ホモと見る「特大ギャル捕獲作戦」の終焉

なしごれん

第1話 家出少年

 こうぼうあべはホモである。よわい三十五というのに定職にも就かず日中ぶらぶらと町を彷徨っているあぶれ者である。骨と皮だけの薄弱な身体に穴の開いたタンクトップをぶら下げて、行き交うサラリーマン風の青年に「ぽこちんおったててんじゃないのよコノヤロー」と激しく捲し立てることが日課な、酒好きの世捨て人であった。


 彼には同棲しているカレがいた。私鉄の高架下に佇む小駅から、自営業の飲み屋が幾つも連なる細い小路を縫い、幹線道路に出たところから直線で橋を渡った二つ先の交差点の左に聳える賃貸マンションの五階に二人で住んでいた。彼は初対面の人には必ず右のような説明をすることにしていて、そんな時には必ず、彼の隣で訝しそうな目つきを絶やさないボーイフレンドの入江ざぶざぶ郎は「実存は本質に先立つのではなく、米の上にご飯が立っているのだ。即ち午後の紅茶は午前に飲んでしまっては意味がないのだ」と言ってメロンパンの上の部分だけ煩わしそうに千切るのだった。


 二人は常にギリギリの生活を送っていた。こうぼうあべの収入はなく、僅かな貯金の大半も先月ギャンブルの返済に費やしたために底をついていた。そのため二人の生活の全ては入江ざぶざぶ郎の月一で連載されているコラム「ノーベル賞の取り方」に懸っていた。二年前から始まったこのコラムは、入江が小説コンクールで入選しデビュー作にもなった「平成最後のバレーボール」が、ベストセラーとは言わぬものの重版を繰り返し、現在までに五万部ほど売り上げた成果から舞い込んできた彼の唯一の執筆の仕事であった。それは蟻やケルベロス等の人外が突然ノーベル賞を受賞するという創作で、中身などないようなものだった。デビューから五年が過ぎ、世間からは当に忘れ去られている三流作家のコラムなど、誰も読んではくれないだろうと本人も自覚しているものの、編集者の間では毎回好評のようで、何とか打ち切らずにここまで続いてきたのであった。


 けれど先月の末に出版社に裏金疑惑が持ち上がり連日紙面を賑やかせたと思えば、それが引き金のように重役のスキャンダルが公となり、あっと言う間に倒産の話が持ち上がってしまったのであった。そのため入江のコラムが載る月刊誌も、当然のように休刊になってしまい、二人はその月の報酬が絶たれてしまったのであった。

金の当てが無くなった入江は翌日から牛丼屋のシフトを週五日に増やし、休日である水曜日も朝早くからデパートの清掃バイトに出かけ、何とか生活水準を維持しようと努めていたのだが、こうぼうは相変わらずぶらぶらと近所を練り歩き、公園のベンチで時間を潰すという変わらぬ日々を過ごしていたのであった。


「なあに、休刊になったくらいでしょげてんじゃないのよ。あんたなら何とかなるわよ。この前の『新潮』に載った中編小説、編集者から大分好評だったみたいじゃない。あれが芥川賞取ればすぐにでも億万長者の仲間入りよ」


 こうぼうはそう言って休刊になった雑誌『開園』を叩きながら笑っている。碌に働きもしないのに昼間から安酒をあおり、ぶつぶつと小言を吐きながら方々をうろつくものだから、近所の者は顔を合わすことを避け、身辺者にはあんなあぶれ者には近づくなと常日頃から諭している。そのためこうぼうが毎日訪れる公園には、彼が立ち寄る午前一時から三時の間に人が立ち寄ることは無く、学校が終わって遊びに出る少年らも、隣町の市民公園に居場所を構え、決して彼に近づこうとしなかった。


 昼過ぎに目覚めたこうぼうはいつものように外套を羽織ると外へ散歩に出かけた。普段なら居間の卓袱台に入江から昼食代の五百円玉が置かれているのだが、この頃は見かけることが無いため腹ごしらえができない。彼は家を飛び出すと二区画先を流れるオオオカ川に寄って魚を捕ろうと考えた。二級河川のその川は、半世紀前に人工的に造られたものであり、水面には油のような膜が絶えず漂っていてとても魚の住めるようなところではなかった。けれどこうぼうはそんなことお構いなしに、川に入れば食料にありつけると思って、真冬だというのに海パンを履き込み、引っ掛けたサンダルをぺたぺたと鳴らしながら家を飛び出したのであった。思い立てばすぐさま行動に移すのがこうぼうの常だった。莫迦なのである。


 雑居ビルと住居ビルが入り乱れる区画を五分ほど歩くと道が開け、長々と流れる川が見渡せた。ロータリーのようになった道沿いには桜の木がどこまで伸びていて、毎年四月になると見事な花を咲かせ住民を賑わせるのだが、枯葉の落ち去った梢は栄養失調の女のように腕を寒風に操られ何となく寂しげな様相を呈している。車一台が充分に通れる幅の広い石造りの橋の中央まで辿り着いたこうぼうは、そのまま欄干に手をついて飛び込もうと意気込んだが、いざ飛び込むとなるとやはり躊躇してしまう。飛び込めばすぐにでも魚が取れるというのに、危険から身を守る人間の本能であろうか、足がすくんで身を投げることができない。そのまま川を流れる白い膜を眺めやり、何も慌てることはないじゃない、急いだって魚は逃げやしないわよと、己を戒めて呼吸を整えていると、矢のように素早く訪れた川風がこうぼうを包み、防寒ブルゾンの隙間から真冬の寒風を通して全身に鳥肌を立たせた。その時であった。


「くっさあ」


 突如として鼻翼を掠めた異臭に驚いてこうぼうはその場に倒れ込んだ。何よこの匂い!まるで五日間放置したクリームシチューに小便を垂らしたみたいな香りじゃない!彼は咄嗟に鼻を覆うと欄干の下柱にしがみついて大きく嗚咽した。けれど彼の空っぽの胃からはこれといって吐き出すものがなく、一昨日散歩の途中でしがんだドックフードの残骸がドゥドゥルルーと力なく口腔から零れたきりで、体内に蔓延る異臭の不快感から解放されることはなかった。事実その異臭の正体は、彼の日々着衣し続けてきた防寒ブルゾンから発せられたものであり、もう一か月と洗濯していなかったそれは彼の体臭が染みついて、生乾きのような香りが冬の木枯らしによって、汗ばみ饐えた体臭と合わさって途轍もない臭気を放っていたのであった。それは先ほどの彼の言葉を借りれば五日前のシチューにおしっこを垂らしたような……いや、そんな筈はない。彼は今年の四月に測った体重よりも五キロ増え、風呂は一週間と入っていなかったから、彼の体臭はそんなものではなかった筈だ。それは言葉に出来ぬような人知を超えた臭気。仮に例えるのならくさやを両脇に挟んだおっさんが上裸で抱き着いてくるような感じである。ボエッツ。想像しただけで吐き気が止まらんわ。ゴホ、ゴホホ、ゴホホホホ、オエッツ。

おい、誰か水を持って来いよ。


 そんな己の体臭に参ってしまったこうぼうは川に入るのを止めてしまったのであった。急に現れた異臭の、その強烈なエネルギーが彼の脳を刺激し、普段の冷静さを取り戻したのである。まったく、何を考えているのよあたしは!川に入れば明日着るものが無くなっちゃうじゃないのよ!彼はそう言って臭気を放つ上衣を大事そうに抱きしめた。彼の防寒ブルゾンは何を隠そう一張羅であり、それを失うとなると彼はこの真冬中下着一枚で暮らさなければならないのだ。


 入江の給料日まで洗濯する金もないのだから、はじめっから川に入るなど無謀なことだったのだと、急に焦燥が身を打ち始めた身体に、またしても真冬の疾風が胸を撫で、彼は俯きながら橋を離れた。なぜそれを家を出る前に気が付かなかったのだろうと、真顔で思わず突っ込んでしまいたくなるが、阿呆な彼には何を言っても無駄なのである。


 そのままトボトボと元の雑居ビルの入り乱れる区画に足を踏み入れると、身体が自ずといつもの散歩ルートに乗り、家とは逆の方向に足が進むから、気が付いた時には彼はいつもの公園の前に辿り着いていたのであった。


 それは市内のどこにでもあるような、住居に囲まれた小さな公園であった。太陽をいっぱに湛えたブランコが二台に、馬を模したスプリングが一個。徐々に高くなる鉄棒三兄弟に四畳程の砂場がある、至って普通の公園であった。


 彼はこの公園好きだった。閑静な一帯に孤島のように現れたオアシスは、平日の午後にも関わらず静まり返り、屹立する灌木からうら寂しさが現れているようだった。けれど彼にはこの寂莫とした雰囲気が心地よかった。忙しなく時を刻む都会に喧噪のない空間は貴重であったし、ましてや現在の一文無しの生活に、この落ち着き以外の何物をも備えていない公園の存在は、彼を冷静にすることのできる唯一の居場所でもあったのだ。


 入口に付けられた車止めポールに手をついて、いつものように木陰のベンチに腰掛けようと右足を出した時、こうぼうは咄嗟に踵を返して後ろへ回った。あら?何かおかしいわよ。彼は公園には入らずに、公園を囲むように植えられた椎の木に身を隠し、顔だけをベンチのある木陰に覗かせて息を潜めた。彼の目線の先、即ちブランコの隣に備え付けられた木製のベンチに、見知らぬ少年が座っていたのである。彼の特等席とも言えよう板付のベンチは、彼の訪れる時間になると、ちょうど頭上の大木の葉上に太陽が当たり、透かせた陽だまりが彼の手元を明るくさせるため、彼はそこで読書をしたり、思いついた言葉を適当に書き留めたりするのが好きだった。


 けれど今、彼が座ろうとしているベンチに見覚えのない少年が座っているのだ。大人三人がゆうに腰掛けられる板張りの中央に、きっちりと脚を揃えて腰掛ける少年は、今風に伸ばした襟足を微かに揺らせ、しゃきりとした背で端然と構えているのだ。けれどその面立ちは純粋無垢そのもので、絶えず輝きを放つ凛々しい双眸の下に愛らしいニキビが窺えた。目測から十五六と思われる少年の手元には大きなパンが添えられ、サンドウィッチであろう包んだサランラップが桜色の唇に吸い込まれていく。そんな見知らぬ侵入者の様子を、こうぼうは動揺の眼差しで見守っていたのであった。


 通常のこうぼうなら即座にベンチに駆け寄って、誰よアンタ。あたしの特等席からどきなさいよ!と怒鳴り散らして先客をどかしてしまうのだが、今日の彼はそうではなかった。大木から身をよじらせて、じっと少年の様子を窺っているのである。棒のように細い腕で幹を掴み、肩まで垂らした髪を震わせ、少年から決して目を離そうとしない。そんなこうぼうの様子は異様そのもので、傍から見れば不審者と思われても仕方がないのだが、何を隠そうこうぼうが見ているのは少年ではなく、彼の手に持ったサンドウィッチなのであった。前述のとおり朝食兼昼食を逃してしまったこうぼうは、自分がもう二晩と碌なものを食べていないと明瞭に思い出し、たちまち膨らんだ食欲という魔物に捉えられてしまったのであった。彼は少年の頬張るサンドウィッチが食べたくてたまらなかったのである。


 まあ!あのガキったら、何て美味そうにサンドウィッチを食べるのかしら。あんなにおっきなパンを一口で……潤んだ唇に吸い込まれた食パンが、食んだ瞬間口いっぱいに広がって、唾液が柔らかいパンの生地に押し込まれる。するとレタスのシャキッとした食感が、生ハムの塩味と共に鼻奥を快感で満たすのよ。そうして一瞬の陶酔にうっとりしていると、直ぐに次のパンが口腔をいっぱにして、喉を通る瞬間に幸福が身を包むの。あぁ美味しかったって。脳に響き渡るように感謝の言葉が溢れ出て、震えた全身に快楽が脈打つのよ!あぁ快感!たまらなく快感!いっそのことあの青臭いガキんちょごと食べてしまおうかしら!


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