、口の中をよだれで満たしながらじっとサンドウィッチを見つめている。こんなの乞食と一緒じゃない!あぁ恥ずかしい!

 こうぼうは羞ずかしさで顔から火が立ちそうな心持であった。自分が空腹に耐えき れなくなり、見も知らぬ少年に食料を求め近づいてしまったことに。また、そんな年の離れた者に物乞いの言葉ひとつ言い出せぬ自分の自尊心のさもしさに。そして、そんな少年にじっと見られているのも堪らなく恥ずかしく、けれど腹の虫は治まらぬから引き返すこともできず、苦悶の表情で少年の前に立ち続けるしかない。この状況はどんなに世を捨てて自由気ままな生活を送るこうぼうでもそれなりに思うところがあるらしく、さっさと踵を返して残飯漁りに勤しむかと、冷や汗の湧き出た額を素早く拭っていると、それまで口を開かずただこうぼうをじっと眺めていただけであった少年が

「食べる?」

と、左のランチバックから新たなサンドウィッチを取り出して、こうぼうの眼前に突き出した。

ベンチの頭上を覆う裸木の細長い枝が、ちょうど少年の伸ばした先からは途切れ、掌にのったサランラップが、真南から少し外れた太陽に煌めていた。こうぼうは少年のサンドウィッチが、久しく追い求めてきた極上の一品のように思えてきて、涙が零れるときの震撼を味わいながらそれを手に取った。



「なによこれ、チェーンが外れてるじない」

こうぼうは少年の腰掛けるベンチから立ち上がると、隣にもたれていた自転車のタイヤ部分にうずくまり仔細にそれを見入った。こうぼうの座っていたベンチには、先ほど彼が平らげたサンドウィッチの残骸であるサランラップのハギレが陽光に光っている。少年はその隣でランチバックを折り畳み、膝下に置いた緑色のノースフェイスのバックに詰め込むと、黙ってチェーンを弄っているこうぼうを一瞥いちべつし、

「無理だよ。ちゃんと修理に出さないと動かないんだ」

と言って微笑した。

「何言ってんのよ。あんたにもあたしにもそんなお金はないのよ。だけど、そうね……恩返しってヤツよ。あたしだってタダで飯食おうって算段じゃなかったわ」

こうぼうにそう言われ、少年は黙ってジャンパーのポケットからなけなしの千円札二枚と小銭を取り出して、黙ってこうぼうの顔前に突き出す。掌を真っ黒にさせながらチェーンを動かしていたこうぼうはそれを見やり

「なによこれ」

とぶっきらぼうにいった。

「お金」

「そんなの知ってるわよ」

「直してくれるから」

「まだ直せてないじゃない」

こうぼうは言いながらも手を動かし、隣で静止している少年の掌から百円玉をつまむと、黙ってそれを弾いた。砂利に落ちた硬貨が、そのまま小気味よく弾んで少年の前に転がった。

「バカにしないでよね」


 こうぼうはそう言って修理に戻った。少年の俯いた表情が視界の端で動いたような気がした。彼は少年の親切な心意義に感謝し、無邪気にほほ笑んで紙幣を受け取ろうと考えたが、手を出す寸前のところで彼の脳内に、自分よりひと回りも小さい人間にお金を貰うなど恥ずかしくないのかと、何ものかの囁きが聞こえて手を引いてしまったのである。確かにこうぼうは定職に就かず、己の欲望のままにサンドウィッチを受け取り、少年の進めるままに二つと平らげてしまったが、それとこれとは話が別でありこうぼうが少年の壊れた自転車を修理する義理はなかった。こうぼうが食する間、少年は傍らで家出をした経緯を語り、朝早くから僅かな食料と自転車一台で家を飛び出してきてしまったと俯きながら告げ、そんな道中でチェーンが外れてしまい途方に暮れていたところ、こうぼうが目の前に立っていたのだと笑いながら述べた。少量の小遣いは雑費に当ててしまい、修理する金のない現在の状況では、もうどうすることもできないのだと、悲し気に答えて見せた少年の顔が、海辺の風景のようにこうぼうの脳裏にいつまでも映っていた。そんな少年の心中を推し量り、チェーンの取り付けくらいあたしにもできるわいと、自分から修理を買って出たのはいいものの、手を動かすにつれ自然と、今自分は何倍も料金のかかる修理屋と同じ作業しているのであり、その仕事に少なからず対価が支払われても当然ではないかと、薄すらと思考の端に欲を浮かばせてみるが、いや、まともに仕事もしていないのにお金を突き出されるほど、自分を落ちぶれていないのだと、崩れてきた自尊心を何とか立て直し、真冬にもかかわらず額に汗を滲ませながら、こうぼうはギアを回し続けたのであった。

 二十分ほどその場にうずくまり、柄でもなく苦悶の表情でチェーンを曳いていると、こうぼうの頬に冷たいものが触れた。

「なによこれ」

「お茶」

「見ればわかるわよ」

「飲みたいかなと思って」

少年のその口ぶりにこうぼうは顔を上げると、黄色い歯をむき出しにして笑った。握られた五百ミリを乱暴に受け取って、息することなく一気に飲み干した。咽喉のどを伝う雄々しい小音が、こうぼうと少年しかいない公園に寂しく響いていた。


 こうぼうが汗水たらして処置した少年の自転車はついに直ることはなかった。二人は仕方なく西日の当たり始めた公園を離れ、石塀の続く街路を歩き出した。行く当てのなくなった少年に、こうぼうは今晩は家に泊めてやると言って、未だチェーンの外れている自転車を押してやる。修理する金を持っていない少年は、このまま家に帰れば母親に気づくことなく事を終えられる気がして、一旦はこうぼうの誘いを断ったが、茜色に染まりだす家々の懐かしい風景と、隣で掌を黒々と汚しながら自転車を曳いているこうぼうを眺めていると、常日頃から家族に対して抱いてきた憤懣ふんまんが、キャンバスに広がる絵具のように静かに少年の身体に周りだし、一昨日母親が口にした言葉を思わず呟いていた。


「そんなこと言うのなら辞めてしまいなさい」



 少年は地元の中学に通う二年生だった。印刷会社に勤める父親と、週一回のヨガレッスンが楽しみな母親の下で生まれた。家には少年の他に小学三年生になる妹と、一年になる弟の二人がいた。妹の方は順風満帆な性格で、グラスの学級委員を務めているのだと、夕餉の席で楽しそうに語っていたことを想い出す。小学一年生になる弟の方は生まれつき物覚えが悪く、産後異変を感じた母親が精密検査を受け、軽度の知恵遅れだと診断されたことを覗けば至って普通の男の子であった。彼の趣味は専ら絵を描くことで、家じゅうのいたるところに彼の絵画が額縁に嵌められ、絵具をぐしゃぐしゃに混ぜ合わせたようにしかみえないその抽象画を指さして、「これは一体なんなの」と少年が尋ねても、弟は「わからない」と言っていつも首を横に振るのだった。

 父親は朝早くから仕事に出かけ、少年らが寝静まる頃に家へ帰ってきた。母親は週四日、十四時から十八時まで近所のスーパーに勤め、残業と買い物を終え帰ってくるのは二十時近かった。そのため帰宅した下二人の世話をするのはいつも長男である少年の役目であり、彼はそのことについていつも憤懣やるかたない気持ちを抱いていた。最初に家に帰ってくる弟は、ソファへ着くなりテレビのリモコンを点けると、もう何遍と観たであろう録画した昨月のアニメに見入りその場から動こうとしない。珠に立ち上がることがあれば、それはトイレか冷蔵庫にある飲み物を取りに行く時で、その帰りには必ず三人分のおやつを抱えてソファへ戻ってくる。透明な楕円の小机はすぐに袋でいっぱいになり、塵とカスがフローリングに舞って砂のように張りつく。三年生の妹が掃除当番を終え帰宅する頃には、机上に打ち上げられた三人分のおやつはすっかり弟の胃袋に収められ、それを見た妹はすぐさま彼の腕に噛みついて、子供二人しかいない家の中は嬌声きょうせいで溢れかえるのであった。

 夕方、五限目の授業を終えた少年が帰宅すると、家の中は大混乱のありさまで、居間に続く台所には水が垂れ、ソファ横の机はひっくり返り、ダリヤの挿してある窓際の花瓶は大抵が横になっているか割れているかで、床に散らばった兄弟らの衣服に紛れて破片が判別できなかった。少年は身に沁み込んでくる絶望をため息で抑え、リビングに蹲って静かに泣いている、汗と涙で赤くなった妹をすぐさま宥め、幾度となく交わされ続けてきた諍いの決着の付かない経緯を親身になって聞くほかなかった。二階の自室に閉じ籠ったきりで、未だ喚き騒ぎ続けている弟には、何があったのかと聞く気力すら湧かなかった。


 母親の帰宅する八時までに収拾をつけるのも少年の役目であった。泣き止まぬ妹を自室のベッドで寝かせ、明日までの課題が入った鞄を机上に置き、晴れぬ気分のまま荒れ果てた家を掃除するのは、思春期に差し掛かった少年の心に黒々と因縁めいた感情を込み上げさせた。僕がどんなに掃除をしたところであの花瓶はもう元には戻らないであろう。ダリヤの生けられた薄茶色のその花瓶は、いつの日か母親は陶器市で買ったと言う掘り出し物で、窓から差し込む光の具合で色が若干変わるのだと、嬉々とした語り口調が鮮明に蘇ってくる。きっと家に帰ってきた母親は窓際を一瞥すると、黙って夕食の準備に取り掛かるであろう。そのまま形だけ和やかな夕餉が済み子供二人を早々に寝かせると、直ぐ少年の部屋に声を掛ける。

「祥樹、ちょっといらっしゃい」

 少年は課題をする手を止め一階の居間へ降りてくる。つい数時間前の出来事なのに飄々とした表情で、「何かあったの?」と傾げて見せる少年の顔前に、ビニール袋に入れられた花瓶の残骸を指さして、「説明して」とだけ呟いてみせる。今にも怒りが爆発しそうなその口調は低く、広がりを持って目を合わすことのできない少年の未発達な身体に染み入ってくる。ひとたびそれを認めれば、堰を切ったように溢れ出す叱責しっせきの熱気が、向かい合った二人だけの空間に、息伝いのようにはっきりと肌を撫ぜるのを少年は感じていた。


 父親の帰ってくる夜半やはんまで母親の叱責は続けられた。下二人の兄弟が花瓶を割ったのは、普段から彼らを躾けていない少年の責任であり、言い訳は免れない。家で喧嘩をするのならば、各々の自己責任であり、決して物に当たってはいけないと、そう口うるさく言い聞かせればよいのに、それをあなたは一言でも彼らの前で言ったことがあるのか。時には手を出して、強く相手の心に踏み入ってそれを阻止しようと努めたことはあるのか。弟妹らの喧嘩はしょっちゅう家で起きていたが、あなたは部屋に引きこもり、見て見ぬふりをしていたのではなかったか。それもこれも、全ては日頃の行いが悪いせいであり、弟妹に対する少年の面倒見の悪さ、監督不行き届きもいいところだ。と、母親は感情を剥き出しにして少年を叱りつける。耳まで真っ赤にし、手元ではダリヤの花弁を一枚一枚執拗に千切っていくその様子は、普段の母親の姿からは想像も出来ぬほど醜かった。少年はそんな母親を見つめ、彼女が日々努めるスーパーのパートが、思いの外精神の重荷になっているのではと考えた。週四日勤める母親のパートは家庭を支えるための大きな収入ではなく、趣味であるジュエリー集めに捻出されるものであり、少年ら家族のために使われることは殆どなかった。従って母親の勤めというのは、趣味へ投資するための金策と、単なる暇つぶしに過ぎないのだ。そのくせ家に帰ってくると、お腹を空かせた息子たちのために渋々夕食を作り、それが終わってようやく一息つける頃になると、父親の酒瓶を手に取って、細やかな晩酌を始めるのだった。その肴はというと専ら勤務先の悪口で、やれ客のだれだれが嫌いだとか、パートの時給が他店と比べて安いのだとかというもので、終いには同僚の罵詈雑言へと変わっていく。そんな母親の酒癖の悪さは、花瓶を割らせたことによる後ろめたさを感じている少年の前で爆破し、的外れな叱責に発展していったのであった。普段から表情を表に出すことが苦手で、口答えもせず黙って聞いているだけの自分は、日々の鬱憤を晴らすのには丁度いいのであろうと、尚も叱り続ける母親に適当な相槌を打ちながら少年は思うのだった。けれどそんな母親も帰宅した父親が仲裁に入る頃にはすっかり力を失くし、風呂に入るからと言って寝室に去ると、その日は姿を見せなかった。翌朝、登校の時間なり顔を合わせると、何事もなかったかのようにケロッとしているもだから、少年の母親に対する憤懣は日々募るばかりであった。

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ホモと見る「特大ギャル捕獲作戦」の終焉 なしごれん @Nashigoren66

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